姉の離婚

 めんどうくさいことに、なんて言えば他人事になってありがたいが、こりゃまあめんどうなことに、姉夫婦が離婚したらしい。「らしい」というのは、一切の連絡もシカトしているので裏が取れていないという意味でしかない。ぼくはすこし古い考えだから「子どもが三人もいるのに」という反応をしてしまいがちだが、いまどき「面前DV」なる概念があって、子どもの前で喧嘩するぐらいだったらすっぱり離婚したほうがマシなのかもしれないとも思う。

 姉が結婚したときも、ぼくはシカトしていた。離婚するだろうと思っていたので、無責任に「おめでとう」なんて言ったら、その世辞にぼく自身が参ってしまうから言わなかった。案の定、離婚する展開となり、さすがに「ほらね」なんて言えないし、子どもが三人もいるのに離婚の方向に進むとは想定していなかったし、なにを言えばいいんだろう、と悩んでいる。

 ロゴセラピーよろしくことばで癒しを与えることができればよいのだが、いまのぼくの状況では、物申すためのことばしか出てこない。なにがいけなかったか指摘するぐらいしかできない。最初から冷めていたぼくには、姉の離婚が、まるで異国の悲劇にしかみえない。セリフもわからなければ、登場人物のテンションにも同調できない。こういうとき一緒にうぇんうぇん泣けたらどんなに楽なんだろうと思うけれど、子どもたちの置かれた境遇と、じぶんの過去を重ね合わせて自慰行為のように泣くぐらいしかぼくにはできない。情けない。

 うちは親が離婚して、姉夫婦も離婚していて、ため息しかでない。好きじゃなくなっても、そのひとと一緒にいたいって強く思えるなにかがなければ、勘定の残高も燃料も底を尽きる。年収で選んでもいいし、ルックスで選んでもいいし、居てほしいときにそこにいてくれたみたいな理由でもいいけれど、見抜かなければならないのは、相手の条件とか今日明日の承認欲求ではなく、じぶんの長い長い承認欲求と許容欲求だろう。技術が進歩して、これからどんどん時間と距離の関係が変わってゆく。時間は相対的に長くなってゆく。そのなかでどう相手をリスペクトする。同じ相手とどう承認しあってゆく。考えなくともできるひとは素晴らしいが、考えないとできないなら考えるしかない。理想論を懲罰されてもなおやまない理想を心にはぐくめ。

 というわけで、なにがつらいのかダラダラ書いているうちにわかってきた。子どもの境遇が1/3、悲劇に同調できないのが1/3、どの家族も離婚するんじゃないかというオーバージェネライズの拒絶が1/3。わかればなんてことないが、わかったところで結構つらい。