ゆとり世代のラグーンから飛びだす

 ゆとり世代はひとのせいにする――そう見えてもしかたないと思うところが(多々)ある。だからといって、それがすべてゆとり世代のせいなのかと問いたい気持ちもある。不毛な世代論を抜きにしても、いまの時代、あるいはここ十数年、「生涯をすごす」とか「キャリアを積む」といった概念に、とびっきりの魅力があったかどうか、とても怪しい。

 人間は「どの選択をしても悪影響がある」場合、意思決定の権限をだれかにゆだねる。ゆとり世代にとって、生涯だのキャリアだのの先にあるものは、どれも評価の低い旅館みたいなもので、このなかから選ばなきゃいけないのか……といったメランコリーが平等に配られている。

 ゆとりは怠惰にみられがちだし、実際、そのように認識されていると言える。だが、もしゆとりの目の前に「星五つ」の旅館ばかりが並んでいたら、元気よく、ワクワクしながら、主体的に選び始めただろうと思う。バブルへの当てつけで言っているわけではないが、選びたくないものしか並んでいないとき、ひとは怠惰になると相場で決まっている("Passing the Buck: Delegating Choices to Others to Avoid Responsibility and Blame," by Steffel, Williams, and Graham)

 ここから、悪循環にするかどうか、ゆとり世代が決めることになるだろう。レビューの低い「生涯」をまえに、それでも魅力的に選びとり、次の世代のためのレビューを築くか、やはりひとのせいにして、文句を言いながら低いレビューをひたすらつける旅に出るか。

 ぼくらは、どちらも選べる。どちらかになることを選択できる。A案「割を食って露骨に責任転嫁する」のか、B案「不平不満の壁で隔離されたラグーンからあがって自由な大海の魅力を探検する」のか。

 もしB案を選ぶなら、じぶんのラグーンがどこまで広がっているのか、知るところから始めなければならないだろう。