読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

なぜ障害者差別がなくならないのか

 百人いたら、九十四人が健常者で、六人が障害者ということになる。その六人のうち重度の障害を得ているひとは、施設などに閉じこめられたりしながら、できるだけ人々の暮らしに姿を見せないよう強いられている。それを「差別」というキーワードで非難するひともいれば、やむをえないのだ勝手に納得して沈黙に徹しているひともいる。
    たとえば六人がすべて健常者になれば、年間の2兆円に近い障害福祉予算が健常者のほうに回ってくる。逆に九十四人が障害者になったら、この国は成り立たなくなるかもしれない。九十四人が健常者であることは、あまり語られないが、日本の社会にとって非常に大事な前提となっていると言える。
 身体障害、知的障害、精神障害内部障害、いろいろな障害がある。見えるものから見えないものまで様々なのだが、どうしてそれ以外は障害ではないのだろうか。いや、あてはめようと思えば、拡張しようと思えば、九十四人のうちの半分は、障害と健常のグラデーションによって、なにかしらの障害を得ていることになるだろう。それなのになぜ、ぼくらは健常者として生きているのだろうか。
 障害者差別がなぜなくならないのか、という問いにひとつの暫定的な回答を与えるとすれば、それは、健常者にとって「なってはいけない存在」だからである。
 もちろん障害者をいっしょくたにして語ることはできない。施設というところで社会から排除されている重度のひともいれば、二種までもらったのに一円としてもらえず健常者のように働いているひともいる。あるいは重度障害者のなかにも自立支援や生活支援を受けて地域に参加しているひともいる。寝たきりになって数百万円の障害年金を溜め込んでしまっているひともいる。障害年金生活保護をパチンコに費やすひといるし、親が金持ちでベンツに乗っている障害者だっている。もちろん不正受給するひとだっている。いろいろだ。
 ただ共通して言えることは、すくなくとも健常者との「ちがい」を強調していかないと、優遇する根拠を失ってしまうことである。健常者のようには働けない理由が必要で、そこを強調することで差別が生じてしまうのだと思う。
 たとえば手が一本ないということをどう解釈するかという問題がある。「手が一本ないだけ」と思うことも可能だし、「手が二本なくては生きていけない」と思うこともできる。本人の解釈もあるし、まわりの解釈もある。あたりまえだが、正解なんてものはなくて、「手が一本ないだけだろ、ガタガタ言うな」と切り捨てることも(賛成はできないが)まちがっているわけではない。
 それに対する「あなたが手を一本うしなったときに同じことが言えますか?」という応答が、倫理めいたことを勉強しているひとたちのキーフレーズとなっているが、もちろん即答でイエスのひとだっているだろう。同じ状況を想定させることが正解というわけではない。イエスと答えるひとたちにとって、身体障害者とか四肢不自由のひとが優遇されるのは納得のいかないことであり、圧倒的に説明不十分のことである。じぶんは〈こんなに〉苦しい暮らしをしているのに、なぜ手が一本〈ないだけで〉月に何万円も税金が使われて、障害者枠で就職することができて、優遇されるのかという疑念に、正しい回答を与えることはむずかしい。
 ちがいを強調すればするほど、差別は助長される。推奨されるといってもいい。〈俺の生活だって手が一本ないのとおなじだけ苦しいんだ〉と主張するひとに対して、ぼくらはなにができるのだろうか。我慢してくださいと言うべきか、じぶんの苦しさを過大に見積もってますと追い返すべきか、まず就職活動してくださいとさとすべきか。九十四人の健常者の生活を覗いてみたら、何人ぐらいが我慢を強いられていて、何人ぐらいが追い返されていて、何人ぐらいがさとされているのだろうか。
 「差別はしてはいけません」とか、「障害は個性です」とか、「尊厳は大切です」とか、そういう大事な原理があったとしても、その原理を採用することによって排除されてしまうひとたちもいる。九十四人の健常者が、六人の障害者よりも生きやすいかどうかは、だれにもわからない。生活保護を拒否され餓死したあのひとはどっちだったのか、あるいは話を聞かずに追い返した市役所の職員はどっちだったのか。あなたの嫌いな無能な上司はどっちなのか。毎朝のように駅員に文句を言っているあのサラリーマンはどっちなのか。飲み会あとの駅前で信じられないほどの大声で笑いあっているあのひとたちはどっちなのか。
 無能なアイツを「無能だな」と見下すことは簡単だが、もしかしたら軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのに、支援を受けることができていないひとなのかもしれない。あるいはいちいち他人がじぶんよりも無能かどうかを気にしなければ生きていけないひとも、軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのかもしれない。
 それでも支援はありえない。「もっと支援すべきひとたち」が存在することによって、そしてその根拠として差を強調することによって、支援されたほうがいいひとたちは地力で生きてゆくことになる。「大して変わらない」という思いを抱きながら、障害者とじぶんはちがうんだということを学習する。
 だれが割を食っているのか。福祉の根拠とはなにか。差別を「挟む」ことでしか成り立たないぐらい、みんなが困窮していて、みんなが割を食っていて、みんなが支援を求めている。障害を得たひとを優遇しようね、というなんてことのない話が、もう無理になっている。
 逆にいえば、割を食っていると思わなくなれば、ことさら障害者優遇の根拠として「ちがい」を強調しなくてよくなるし、差別もなくなっていくのだと思う。「優遇」からじぶんの存在が取り消されても、それでもじゅうぶんにやっていけるだけのお金やリソースがあれば、疎外感をいだくこともない。「なんであいつだけ」という感覚に陥らずに済む。
 いまは差別が前提となっているため、差別をなくすことはできない。「ちがう」ということを強調することで我慢してもらっているため、どうしても分断しなければならないところにいる。「差別はいけません」と言い続けることがなんになるのか。差別者を断罪することがなんになるのか。人権を振りかざしてなんになるのか。尊厳が大事だというひとは、昼過ぎから次の日の昼前まで拘束されて日給9,000円しかもらえない障害者施設の労働者の尊厳をどう考えるのか。ご飯を顔面に吐き出されて罵倒を浴びせられたあとの、粗大ゴミのような気持ち、それでも障害者だからしかたないしそれが私の労働なんだと気を取り直して、もういちど食べてくれるようコミュニケーションし直すときの、あのときの労働者の日給9,000円の尊厳というのは、見逃されがちだろう。
 「尊厳が大事だ」「障害者を差別するな」「人権を守れ」というのはどれも大切なことなのだが、朝昼晩で拘束されながらゴミのように扱われながら9,000円しかもらえないのに、それをだれかがやらねばならなくて、それをあなたがやってくれるのかという話だって大切だろう。
 さて、ぼくらはどこを出発点にすべきなのだろうか。差別が前提になっている社会のありかたか、それとも人権という原理か、施設労働者の尊厳か。障害者としては認められていないけれど、割を食っているひとはたくさんいる。そういうひとたちは、これまで通り健常者でいいのか。自己責任論で一掃するか。何度でも最初から考え直したいことだと思う。