敬遠申告制について考える

 日本の野球のルールがバカスカ変わっている。
 そのたび賛意両論あるわけだけれど、今回の「敬遠申告制」の問題ではバッシングに近い勢いで反対派のひとたちが憤っている。気持ちはわかるし、声を荒げることで野球ファンなじぶんを主張したいのもわかる。だけど、どんな変更にも功罪がある(はず)。もうすこし冷静になってかんがえてもよいのではないかと思う。いま一度、野球観戦の前提から出発してかんがえだしてゆければさいわいである。
 スポーツ観戦がおもしろいのは、「意図した通りではないけれど予想の範囲内」というちょっとしたズレの部分でしっかりドラマが展開されるところだろう。もちろんスポーツによっては、ド派手なチアダンスがあったり、おもしろい広告が巨大なスクリーンに流れたり、選手がイケメンぞろいだったり、まあいろいろあるだろうけれど、代替できない部分としての醍醐味は、ほどよく――あるいは予想通り――裏切られることである。
 予想通り裏切られるというのはパラドキシカルに響くが、要するにベタということでもある。感動系の恋愛小説を読むと、ふたりのあいだに「出会い」があり、「希望」があり、「試練」があって、最後に、その恋の結論が出される。「信じられない不幸がふたりを襲い、ふたりのほんとうの愛が試される」と煽ったとしても、そこで書かれることは予想を上回らない。彼氏が急にUFOに連れていかれるような展開では、興覚めはなはだしい(もちろんそういう文学があってはいけないという意味ではない。ガルシアマルケス森見登美彦などがよく使う「魔術的リアリズム」という手法なんか、まさにベタと興ざめの紙一重をコントロールする高等テクニックである)
 ぼくらはいつでも安心して「ふたりにこんな運命が待っていたなんて」と裏切られる。それでいい。そしてその〈裏切られ〉の充足感を基礎づけているのが「すべての過程をお見せする」ということである。過程を省略された途端に、充足感は薄れてしまう。たとえば、運命的な出会いをしたふたりが、たった二ページ後に、神のいたずらとしか思えないような不運によって離れ離れになっても、「え、あ、ああ」という感じになってしまうと思う。身分のちがうふたりがいろいろあって出会い、紆余曲折あって結婚しましたという一行では物足りない。そのあいだになにがあったのかをお見せしてもらわねば困るのだ。
 その意味で、野球において、投手が投げなくていい球など一球もない。お見せしなくていい投球などありえない。敬遠を申告制にするということは、その部分を「番組的にカットすること」と等しい。もちろんバラエティ番組だったら「いろいろお見せする」のが醍醐味だから、そのためにカットされた過程がいくつも「お蔵」に伏在している。ロケ映像で移動を倍速にする工夫もある。それは「いろいろお見せする」という”Variety”の基礎づけがあるからこそ成り立つのであって、エンターテイメントによる基礎づけではない。
 しかしながら、そうは言っても、時間短縮の流れは現状の要請でもある。野球観戦は、野球観戦以外の魅力に欠けている。ファンからすればノープロブレムだろうけれど、ファンではないひとにチケットを買わせる根拠を考えたときに、野球観戦は絶望的だと言える。
 チアダンスは遠い。マスコットは身内ネタに走りがち。花火はありがたみがない。ルールがまったくわからない。動かない時間が長い。ブラスバンドは掠れてる。応援歌は聞き取れない。飲食が高い。そもそも飲食しにくい。ボールが飛んでくるの怖い。打ったあとの打球が小さくて見えない。周りの野次がひどい。リーグ戦の文脈とかどうでもいい。駆け引きはいいけど遠くて顔が見えない。イケメンはいいけど遠くて顔が見えない。試合時間長いのに椅子が優しくない。トイレまで行くと余裕で帰ってこられない。いいから早く被打してほしい。途中からしか来られないひともいるからドラマを共有しにくい。ワンサイドゲームで帰るひと多いから罪悪感さえ生じる。だいたい酒飲んでて見逃しやすいのにリプレイがほとんどない。清潔感がない。帰りの電車が混む。本気で喧嘩してるひとたちがいる。中立的な席が少ないか高い。
 これだけ並べても野球観戦がしたいというファンはたくさんいる。その事実がすでに野球観戦の魅力を端的に示しているのだが、それは説得力として機能しない。選手に払う年棒は、もうファンの落とすお金やスポンサーだけでは足りなくなってきているのだ。もっと気軽にひとを呼べる興行となる必要が生じている。
 敬遠を申告制にする。それはとんでもない決定なのだが、この事実が示唆している運営的な事情についても、ファン一人ひとり選手一人ひとりが意識できたらよいのではないかと思う。