ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

「付き合う」とは、恋人同士がたがいにありもしない他者を想定することである

 ぼくと付き合ってください――なんて言った経験が、多少なりともぼくにだってある。いま思うといったいぜんたいハテナなことばだが、当時は、そこに信じられないほどのリアリティとアクチュアリティがあったと思う。その「愛の告白」の高校生バージョンは、個別的かつ普遍的なできごとのように思え、そのことばを吐き出す勇気を醸造するのに高校時代の貴重な数か月を要した。
 最初のころは、「なぜ付き合うのかと言えば、おたがいが好きなんだから付き合うのだ」ぐらいのなんの説明にもなっていないものだったが、そのうち思考もませてきて、「特定の異性とたがいに首尾よくやるための関係(の名辞)」ぐらいに思うようになった。そこから数年間、この結論で満足していたのだが、ようやく「じゃあそれはなんでなんだ、どうやっているんだ」という思考が追加された。
 それに対するひとつの回答として、相手の信じているであろう虚構を採用することで首尾よくいく、と断言したい。恋人だからセックスをする、恋人じゃないからセックスしない、といった一夫一婦的な虚構を《きっと(どうせ)相手は信じているんだろう》という想像のもと、一夫一婦的な関係が成り立っている。
 セックスをしたいとか、それの緩やかなバージョンとして触れ合いたいとか、まさぐり合いたいとか、身体的に肉体的につながりたいとか、抽象化して寂しさを埋めたいとか、まあなんでもいいけれど、そういうのはたぶんありがちな欲望で、だからそういう欲望はありがちに解消されればいいのだけれど、どうしても「一夫一婦的な貞操観念をきっと相手は信じている」という思い込み合いがあるので、恋人関係にあるひととしかセックスしてはいけないという掟が生じる。ありがちな欲望のありがちな解消機能を請け負い合い、恋人がセフレ化する。
 浮気もすぐにする。巷間で言われている「浮気するならバレないようにやってほしい」という謎の注意事項だって、《一夫一婦的なセフレ》という微妙な位置づけを受け容れているからこそ生じるものだと思う。あるいは浮気の責任を(ふたりの共通問題・共通責任にせず)一〇〇%浮気したひとに帰属させる過剰で独裁的な断罪思想が「ふつう」になっているのも、浮気という掟破りな行為への神経症的な不安からくるのではないかと思う。
 もちろん全カップルにおける全男女がそうだと言いたいわけではないが、たくさんのひととセックスしたり、そのゆるやかなバージョンをやりたい願望を持っているのに、一夫一婦的な虚構を《きっと(どうせ)相手は信じているんだろう》という騙され合いによって、せまい価値観のなかでおたがいを使い捨て合うことになっている。
 ぼくらがいわゆる「ビッチ」をなんの理由なしに叩こうとしたり、「ビッチ」の存在にいびつな嫌悪感をいだいたりするときは、決まってそれはダサい自己嫌悪に由来している。ぼくらは「たくさんいるであろう好きなひと」と触れ合いたいのに、それをみずから抑圧して、恋人をセフレにして、たまにバレないように浮気して、後ろめたい気持ちのまま距離ができて、別れて傷ついて、そういう実りのない自己束縛の不毛さが行き場をなくし、ビッチ叩きに流れ込んでゆく。
 逆に、いわゆる「女好きイタリア人男性」のようなアイコンに憧れるのも同根である。括弧付きの「イタリア人男性」は、しっかりと口説くことから始める。ガールフレンドひとりだけじゃなくてより多くのひととセックスだったり、まさぐり合いだったり、撫で合いだったり、添い寝だったり、キスだったりをしたいという願望と、生きるべき世界の事情をすり合わせてゆく。ビスポークで仕立てられたセクシーなスーツを着て、身だしなみを整えて、ウィットの利いた甘いことばと、そこはかとなく漂うワンナイトラブ慣れしてそうな期待感、そういったもの全体で「口説く」という倫理を持ち出す。
 その徹底的な手口への情熱に、ぼくらは憧れ、コムプレックスをいだく。相手が一夫一婦的な虚構を持ち合わせているかなんかどうだってよくて、彼らは「俺は君とヤリたいが、君は俺とヤリたいか」というアクチュアルな願望の達成――ふたりでたどり着くべき円錐の頂点――について全身で問いただしている。(もちろん断っておくが、奥手なイタリア人もいる。当然のこととして、声の小さい中国人もいるし、ノリの悪いスペイン人もいるし、味音痴なフランス人も、陰気なアメリカ人も、不真面目な日本人もいる)
 ラカン的に言えば「騙されないひとは彷徨っているんだよ」ということだろう。「イタリア人男性」は彷徨っているから、変な思い込みに騙されない。俺が今夜ヤリたい君と君が今夜ヤリたい俺の二重一致を探し彷徨っている。
 このダラダラしたトークでなにが言いたかったか――「付き合い」というのは相手の想定を想定することでなにも確かめずに話だけを進めるということである。話さえ進んでゆけば、ぼくらは「うまくいっている」気がする。話が滞ると「うまくいっていない」気がしてしまう。なにごともないことは善いことであるという短絡的な推論で平和を決定する。〈相手のことが好きだから〉相手のことはお見通しで、ぼくらはそうやって首尾よく事を進める。手をつないで、下の名前で呼んだ、部屋に遊びに行った、キスをした、エッチをした。そうやって具体的な行動が「進んでゆく」ことで、うまくいっていると評量できると思っている。
 恋愛は盲目の病ではなくむしろ〈透視の病〉だと指摘したのは、ロラン・バルトだった(『恋愛のディスクール』)。恋人のことならお見通しだという全能感は、そもそも付き合うことが、相手が信じているだろう虚構をあえて採用しながら首尾よくやることであるところから生じていると思う。
 それが悪いことだとは言わないし、否定するつもりもない。だけど、その〈思い込みの回り込み〉は、行くところまで行ったときに必ず撃沈する。こういうことを信じているだろうと信じることは、欲望の加速の燃料となってくれるが、ブレーキになってくれることはない。ときには関係や世界を相手どって「口説き明かす」ことも必要なのかもしれない。

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ラカンからの着想でしたが、当然、ジジェクにご執心のぼくは、ジジェクからに拠っています。

そこでは、よく知られているように、どこの店にもつねに何かが欠けている。トイレットペーパーが市場に豊富にあるという仮説から出発するとしよう。突然、出し抜けに、トイレットペーパーが不足しているという噂が流れ出す。この噂のせいで、人々は争ってトイレットペーパーを買い漁る。そしてもちろんその結果、トイレットペーパーが実際に市場から姿を消す。一見すると、これは予言の自己成就という単純なメカニズムみたいに見えるが、実際にはもうちょっと複雑なメカニズムが働いている。各個人はこう推論する。「私は素朴でも馬鹿でもない。店にはトイレットペーパーが腐るほどあることを知っている。しかし多分、噂を信じる素朴で馬鹿な連中がいるだろう。連中は噂を真に受け、それにしたがって行動するだろう。つまり必死になってトイレットペーパーを買い漁るだろう。そうしたら実際にトイレットペーパーがなくなるだろう。私はトイレットペーパーがじゅうぶんあることを知っているが、それでもたくさん買い込んだほうが得策だろう」。重要な点は、この「信じているはずの他人」がかならずしも実在しているとはかぎらないのである。「実在するはずだ」と他の人々が考えさえすれば、その効果は実際にあらわれるのである。明確に閉じられた集団においては、どの個人もこの「信じているはずの他人」の役割を演じることができる。誰が演じても結果はまったく同じである。トイレットペーパーが実際になくなるのである。最終的にトイレットペーパーがなくなって困る人は真理に固執する人である。彼は「これは噂にすぎない。トイレットペーパーはじゅうぶんある」と自分に言い聞かせ、それにしたがって行動するのである。

――S・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』