ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

カラオケは作家のストレス発散なりえるか

 ぼくはよく歌う。カラオケではなく、部屋や公園でアコギを、あるいは無伴奏で唐突に。なぜ歌うのかという問いを人類学的に答えようと思えば、エスキモーの例にならって危機回避なのかもしれないが、ぼくの場合はおそらくちがう。
 大事なのは、ことばを何度も吐き出すことである。歌うときというのは、ことばが蓄積しているときであって、陽気なときではない(よく誤解させてしまう――だが陽気かつことばを吐きたいという場合もある)。もちろん具体的な計算をするためにひとりごとをぶつぶつ吐いているときもあるが、そうじゃなくて、もっと抽象化されたイメージが、『テトリス』のように、時間ごとに、積み重なってゆき、ゲームオーバーになるときがある。そうなるまえに、クリップボードをフラットにしないといけない。〈rm-r〉コマンドをぶちこんで、〈ことば〉のディレクトリツリーを削除していかなければ、思考回路がやられてしまう。善き対症法かわからないが、だから、歌うのである。
 だが「よく知っている楽曲」では過剰歌唱となる。あやふやな歌詞でしか歌えないような楽曲を、まるでよく知っている楽曲のように歌うのがちょうどよい。耳馴染みだけがある楽曲というのは、とても貴重である。BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』をまるまる歌ってしまうのは最悪で、感情も入ってしまうし、ことばも放流しすぎてしまって、歌い終わってすっからかんになる。
 もちろんストレス発散という観点からすれば、それが最大目的のような気もするが、ぼくがストレスを抱えているときはだいたい「ものを書いているとき」なので、やり過ぎるとまったく書けなくなってしまって余計にストレスになってしまう。
 そんなわけで「カラオケ」というのは非常に苦手なもので、いや、それ自体が苦手というわけではなくタイミングをはかるのが非常にむずかしい。すくなくとも(1)なにかしら歌わなければいけないし、(2)歌える楽曲を選ばねばならないのであって、これはかなり厄介な調節を必要とする。ただカラオケは他者が歌う歌詞が代理的にインプットされるので、それさえうまくいけばすべてがちょうどよくもなる。同席のひとが歌う楽曲は選べないから、そこはギャンブルになるのだけれど、そういう意味合いでカラオケはいつも緊張する(ちゃんと歌える楽曲がないという通常の恥じらいも加算で)
 ぼくはよく歌うし、ぶつぶつ言うし、マシンガントークをする。それはほとんど病的な様相なのだが、いつもみなさん個性として受け容れてくれて、ほんとうに感謝してもしきれない。もっと気軽にカラオケに行くことを選択できれば、ぼくのこの奇癖もなくなるのだろうけれど、カラオケはいつも心境の断崖にある。カラオケはいつもチャレンジングである。それでも楽しいから、誘われれば絶対に行くのだけれど。