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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

キドジロウ『ヒトリアソビ』

 ぼくらはだれでも《あの頃》という大小の過去をもっている。それは抽象化されてしまった「家」(Heim)であり、その具体なき家に傷つけられること(weh)でもある。もう〈そこ〉に還ることはできないのに、美化された〈そこ〉は私を傷つけてくる。
 「そんな過去なかったんだ」という取り消したい気持ちを悔恨と呼び、「それは過ぎ去ったことだ」という逆行できない気持ちを哀惜と呼ぶ。この矛盾するふたつの気持ちが「郷愁」を生むのだとジャンケレヴィッチは言った。
 そんな矛盾は日常性に回収されゆくし、「いまの能力のまま中学校に戻りたいなあ」と現実逃避している分には問題ないのだが、べつの、予期せぬことがきっかけで〈あの頃〉に戻ってしまうこともある。
 二十六歳・会社員の「セイジ」は、高校のときに好きだった「さや」を妄想のなかで犯し続けていた。自慰行為をするときはいつも「さや」を妄想の世界に呼び出す――十年間もずっと。だからセイジはアダルトビデオを視聴しないし、きっと女優の顔も名前も知らないのだろう。
 それは《十八禁》(R-18)という通過儀礼をうけるまでの男子の(もしかしたら女子にもあるのかもしれないがぼくは知らないので性差別の意図はなく単に男子の)フツーの原状である。つまり好きな子・気になる子を妄想して自慰行為におよぶのは、「あるある」とも言える。
 『ヒトリアソビ』は、その「あるある」を出発点にする。セイジは《あの頃》のイメージを、現実のなににも「代理させない」ことを選び続ける。そしてある日、問題が起こる――勃起しているときだけ、高校のときの「さや」が目の前に現れる。その日を境に、セイジの自慰行為は意味を変える。「さや」に会うための手段となる。射精するまでのあいだの何度かの会話で、実は両想いだったことが判明し、関係はより濃くなってゆく。いよいよ性行為をしてみようというところまでいき、セイジが中に出した瞬間、やはり「さや」は消えてしまう。勃起が「さや」を存在させ、射精が「さや」を不在にさせる。
 妄想は実現しないほうがいい。実現したら「なにかによって」奪われてしまう。ぼくらはそれに耐えられるほど強い存在ではない。妄想していたことは、私だけの妄想でなければならない。だれによっても、なにによっても奪われてはいけない。伏せ続けるに値するものなのだ。
 だから、わざと、関係のないものに《あの頃》を代理させることを選ぶ。十八禁というのは、妄想を大切に扱うために与えられた防衛の選択肢である。《むかしの恋人》というのも、それが妄想として成熟するから特殊な意味をもつのであって、現実で再演しなくてよい。そのイメージをいちいち「いまの恋人」にあてがわなくてよい。それは「不在」を強調するだけの、ひどくむなしい行為となる。

恋せずにいられないな 似た顔も 虚構にも
――星野源「恋」

 それでもぼくらは《あの頃》と似ているものに対して「恋せずにいられない」。《あの頃》の要素をひっぱりだしてきて、その一点豪華で好きになってしまう。元カレの面影に似ているひと、元カノの動きにそっくりなひと、そうやって勝手に代理してくる現実に対して、ぼくらはどうやって妄想を守ろう。
 セイジは、不在の性行為をした日から自慰行為をやめた。《あの頃》というのは戻れないからこそあり続ける。取り消せない形であるからこそ、固有のものであり続け、常に既に戻りたかった場所だと思わせる。ありかけていて、あり損ねている存在は、生活のなかに没しているぐらいがちょうどよい。
 その後セイジは、本物の「さや」と再会してお酒を飲む。彼女もむかしセイジのことが好きだったという話から、変な夢を見なかったかと問いかける。そのときの反応はなんとも言えないものだったが、旦那が待っているから帰ると言って去ってしまう。セイジはその場で自慰行為をはじめ、むかしの「さや」を久しぶりに呼び出す。最後にキスをする。お別れをする。じぶんのこだわっていた思い出しかたを「卒業」し、アダルトビデオで自慰行為をするようになる。
 全体的になんとも気持ち悪い話だったが、ぼくらが《かつてのなにか》を思い出したり、哀惜したり、悔恨したり、呼び出したり、取り消したり、逆行したり、伏せたり、似た顔や虚構で代理したり、若いときのやりかたでこだわったりする日々をうまく特徴づけてくれた作品だと思う。

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株式会社集英社週刊ヤングジャンプ NO.11 2017年2月23日号 通巻NO.1812』内企画「シンマンGP2017」
レイアウト:末長/岩崎/束野/五十嵐/巻渕/成見/シマダヒデアキ(L.S.D)
プリンティングディレクター:芋田雄一
印刷・製本:共同印刷