ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

「匿名だと本音を言う」という思い込み=期待について

※誰にも邪魔されない理想の本音→〈本音〉、じぶんや他人からの期待が先立っている本音→《本音》

 凶悪で特大な思い込み――「匿名になることで本音を言うようになる」。それはしごく尤もらしく、また受け容れやすい。まるで職場でお菓子を配るように、みんながこの思い込みを配り始める。だが、そんなことはない。もちろん発言権がフラットになっている以上、「ふだん言わないような/言わせてもらえないようなことを言う」ことはあるかもしれないが、それを即座に〈本音〉と同定することは、本人にも観測者にもむずかしい。
 ネットの内外、あるいは名前の実匿を問わず、〈本音〉というのはよくわからない。〈本音〉を言ったのかどうかセルフチェックしても、あやふやで、ぼやけていて、わからないままリセットされる。ネットの内側だろうが外側だろうが、ぼくは、そのときどきに設定してしまった自己値をなかなか変更できずに、これまで一貫してきたわけでもなんでもないふざけた一貫性もどき(即席の一貫性)を発揮してしまう。
 こんなクソみたいな会社辞めたいとツイッターでさえずり、会社ではスキルアップを目指して建設的な提案をする。給湯室では会社の悪口を言い、定時で帰るとホワイト企業でよかったと思う。親族には上場企業で働けて最高というポーズをとり、脳内の恋人には弱音を吐いている。どれが虚構で、どれが本音で――なんて区別は不能になっていて、それはぜんぶが虚構で、ぜんぶが本音で、ということでもある。
 こんな屁理屈(?)がまかり通ったら社会は大混乱するだろう。それでも社会の単位で混乱は起こっていない。「未成年の主張」だの「真剣10代しゃべり場」だの、そこで語られる〈本音〉は、だれかの確かな〈本音〉なんかではなく、コンテクストから決定される《本音》である。
 タクシーに乗るひとは「どこに連れていかれるのかわかったものじゃあない」はずなのだが、タクシー(ドライバー)はぼくたちを目的地に連れていきたいという《本音》を持っている。「タクシードライバー」とか「未成年」とか「10代」とか、そういった社会的な名詞には、社会的な期待がセットでついてきて、ぼくらの《本音》を決めてくれる。仕事中のぼくは「このシステム、こうしたほうがいいんじゃないか」ということを本気で考え、その素晴らしさを理解してもらえるような言語を選び、どこでどのように提案するかの断案をマジで下す。社会で社会人をやっていると、そのときの《本音》は、ちゃんと決めてもらえる――あとはその《本音》通りに自己機能するだけでよい。
 先のタクシーの例は、和辻哲郎なのだが、ルーマンも似たような話をしている。ラカンだって「本音じゃなくてそれはぜんぶ引用だよ」みたいなことを言うだろうし、ヴァンベニストも「言葉・語法・文法・人称から自由な本音なんかない」と言いそうだ。ぼくらが一貫できるような本音というのは、社会的期待とか文法とか文脈といった得体の知れないなにかに導かれた中動形の《本音》であり、ぼくらが自身で「えいや!」と繰り出せるそれではない。
 さて、冒頭に戻ろう。「匿名だと本音が言える」というのは、どういうことなのか。そこにあるのは、残念ながら、「〈本音〉が言えるはずだと期待されたことによって生じた《本音》」である。しかもそこには、タクシードライバーのような"指定の目的地へ指定の道順で連れていってくれる"といった明確な期待はないし、マクドナルドの店員のような"1分以内に注文の商品を提供し、そのあいだ0円で笑顔を提供してくれる"といった輪郭のくっきりした期待はない。ただただ「本音を言うはずだ」というアバウトな、文字化け同然の期待があり、その期待に導かれるようにして、自己分裂した《本音》を表出しようとする。
 しかしそれでは病的に不自由であることがわかってきて、正しい「ネット民しぐさ」を求める。それが人格機能というか、人格を自己指名し、そのしぐさを演じるものである。ツイッターのアカウント(人格)だったら、きっとこういうことを言うんだというしぐさの期待に好意的に乗っ取られる。まあ、ネタツイとか、腹減ったとか、トイレ行くとか、「○○、**なんだが、--だ」という論法だったり、「@各位 にゃーん」とか、まあそういうゆるいレギュレーションのなかで、半開きの仮面をつけて、半透明な《本音》を言う。
 フェイスブックの人格、ピクシブの人格、小説家になろうの人格、読書メーターの人格、任意のクラスタでの人格、別アカウントの人格…いろいろな仮面=機能=人格がある――まるでタクシードライバーのように。
 2ちゃんねるだけは自由に〈本音〉を交わしているかというと、あそこにも「名無し」という人格がある。むしろ「名無し」という容器=仮面こそが、最も「匿名になると本音を言うようになる」という期待に応えることのできるアイテムである。ネットでは、だれかの期待を自ら改新して向上させるダンピングまがいの人格を《職人》と呼ぶ。(ネット外の例で言えば)呼ばなくても来てくれて、言わなくとも目的地まで連れていってくれたら、タクシードライバー職人と呼べるだろう。その職人が、2ちゃんねるに集うものである。
 つまり「匿名ならこういうことを言うはずだ」という期待を、さらに越えるようにして「匿名しぐさ」を拡張する。いまやメディアで見ない日はないほど、一大勢力として広まった「ネット民」だが、そこには大したものなんてない。「ネットで話題」だからといって、それが話題性を持っているかどうかは判断できない。むしろネット民は「なにかを話題にすること」が期待されているのであって、いわば《仕事》をしているだけである。そのなかの限られた職人たちが、話題でもないものを話題にしようと――つまり期待されていること以上に機能しようと――して、なにか素材を見つけてきて炎上させたり、ネガティブにまつりあげたりする。
 それを「サイバーカスケード集団極性化などと称するのだが、きちんと翻訳するなら「ネット民による過労」となる。ネットで話題にしてもらおうと考えるひとたちが増えれば増えるほど、ネット民は過労になる。いまこそ〈画面の向こうにはひとがいる〉という腐った美徳を持ち出してきてもらいたいものだが、期待が過剰になれば、ネット民の《本音》が異状になることもある。

岡田斗司夫:どうしてこういうことになるのか、考えてみたんです。自分がここまで叩かれなかったら、こんなに真剣に考えなかったでしょうね。その意味ではいい機会でした。わかったことはね、彼らは「反証責任は岡田にある」と思っているんですよ。つまり、「疑いがかけられた」とか「今叩かれだした」とすると、「言われた人は反論するはずだ」と。つまり、岡田斗司夫は叩かれた。「それじゃ岡田斗司夫のサイトを見に行こう。もし、やましいことがなかったら反論があるはずだ」「反論がないのはアイツの責任だから、叩かれても仕方がない」となる。これは、おもしろい思考経路だな、と思ったの。おまけに、ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた。ぼくも含めて、「ネットをやっている人間はバカになる」なんですよ。
――『オタク論2!』対談

  別にネットだけが「バカになる」わけではなくて、過剰に期待され、それに《本音》で応えようとオーバーアチーブするうちに「バカになる」のだと思う。
 たとえば「君のことを幸せにするから結婚してくれ」と申請して、それが受理されたとしよう。もちろん《本音》で言ったわけではないのだからタクシードライバーが目的地に連れていってくれるがごとく)期待されても困るのだが、相手が《本音》と勘違いし、どんどん期待してしまい、あなたも"言ってしまったからには"などという奇怪な理屈でそれに応えてしまったとしよう。「幸せにする」から導かれる多種多様なワガママをすべてクリアしてゆくなかで、あなたは岡田的な意味で「バカになる」。相手も「じぶんが幸せじゃないのは、幸せにすると言ったひとのせいである」という思考回路になってゆく。
 ここまで極端な話ではないと思うが、期待を見極めないと本音は病んでゆく。月曜日の新宿御苑に行って、門の前で呆然としている外国人に「毎週月曜日はお休みなんですよ」とわざわざ親切に教えてあげる通りすがりの日本人を演じているときのぼくの本音は、すこし病んでいるかもしれない。笑い事じゃなくて。
 「タクシー」とか、「日本人」とか、「名無し」とか、「鍵垢」とか、「幸せの保証人」とか、ぼくらはなにかの人格容器に入って、その容器の用途に従って《本音》を繰り出す。規定を与えられた容器に入るの、大好き。ここにいて、これをしてさえいればいい、という状況、大好き。郷に入れば郷に従えなんて偉そうに命令されなくとも、こっちは早いところ郷に入りたいし、そのために郷を最短経路で検索するし、必要なら他人から郷を奪うぐらいの覚悟だってあるし、逆に奪われないように守り続けている――「心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る/奪われない様に 守り続けてる」BUMP OF CHICKEN『カルマ』)
 たとえば『機動戦士ガンダム』が、リモコン操作で戦えるロボットだったらどうだろう。あるいはポケモンのように「行け、ガンダム、十万ボルトだ!!」みたいな命令系統で済む話だったらどうだろう。いまいち盛り上がらないし、ジオン軍はさっさと滅びただろう。それでも『機動戦士ガンダム』では、どうしてもひとが中に入り(という言いかたは適切ではないが)、白兵戦を繰り広げる理由がある。宇宙で、ロボットが、接近戦で殴り合っている背景がある。だからこそ、おもしろい。兵器が進化した時代でさえも、兵器を容れ物にして――人格にして――やはりひと同士が戦うことになる。
 人格が大好きという話だった。ネットではたくさんの人格を選べる――ガンダム的に言えばどんなモビルスーツに乗って戦うのかを選べる――愉快さがある。「ツイッターの鍵垢」という窮屈な人格を選んだら、じぶんのあやふやな〈本音〉に自己嫌悪することになるし、「現実と戦うネット民」という人格を選んだら、『反論しないということは、間違いを認めるということですね』という意味不明な論法でもって世界を自浄している気になれる。おまえら人格好きだなあ、なんて風に距離をとって「達観人格」をしているぶんにはよいのだが、どうもニュースは「ネットによれば」とまるでなにひとつ虚構性のないものからの引用のようにしてしまうし、殺人や強姦があれば容疑者は「フェイスブック」や「ツイッタ」などのSNS――新聞では「無料会員制サイト」などと記される――から《人格》を探られて、犯罪心理学者などが偉そうに分析したコメントが載せられる。
 やめてくれ、やめてくれ。ぼくが性犯罪を犯しても、ツイッターで「チャイナドレスで抜いた」とか発言していたことを拾わないでくれ。いや、拾ったとしても人格を決めつけないでくれ。それは〈本音〉なんかじゃあない。なんとなくぼくがツイッターでこういうこと言ったら、なんとなくツイッターっぽさが出るんじゃないかなって思ったんだよ――と法廷で言い訳するかどうか考えると、それは法廷での被告人としての《本音》から外れるから言わないだろう。
 「ネットで話題」とか、「ネットで叩かれる」とか、その主体って誰なんだろう。もちろん見かけは「ネット民」だが、それを期待して、それを《本音》として与えているのは誰だろう。もしネット民がなにも話題にしなくなり、なにも叩かなくなったとして、そのとき「ネット民らしくない」という気持ちが浮かんでこないだろうか。岡田が「ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた」と内省したように、ぼくらはいつの間にやらネットしぐさをみにつけていて、人格で思う存分あそんでいて、奇怪な壺にはまりこんでいることにさえ自覚できていないのかもしれない。
 すべての人格は、面白半分なんだ。仕事と趣味が一致している、という言い古された言いかたもできるかもしれない。ネットで自由になることなんてできない。人格を指名してしまうし、命令されなくとも郷には入っておきたい。「今北産業」って言いたいし、それが通じてほしい。「ご飯よそえませんでした」ってなったら、笑ってほしいし、「俺ならよそえる」と言って張り切って失敗してほしい。「にゃーん」って言ったら、ファボしてほしいし、できることなら空リプで「にゃーん」って言ってほしい。iPhoneの猫の絵文字もあったらうれしいな。「w」を何個もつけていたら、馬鹿な設定なんだと気づいてほしい。「やれやれ」と言ったら、あの小説家のやつれた世界の設定をやっていると見切ってほしい。趣味だし、仕事。情報に命令されているじぶんと、面白半分のじぶん。その両方が、両立しているのかさえわからない綱渡りで、まいにちのように活躍している。
 ぼくらはそうやって、《本音》を重ねてたくさんのセーブポイントを作っている。文脈に依存しながら、自由であるふりをしている。遊んでいるふりをしている。そうじゃなくちゃ、秩序は乱れてるだけだから。all for one, one for allの精神で(!)セーブポイントを築いている。
 「演説」をするなら、みんながセーブしてくれたデータを引き継いで、演説らしい《本音》を言うのだろう。「あの、相談事があるんだけど」と言ったら、相談者らしい《本音》を言わねばセーブができない。「今日は無礼講だから」となっても、わかってるよな、無礼が許されるという意味ではなくて、「わざわざ無礼講と宣言しなければならないほどわれわれは非親密な関係だから、それを前提にやり取りしてくれ」という意味であり、いきなりビールを頭からぶっかけていいという許可ではない――そんなセーブポイント誰も作ってないだろ!
 「カップルの喧嘩」なら、ちゃんと「お前のことなんか好きじゃねえんだよ」と言わなければならないし(?)、その二十分後に「さっきの、あれホンネじゃないから…ごめん…感情的になって」と言わなければならない。ハグもしろ、キスもしろ、そのあとどっかでセックスしろ。
 友だちと温泉に行ったら、まずは「(心も)裸になろうぜ」とどちらかが宣言declarationして、「ふだん言わないこと」を、もちろん〈本音〉として、地雷に最大配慮しながら、まるで漏れてきてしまったように言い出さなければならない。
 いや、これらは誇張に誇張を重ねた冗談なのだが、ツイッター自警団とか、クラスタとか、たったひとつの正義のために攻撃と防衛を繰り広げるひとたちとおなじように、ぼくらもなにかの機能とか、役割とか、期待とか、文脈を持っていて、だいたい末路で「バカになる」(©岡田斗司夫
 「で? だから?」と聞かれると、まだなにも考えていないので焦るのだが、期待と《本音》が過剰にならないように、もうすこしセルフコントロールしていきませんか、という話がしたかった。というよりも、こんなに自由になれる空間で、なんでこんなに不自由なんだと思ったんだ。友人が「鍵垢にしたときのほうが窮屈」と言っていて、それがなぜかみんなが考えるべきなんじゃあないかと思ったんだ。
 もちろんその価値観を押し付けるための権利書なんて持っていないので、ここでは語気を強めるだけに留めるしかないのだが、それでも、なぜネットでこれほどまでに不自由なのかという疑問に対して、「本音という思い込み」を提出したい。鍵垢のほうがホンネを言えると思ったら、おおまちがいなんだ。