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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』三浦直希・訳/合田正人・監修

おお! 忘れられた小瓶の窮屈な境界のなかで、自己に沈潜する夜間的実存。おお! 外部との疑わしい接触すべてを免れた実存、持続を横切る昏睡的実存、人里離れたイェシヴァに保存された教義のように、生の余白でまどろむ液体、地下の隠れ場で時間と出来事から孤立した地下的実存、永遠の実存、聖職者から聖職者へと伝えられる暗号化されたメッセージ、混合物に委ねられた世界における取るに足らない純粋さ。おお! 伝統の驚異。時代の反撃や乱流にとどまることを欲しない、束縛なき思考の条件と約束。おお! 世界にあふれる惜しみない灯火よ、われわれの永遠の生、そしてそれ自体に等しい生をおまえは飲み込む。おまえはこれらの感嘆すべき、暗い秘密の時間を祝うのだ。p.307

 "マイム・マイム・マイム・マイム、マイム、ベッサソン"――ヘブライ語で「水」と「よろこびのうちに」…なんでユダヤイスラエルフォークソングを教わっていたのだろうかと改めて疑問に思った。
 ユダヤと言えばなんだろうか。ぼくはユダヤについてなにを知っているだろうか。ユダヤということばの背後にある膨大な選択肢の、ぼくは、教科書的な意味と、『アンネの日記』的な意味と…それぐらいしか知らないかもしれない。
 レヴィナス(彼もユダヤ人)の著作は、合田正人さんと内田樹さんのおかげでほとんどすべて日本語で読むことができる。そのうち半分は思想的な著作、もう半分が宗教ユダヤ教ユダヤ人)の著作で、今回はユダヤ教について語った代表作『困難な自由』の合田訳を読む――先に出た内田訳は「抄訳」なので"私家版"と呼ばれることもある。
 とにかくなんにもわからなかったから、わからなかったことを引用とともに残しておく。

こうした伝統の否定者、無神論者、反徒たちは皆、自分でも気づかぬうちに、あらかじめ涜神を赦免する妥協なき正義という崇高な伝統と結びついていた。これらの反乱によって、ユダヤ教は、周囲の世界に包含されるや否や、すでにある面ではこの世界と対立していたのである。しかしそのような意思表示において、ユダヤ教は自己自身の言語を失っていることに気がついた。必死になって、ユダヤ教は自己を理解するために借り物の思想に助けを求めた。実際、本能的にユダヤ人であることは不可能である。それと知ることなくユダヤ人であることはできない。心から善を熱望しなければならず、と同時に、善を単に心情の素朴な躍動において欲望してはならない。躍動(Élan)を維持すると同時に打ち砕くこと――ユダヤ典礼とは、これなのかもしれない! 自己のパトスを警戒する情念、繰り返し意識となる情念! ユダヤ教への帰属には、典礼と科学が前提となるのだ。正義は無知な者には不可能であるユダヤ教とは、極度の意識である。p.7 *太字は引用者による、今後も同様

 ここを読んだだけで、ユダヤ教ってなんなんだ、という「わからなさ」にあふれてくる。切羽詰まった「わからなさ」がぼくの胸を走る。そういうタイプの読書は、いつも苦しい。わかる本だけをスラスラ速読するのが気持ちいいのだが、そうではない本もたくさんある。困難な読書によって輪郭のはっきりしたなにかを得るわけではないが、それでも身体が〈それ〉を熱望するときがある。

ユダヤ人の自己同一性について自問することは、すでにそれを失っているということです。しかしそれは、依然としてこの自己同一性に執着しているということです。さもなければ、このような尋問は避けられるでしょう。この〈すでに〉と〈依然として〉のあいだに、硬い網のように張られた境界線が浮かび上がります。西欧ユダヤ人たちのユダヤ教は、その線上で冒険し、身を危険にさらしているのです。(…)これやあれであるからユダヤ人なのではない、ということです。観念、特性、物は、それらが他の観念、他の特性、他の物から区別される際に同定されます。人格は、自己の指標を生み出すことなく自己同一化します。ある人格は、あそこではなくここで、翌日ではなくその日に生まれたからという理由で、ブロンドの髪だから、辛辣だから、あるいは涙もろいからという理由で同一なのではありません。人格は、あらゆる比較以前に自己自身だから同一なのです。ところで、ひとは自己自身に収まるようにユダヤ教に収まります。ユダヤ教に加入することすらありません。加入には、あらかじめ隔たりすぎていたことが前提となるからです。ひとは、ユダヤ教に取り憑かれることはありません。なぜなら、帰属は運命のなかに折り込まれているからです。ユダヤ人がユダヤ教に結びつける根本的な親密さは、それが自らにもたらす痛みを通じて、日常的に告白される幸福として、あるいはお望みならば、選びとして生きられます。p.66-67

 さっきよりはわかるようになったが、さっきよりもわからないことが増えた。「わからなさ」を解消するごとにわからなくなる。

 ユダヤ教がこの世に愛着を抱くのは、ユダヤ教には超自然的秩序を理解する想像力が欠けているからではないし、物質がユダヤ教にとって絶対的なものとして何らかの威光を持っているからでもない。そうではなく、ユダヤ教にとっては、人間をその隣人へと導く道の上に意識の最初の微光が点るからである。(…)意識の到来とは――精神の最初のきらめきでさえ――、自分のそばに横たわる死体の発見、そして殺害しながら生きることへの激しい恐怖以外の何であろうか。他者への注意、自己を彼らの一員として数え、自己を裁く可能性――意識とは、正義である。p.136-137

 レヴィナスは、「意識」をたびたび正義として強調する。熱狂的な信仰ではなく、意識や知性こそが倫理となり、それが地上における地上に限った人間関係を正しく保つのである。

歴史意識と呼ばれるこの死すべき定めに対する満足のうちで重要なのは、誰もが、たしかに滅びゆくものではあるが唯一無二の時間を待つことである。偶然に到来する時間の高みに立ち、それが自分に向けて発する呼び声を聞き分けることである。滅びゆく瞬間の呼び声に応答すること! 遅刻してはならない。ミスドラッシュの語る、永遠なる主の王座の前で、神の永遠におけるただひとつの瞬間、すなわち自己の瞬間に歌うべきたったひとつの歌を持っていたあの〈天使〉のように。イスラエル(ヤコブ)と格闘した天使は、その運命の唯一的瞬間のちょうど前夜に危険な人物と出会い、もめごとに巻き込まれたのである(『創世記』三二章)。p.279

 このあたりは引用も多いが、元ネタがわからない。

神は人間を自己性として愛します。神と人間との関係のうちにあるものはすべて、この愛です。そして神は、人間を特異性としてしか愛することができません。〈神〉から特異な〈人間〉へと向かうこの関係を、ローゼンツヴァイクは啓示と呼んでいます。まず愛があり、次いで啓示があるわけでも、まず啓示があり、次いで愛があるわけでもありません。啓示とはこの愛のことなのです。(…)さて、この神の愛への応答として生じるもの、そして啓示がいかにして延長されるかに注目するのは興味深いことです。自己性に対する神の愛は、それ自体として、愛せよという命令なのです。(…)愛を命じることはできますが、ただし愛を命じるのは愛であり、愛は自己の愛の現在においてそれを命令します。ですから愛せよという命令は、愛を命じる愛そのものの反復と更新のうちで際限なく反復され更新されるわけです。よってユダヤ教は――ご存知の通り、ユダヤ教では啓示は戒律から切り離すことができません――律法の軛を表すものではまったくなく、まさに愛を表します。ユダヤ教が戒律からなるという事実は、全瞬間における〈神〉の〈人間〉に対する愛の更新を証明するのです。さもなければ、戒律において命じられる愛を命じるのは不可能だったでしょう。このようなわけで、ユダヤ教におけるミツヴァ(戒律)の卓越した役割は道徳的形式主義を意味するものではなく、永遠に更新される神の愛の生きた現前を意味することがわかります。よってそれは、戒律を通じた永遠の現在の経験を意味するのです。p.251-252

 なるほど、わからない。

 『全体性と無限』の後、この〈無限〉との関係を「主題化」には還元しえないものとして提示することが可能となっている。〈無限〉は、その顔がわたしと関係する〈君〉であるにもかかわらず、常に「第三人称」、〈彼〉にとどまる。〈無限〉は〈自我〉を触発するが、〈自我〉は〈無限〉を支配することができず、〈ロゴス〉の起源によって〈無限〉の法外さを「引き受ける」こともできない。かくして〈無限〉は〈自我〉を無起源的に触発し、この触発が引き起こす「〈他者〉のための〈責任〉」として示される絶対的受動性――これはあらゆる自由の手前にある――のうちに痕跡として刻まれる。このような責任の究極的意味は、〈自我〉を〈自己〉という絶対的受動性において――〈他者〉の身代わりになること、その人質となることそのものとして――思考することにある。そして、単に別の仕方で存在するのではなく、存在への固執から解放された存在するとは別の仕方でとしての身代わりにおいて思考することにある。提示された分析が単に心理学的な意味とならないよう『全体性と無限』が依然として用いていた存在論的言語は――もはや回避されている。そしてこれらの分析そのものが、つねにある主体が同等のものを主題化する経験へではなく、主体には計り知れないものに責任を持つ超越へと差し向けるのである。p.393

 この他、パリサイ人の不在(p.37)、西洋的であること(p.61)、ある犬の名前(p.201)、二つの世界の間で(p.238)などが気になったが、引用せずにメモしておく。もうすこし老いたら=置いたら、また読み直そう――このわからない大切な本を。 

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叢書・ウニベルシタス(法政大学出版局
カバー:Jean Atlan, La Kahena, 1958(©Josseline, ©ADAGP, Paris&SPDA, Tokyo, 2008)
原題:Difficile liberté(©Edition Albin Aichel, SA-Paris 1963 et 1976)
監修:合田正人
印刷:平文社
製本:鈴木製本
※増補版・定本全訳。内田樹訳の事情などは、本書「訳者あとがき」に詳しい。