あまりになにをどうすればこそ、なにをどうできるようになるのだろうか(異化について)

 我が家でひらいたパーティで、だれが言い出したか「インディアンポーカー」をやったことがある。積まれたトランプの山から一枚ひき、確認せずに額の位置まで持ってくる。じぶんのカードだけ見ることができず、ほかのひとたちのカードは見える状態。強いカードのひとを不安に陥れたり逆なでしたりするなかでどうにか棄権させ、なんとかじぶんのカードが最強になるよう仕向けるトランプゲーム。
 こういったマインドゲーム的なものをやると、ぼくが普段からどれだけ息をするように嘘をついているのかバレるので苦手なのだが、みんなの嘘のつきかた、そのテクニックなどが観察できておもしろい。それにふだん会話のすくないひと同士でも「必要」に迫られて自然とことばを交換する(だいたい虚偽の内容だが、ゲームなので問題ではない)ところが純粋にたのしい。
 ただなによりおもしろいのは、「みんなは知っているのにじぶんは知らないじぶん」という盲点の窓(blind-self)がすでに前提となっているところだろう。ふだんは例えば、「君って労働観のこととなると急にプライドが高くなって思慮に欠けるよね」みたいなことを複数人に言われたとして、何人もそう言ってくるということはそれなりの確かさがあるよほどのことなんだろうけれど、そんな自己像がなかったから非常に不愉快な言及に聞こえてしまうものである。
 インディアンポーカーは、その盲点の窓をルールに滑り込ませることで、最初から受け容れることができるようになっている。ルールによって、不自由から解放されることもある。その「新しい感覚」がゲームにはある。これまでの生活とは違ったルールを採用すること、それを強いられることによって、つかの間の自由を獲る。
 ブレヒトは、それを「異化」(Остранение)と呼んだ。簡単に言えば、改めるためのテクニックのことである(もちろんブレヒトの考えていた「異化」概念は、こんな簡単に言えないほど奥深いものなのだが、ここでは一般的な意味に限って使用する)。ゲームの異化効果が、私を新しく楽しくする。「盲目の窓」の存在が楽しい!――なんて、ゲームの文脈以外で思ったことなどない。それはいつだって受け容れるのに苦労していて、それが結果的に徒労だとわかっていても仲良くするためには必要な態度でもある。

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 2020年東京オリンピックに向けて、日本の消防もテロ対策訓練に取り組んでいる。上の写真は、その活動を写したものなのだが、見慣れない防護服を着ていると思う。正式名称を「陽圧式化学防護服」と言って、かなり怪しい雰囲気を出している。顔を覆うタイプの防護服のなかでも、これは本当に顔が見にくいため、最近は「名札」を付ける工夫をしている。
 フェイスシールドに「C:根本」(右)と貼ってあるのがわかると思うが、これを見て「異化」だと思った。顔に名前を貼る。発想になかった。胸に貼るとか、スーツみたいに服の裏地とか、体操着みたいに腹とか、手元に置くとか、テロップとか、ゲームだと上方に情報が出るわけで、しかしあまり考えたことなかった――顔に名前を貼る。しかもフェイスシールドの下に貼ったり、上に貼ったり、名札の位置のレギュレーションは無いらしい。
 名前の情報量は多い。顔の情報量も多いが、名前は顔にまさるかもしれない。名前で顔が見えない状況と、顔で名前が見えない状況だったら、ぼくはどちらが困るだろう。考えてみるとそこそこ悩む。顔を呼ぶことはできないが、名前を窺うことはできない。呼んだり窺ったり、普段遣いのコマンドがどちらか使えなくなるとしたら、それはとても演劇的でおもしろい。陽圧式化学防護服は、あまりに顔が見えないからこそ顔に名前が貼れるのである。
 そして、インディアンポーカーは、あまりに無知だからこそ盲目の窓を受け容れることができるのである。
 では、あまりになにをどうすればこそ、なにをどうできるようになるのだろうか。演劇的な異化の、ひとつの出発点かもしれない。