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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

デートを考える――再納得・傾向性・身柄

 中学のころ「デートなの? 友だちなの?」と聞かれたことがある。いや、これはふたりで「遊び」に出かけているだけだと答えると、「じゃあ友だちなのね」という感じに落ち着いた。それから大したすり合わせもできず、その子がデートということばを好むのであれば…と、大人のふりした独り善がりの要らない気遣いで、会って遊ぶことをデートと呼ぶことが増えた。山の斜面にある遊園地でぼくは初めての「ダブルデート」もした。
 制服デートとか、雨の日デートとか、グーグルデートとか、デートは明確な輪郭をもって特殊化してゆく。それなのにぼくらはいまだに「デート」をよくわかっていない。今日はデートだと思っていたとか、逆にデートじゃなくて"○○"(任意の同義語)だと思っていたとか、どちらが悪いとも言えないような認識の齟齬が生じる。
 たとえば冒頭の子は「デートというのは、カップルのするものだ」という条件を与えていたのだろう。もっと正確に言えば、《恋人同士のようなこと》という比喩を縫い込んでいる。あるいはもっと抽象的に、《実質的に恋人》という概念が許可する範囲で行われることの全般を、デートということばに認めている。
 デートというのは、「納得尽くだったはずのこと」を再納得することである。茶をしばくとか、ストレス発散するとか、近況報告するとか、酒飲むとか、店を紹介するとか、ものを貸すとか、ものを借りるとか、この前の御礼をするとか、うまい飯を奢ってもらうとか、新しい店に行くとか、体験をしに行くとか、ひとりじゃできないことをしに行くとか、ドライブするとか、慰め合うとか、愚痴を言い合うとか、相談するとか、性交渉するとか――デートには予めなにかしらの納得がある。その納得は(当たり前だが)納得の前提となる。飯を食いに行こうというデートであれば、飯を食べるだろうことが自己納得されており、そのデートの暫定的な結論(=飯デート)となる。
 だが、その納得尽くは個人的なものでしかなく、デートには相手がいる。相手の自己納得も存在している。そのふたつの正しい自己納得を、再び正しい形で納得しなければならなくなる。「飯デート」にはラーメンは含まない(!)とかサイゼリアを含まない(!)とか、「雨の日デート」は外で相合傘をさすことだと思っていたら室内映画デートのことだったとか、「ディズニーデート」はアトラクションを乗り回すものだと思っていたら散歩デートだったとか、「電車デート」は交通手段に電車を使うことだと思っていたら対面式の座席でお弁当を食べたりする車中デートのことだったとか……。
 デートをするからには、そのデートにふさわしい(と予め納得されていた)なにかひとつの結論に集中するのだが、それはほとんど一致しない。一致したフリはできるし、〈回を重ねる〉ごと学習的に一致率も高まると期待することはできる。だからぼくらは「デートを何回したか」ということを気にかける。告白は三回目のデートだとか(笑)、ほかにもいろいろ言うことさえ恥ずかしいような段階論がある。デートを数えることで、彼ら彼女らは何回ふさわしかったかを数えようとする。
 もちろんそれは恋愛的な交際に限ったことではなく、もっと友人づきあい的な意味でのカジュアルデーティングを含んでいる。「遊び」に行くという数えかたでは表示しきれない「ふさわしさ」を数えるために、レズビアンでもない女子同士だって「デート」ということばを用いる。
 デートというのは、私たちふたりはふさわしかったという結論(を出すこと)に集中する傾向性(disposition)である。それは飯を食べ始めたら、飯を食べることに集中するような傾向性である。前を歩くひとが家の鍵を落としたら拾うといった傾向性である。
 「遊び」とは違って、「デート」は日付を決めて、天気を何度も確認して、何デートにするのか合意して、そこからどのようなことが起こるのかを自己納得して(「飯デートってことはラーメンはないな!」)、その確約が仕事や用事で侵害されそうならできるかぎり静かに保護し、保護し切れなかった場合は誠意をこめてリスケジュールする。何時に集合するか、そのためにはどこに何時に着いていればいいのか、待ち合わせはどこでするのがよいのか、なにを着ていくのがよいのか、やはり天候はどうか、夜は寒いか、そもそも夜まで一緒にいるのか、合意し忘れたことをなんとか想像で自己納得し、交通経路は、移動経路は、前奏なしでいきなり飯を食うのか、その店をどのように紹介するか/しないか、なにを喋ったらいいのか、喋らないほうがいいのか、打ち明けるべきか、伏せるべきか、「まさかジャズ生演奏を聴きながら食べるイタリアンだなんて!」とイメージ外の事件を受容しながら/拒絶しながら――飯を食べるデートという結論に集中しようとする。
 そこで相手がこんなことを言うかもしれない。"この後どうする?" なるほど飯デートは結論を迎えたはずなのに、この「デート」には端数や猶予が残されていた。つくづく「デート」というのは再納得を要求してくる。カラオケに行けば飯デートではないし、キスをしたら飯デートではない。もちろんそれはひとによって「飯デートが成功したあかつきにはキスもすべきである」と納得しているかもしれないし、「カラオケは飯みたいなもの」というオリジナルな相似を織り込んでいるかもしれない。ああ、あまり言いたくないことばだが、まさに「ひとそれぞれ」だ。
 それでも、デートの結論というのは、机に向かって孤独に論文を上梓して、結論部分に「ひとそれぞれである」と書く作業とは根本的に異なっている。つまり、デートには常に既に身柄が含まれているということである。〈私〉と〈あなた〉の二名様が、その場でデートを結論づけようと、互いの培ってきたバーゲニングパワーを発揮して交渉している。その場で、現場で、それぞれの身柄を相手に差し出しながら。セックスという象徴的な行為こそないが、それは確実に肉体の交わりであり、関係のえぐり合いだと言える。
 むしろ、「交通手段にタクシーを使うんだ」とか、「おしぼりをすぐに交換してもらうんだ」とか、「会計を割り勘にするんだ」とか、「履き古したノーブランドの靴で来るんだ」とか、「喋っているあいだに携帯電話を見るんだ」とか、「私のことを見ずに通行している女性を見るんだ」とか、「今日のデートは七十点だったね、なるほど採点するんだ」とか、とにかくあらゆる結果がデートに紐付けられる。そのなかにはいい印象のものもあれば、わるい印象のものもある。良し悪しにかかわらず、《デート1回》にはたくさんの関連付けがある。三回もするころには、なるほど、たくさんの関係(関連情報)を含んだ存在同士の肉体の差し出し合いになる。
 デートというのは、互いの存在を互いの身柄によって、その場でかけがえないものにするために与えられた時間(date)のことなのかもしれない。だからぼくは、ふたりが会ったことの結論を訴求するために粛々とこなされたあらゆる些事――電車で行くべきかとか、おしゃれすべきかとか――や、最中の観察・分析・再納得がすべて関係(相互存在=肉体)の襞に収納されてゆくような時間全体をデートと呼びたいし、その総合的な行為と出来事もデートと称したいと思う。
 それは「あなただけを見ている」時間であり、「他に好きなひとがいます/I'm seeing someone」という時間ではない。これは蛇足だが、この意味におけるデート(seeing)は浮気に入るのかもしれない。