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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

まいにち漢語で気取ってる〈1〉はじめに、唐揚げの入っていないことが"遺憾千万"たりえるか

なにがヘン?

 「お昼ごはんのおべんとうに唐揚げが入っていないなんて遺憾千万だ」――この文章にはひとつ怪しいところがあって、お察しの通り、「遺憾千万」(いかんせんばん)の部分である。これを「こころが晴れない」と書いた場合と「遺憾千万だ」と書いた場合では、どのような違いがあるだろうか。あるいは「わだかまりだ」とか「不満だ」とか「物足りない気持ちだ」とか「歯がゆい思いだ」と書いた場合も考えてもらえればと思う。
 考えてもらっているあいだの時間稼ぎとして、別の話をしよう。

漢語=中国語?

 フランスのフランス語、ドイツのドイツ語、日本の日本語、英国の英語、タイのタイ語、韓国の韓国語みたいなノリで、中国には中国語があると思われている。つまり国名と言語名が一緒だと思われているが、実は中国に「中国語」というのはない。
 もともと中国にはたくさんの言語があって、六十年前に遅れて近代化し、ようやく「普通话」(プートンホワ)という統一言語ができた。いろんな民族のなかの「漢族」のことばなので、漢語であることを強調するために「汉语」(ハンユエ)と言うこともある。中国人は「中文」(ジョンウェン)と自称していて、やはり「中国語」という言いかたはほとんどされない。
 ぼくらが一義的に使っている「中国語」ということばには、実はたくさんの選択肢があって、それらは中国の複雑で多様な歴史を映し出している
 初回から深追いしないが、近いうちに、中国―漢字―日本の歴史についても取り扱うと思う。

漢語」もいろいろ

 この連載では、できるだけ「中国語」ということばを使わず、「漢語(汉语)の使用をレギュレーションとする。だが、この「漢語」にも日本のなかでいろいろある。ただただ見た目が漢字になっていれば漢語というひともいるだろうし、外来語を翻訳したものも漢語ということもあるだろうし、音読みならぜんぶ漢語というひともいるだろう。そのほか、おなじ語源なのに日本に輸入された時期によって読みかたが変わっていたり、漢籍から入ったのか仏典から入ったのかみたいな細かい違いもある。西洋語の訳語として入ってきたもののなかには、もともと中国で翻訳されたものを加工せず輸入したものや、中国の古典から一義だけ引き抜いてきたものなどがあって、これまた厄介。
 そんな漢語(漢字)を、日本人はかなり独自の手つきで愛し、使い続けてきた。特に数学や心理学、哲学では、欧米の概念を熱心に翻訳してきて、ほとんどの用語に訳語がある。昨年は「宇宙際/inter-universal」という数学用語を見かけたし、有名な「世界-内-存在/In-der-Welt-Sein」もがんばっている感があってよい――もちろん(和語を無視して)そのすべての漢語を無条件に肯定しているわけではないが。

漢語は美辞に留まるか

 冒頭の問題に戻る。
 「お昼ごはんのおべんとうに唐揚げが入っていないなんて遺憾千万だ」――こういった使いかたでは過剰だろう。それでも確かな勢いの存在も疑えない。和語のほうが柔軟に響くものではあるけれど、漢語を使うことで力が宿る。国語界隈の文脈で主張される「漢字不要論」も理解できるが、漢語の強さも否定できないだろう。
 中江兆民は「又曰く、漢文の簡潔にして気力ある、其妙世界に冠絶す(『兆民先生』)と云ったらしい。あくまでひとつの主張にすぎないが、中江の訳したものを読んでいると、その説得力にめまいがする。先鋭の表現はことばを透き通らせる力を持っているのかもしれない。

凡て世の中の物は変ずるといふ側から見れば、刹那々々に変じて已まない。併し変じないといふ側から見れば、万古不易である。此頃囚はれた、放たれたといふ語が流行するが、一体小説はかういふものをかういふ風に書くべきであるといふのは、ひどく囚はれた思想ではあるまいか。僕は僕の夜の思想を以て、小説といふものは何をどんな風に書いても好いものだといふ断案を下す。
――森鴎外追儺

 「漢文の素養」などと言ってしまうと、それこそ美辞と虚飾になってしまいそうで嫌なのだが、それでも漢文の素養だと言いたい。もちろんこの時代は、基礎教育を受けた男なら漢文調の文章を書けて当然なのだろう。

文字の霊が、この讒謗者(ざんぼうしや)をただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌を損じた。ナブウ神の熱烈な讃仰者で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士は即日謹慎を命ぜられた。大王の幼時からの師傅(しふ)たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥に処せられたであろう。思わぬご不興に愕然とした博士は、直ちに、これが奸譎(かんけつ)な文字の霊の復讐であることを悟った。
――中島敦文字禍

 中島敦にも「漢文を散りばめただけ」といった評がある。ただそれだけでは教科書に載ることもなかっただろうし、なにもわからぬ中学生の心を動かすこともなかっただろうと思う。ここには気力がある。だれよりも勉強したわけではないだろうが、漢語や漢文と向き合ってきたであろう痕跡があるように思える。他にも幸田露伴の「運命」なども引用したいが、ここはリンクを貼るだけにする。

漢語に食らいつく、ちょうどよい表現を求める

 この連載では、漢語を賞賛しすぎないように、できるだけ食らいついてゆこうと思う。「清楚」という漢語は、日本と中国では意味がちがうよね、みたいな話もおもしろいし、たまには折り込んでゆきたいが、漢語に食らいついてゆくことをメインの目標としたい。
 翻訳者や小説家が、じぶんにとってちょうどよい表現を見つけることをサブの目標とする。漢語や和語を学えるなかで、ことばや表現が磨かれるはずだと思う。その最終的な形として、ちょうどよい表現を手に入れることができれば嬉しい。
 それは「和製漢語だから使わない」とか、「美辞だから使わない」とか、「虚飾的だから使わない」といった否定の決めつけではない。虚飾的な美辞を使うのがちょうどよい場面だってある。そういうキャラクターを作るかもしれない。なにがどんなときに有用となるのか事前に全くわからないからこそ、翻訳も創作も面白いのだろう。
 唐揚げが弁当に入っていなかった絶望感、崩れた理想像、そういった曖昧ながら強烈な感情に輪郭を与えることばが「遺憾千万」だとしたら、きっとこの表現は、そのひとにとってちょうどよいものとなる。