斎藤環『人間にとって健康とは何か』

 「健康」という問題が深まる一冊だった。社会の話をしたり宗教の話をしたりヤンキーの話をしたりするので、あっちにいったりこっちにいったり、ごちゃごちゃしているが、とにかく「健康ってものをさ…もっと個人のサイドに立って考えろよ!!!!!!」という強硬な主張を感じる。
 タイトルで《何か》とミクロに問い出しているが、それはミクロに答えるための問いではなく、斎藤環(さいとうたまき)さん自身がミクロに考え出すための問いであり、「これが人間にとっての健康っちゅーもんだぜ!(ドッカーン)」みたいな話は出てこない。そこを期待してしまうと裏切られるだろう。斎藤さん自身の言い訳(?)としては、"私はラカニアンだから"というものらしい。

私は精神科医として、これまで十分には「健康」について考えてこなかった。それどころか、むしろ「健康」の存在を積極的に疑ってきた。これは私が理論上はしばしば参照してきた精神分析家、ジャック・ラカンの「教え」において、すべての人間が神経症的存在であるとされてきたためでもある。簡単にいえば、多かれ少なかれ人類みなビョーキ、という考え方だ。p.4

 薄めの新書だけあって、噛み砕いたふりだけして噛み砕くことを諦めている。せっかくなので、ぼくのほうで引用したいと思う――「私は、だれもが無意識を享受するやりかたによって症状を定義する、無意識によって決定される限りにおいて/Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine」(『セミネールXVII』)。症状のない主体はない。それは治療することもできないし、摘出することもできない。症状は人間を定義してしまっている。さらに「人間の本質は倒錯である/la perversion c'est l'essence de l'homme」とも言ってのける。おそろしい男だ、ラカン
 人間には必ず症状がつきまとうし、人間は異状な存在なのだから「健康」なんて"幻想にすぎない"というロジックに流れ込みがちになる。(このことについて「終わりに」でも論じているが引用しすぎもなんなので割愛する)

この考え方には有用な面もあるが、一つ問題があるとすれば、人間にとって「健康」はしょせん幻想にすぎない、と見なすかたちで思考停止に陥ってしまう傾向があることだ。もっともこれはラカン派だけの話ではない。精神医療は、診断や治療の精度を上げることに汲々とするあまり、独自の「健康」観を育んでこなかったのではないか。実際、私たちの考える「健康」とは、「適応」や「成熟」がせいぜいではなかったか。そればかりか場合によっては、「社会参加」や「就労」「経済的自立」のみをもって健康の指標としてはこなかったか。p.4

 ここから医学の変容についての話になる。医療の役割は「キュアからケア」に変わった。マイナスの状態である病気を取り除いて「ゼロ」に戻す技術であったが、それでは立ち行かなくなったという。患者という概念を拡張して、「健康意識や健康課題をもつ人」となり、予防の必要がある病気未満のひとにさえ「治療」を適用するようになった。生物学的な問題だけではなく、生物と心理と社会のかたまりとして新たな粘土をこねはじめるわけである(p.23)

WHOが定義するように、健康とは「病気ではない状態」ということのみを意味しない。たとえば、現在理想と目されている「全人的健康(holistic health)」の指標には、身体面の健康のほか、精神的な健康や社会的な健康、さらには「スピリチュアルな側面」も含まれていると先に述べた。こうした健康観の変化は、いくつか副次的な変化をもたらしたとされる。まず、「客観的健康」から「主観的健康」へ、という変化がある。(…)データがすべて正常値であったとしても、主観的な健康度が低ければ治療的対応や支援が継続されるべきなのである。p.25-26

 先に「個人のサイドで健康を考える」と言ったのは、こういうことである。WHOでさえ健康の定義を個人のほうに向けて拡張しているのに、肝心の個人が個人的な健康観を育もうとしない。この「客観的健康から主観的健康へ」という分析が、このあと大きく生きてくる。
 内容としては、ここからは個人の健康を強化したり支援したりするファクターに関する健康生成論(salutogenesis)の話になり、具体的には「SOC」や「レジリエンス」の紹介が続く。知っているひとにとっては飛ばし読みしやすい紙面だが、知らなかったひとにとっては新しいカタカナ語を教えてくれる楽しいゾーンだろう。
 途中、丸山宏さんにおけるレジリエンスの定義――「さまざまなシステムに何らかの『擾乱』が起こった時、壊れにくく(Resistance)、また万が一壊れた後に素早く回復できる(Recovery)性質(『科学として想定外にどう対応するか?』)――が引かれており、なるほどわかりやすい。ここから「冗長性・多様性・適応性」によってレジリエンスが成り立つという話になり、具体例がポンポン出てくる(DNA・細胞の免疫系・ボーイング777のシステム・癲癇)

見てきたように多様性とは、危機的状況が「同期」してしまうことを防ぐ。たんに冗長で複雑なだけのシステムは、何らかの理由で作動が「同期」しはじめると、一気にシステムダウンの危機が高まる。(…)こうした同期の危険を避けるためにも、異なったロジックで作動する複数のシステムのもとで冗長性を確保するのが望ましい。p110

 細胞のオートファジーでノーベル医学生理学賞を受賞した大隅さんは、よく「ヘテロ(異質)がいいんだよ」と口にしていたらしい時事通信より)。あそびや冗長性のないひとは、心を砕きやすい。ウィラ・キャザーも「この部屋に赤一色は多すぎる」みたいな名言を残していた気がする。みんなちがってみんないいという美徳が言いたいのではなく、みんなちがうことで危機を自己拡散しなくて済むというリスク面での効用である。それが個人の健康(の強化や支援)につながってゆく。
 終盤にかけて「変われば変わるほど変わらない」というレジリエンスの条件などを説明しながら、幸福の話が出てくる。本文でも解決はしていないし、最後に、斎藤さんの幸福と健康の問題意識を引用して終わる。

私たちは幸福については雄弁に語る。病気についてもお喋りになる。しかし私たちは、健康についてはほとんど語らない。いや、もっと正確にいえば、私たちは健康法やサプリで「健康になること」は好んで語るが、「健康であること」については語らない。これはなぜなのだろうか。(…)つまり、幸福は過程であるがゆえに雄弁に語られうるが、健康は状態であるがゆえに語る言葉に乏しいのである。別の言い方をするなら、幸福は過程だからこそ「上限」がなく、健康は状態だからこそ定常状態がある。「世界一幸せです!」という言い回しと同じニュアンスで「世界一健康です!」と宣言する人はまずいまい。(…)だから健康は幸福以上に、「失って初めてその価値に気付く」ものなのである。本書で紹介してきた「SOC」や「レジリエンス」などの概念は、健康を生成するものとして再定義し、「過程」として語りうる概念にするための試みとも考えられる。QOL概念の導入は、健康を比較可能な概念に近付け、際限なく上昇しうるものと見なすことも可能になった。p.228-230

  主観的な健康というのは、個人的な健康のことであり、それは「上限」をもたない健康のことであり、「過程」としての健康である。QOL(生活の質:quality of life)という概念を手に入れることで、幸福と健康はおなじ土俵に立つことができる。
 おもしろい!

※「動機」→「同期」誤字訂正(セルフ) 17/02/05
※「p.238-230」→「p.228-230」誤記訂正(セルフ) 〃

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