ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

山田詠美『風葬の教室』

 ログライン的に言えば、「都会から田舎に引っ越してきた少女が、自身に向けられるいじめ行為を《風葬的に》リジェクトする話」となるだろう。平林たい子文学賞受賞作で、直木賞受賞後の第一作目。ここまで書いたのかと恐ろしくなる。
 この物語にはいろいろなものが詰め込まれていて、読むひとによって取り出すものが大きく変わるだろう。ネットを見る限りでは「いじめの対策・解決方法」として読まれていたり、「女になる」という比喩で読まれていたり(文庫解説も同様)していた。'88年の小説が、いまもなおリアリティを持って読者に突き刺さるというのは、やはり恐ろしいことだと思う。
 とりあえず書き出し+冒頭部分を引用する。

鳥獣戯画という素敵な絵を社会科の教科書で見たことがあります。先生が黒板に私の名前を書いています。きしきしと音がして、私の名前は、もう既に、先生のはくぼくに踏みにじられました。指定された上履きを、まだ用意していなかったので、私は学校に来るお客さんが履くスリッパを履かされています。私は、本当はスリッパの中のばい菌が恐い。そればかりを気にして、下を向いて、足をもぞもぞとさせていると、先生は、幸福な思い違いをして、やさしく私の背筋を撫でてくれます。私は不思議な気持の良さが体じゅうを走るのを感じます。鳥肌がふつふつとたってきて、泣き声をあげなくてはと思い、ようやく前を向きます。(…)五年三組の新しいお友だちです。本宮杏さんと、みんな仲良くしてあげてください。先生は私のことを皆にお願いします。本当は、先生は私に皆のことをお願いするべきではないのかな。私には、こんなに大勢の人々の中からお友だちを選べるのですから。けれど、皆には、そんな楽しみがないのです。私を受け入れるか拒否をするか、その二つの楽しみしかないのです。p.9-10

 鳥獣戯画を「素敵な絵」と言い切る五年生。山田詠美さんの描く少女は早熟なのだが、あまりにも恐ろしく周りとズレている。鳥獣戯画でよく知られるのは、第16紙あたりの絵で、兎と蛙の相撲のシーン。投げ飛ばされてひっくり返った兎と、爆笑している蛙たちの絵。この明らかに浮いた書き出しに、この作品のすべてがこめられていると言っても言い過ぎではない。読んだあとじゃあないとわからないが、とにかくすばらしい。
 やや文豪調の文体は、個人的にとても気持ちよく、ド真ん中という感じだった。展開もラストまで太宰治をプンプン匂わせる感じで悪くない。受賞時はジュブナイルという評判だったが、これはジュブナイルではないだろうという気さえした。

それにしても、一緒におトイレにいくお友だちがいないというのはせつないことです。所詮、おしっこをする時は、ひとりなのだから関係ないじゃないかと言う人も中にはいるかもしれません。けれど、問題はそのことではないのです。おトイレにいくまでの道のりなのです。ひとりでいくおトイレまでの道は、ものすごく遠い。すれ違う男子が、ああこれから、おしっこをするのか、と見詰めているような気がします。たかが、おしっこをするのに、つき合ってくれるお友だちがいないのかと他のクラスの人たちに思われているような気がします。この孤独な道のりの終点に、もっと孤独な作業が待っているのかと思うと、絶望するような気持になるのです。p.62-63

  いじめられているのに、平静を保とうとしている。杏はもとより思考体力の高い子だが、綿々と続いていく思考を読んでいて、こちらまで気が遠くなりそうだった。
 早熟というのは響きだけよいが、結局のところ「老いている」ということである。老いるのは構わないが、心がそれに追いつかない。杏は老いゆくじぶんの虚しさを、思考で埋めようとする。自覚的な描写はないが、思考のアンバランスは何度も強調されている。なかでもぼくがとびっきり気に入ったシーンを長めに引用する。いじめがエスカレートしている段階。

 でも、彼らは、私に見せようとするのです。私に自分が生きていることを確認させようとするのです。私の座ろうとした椅子を背後から引き、私に尻もちをつかせて、痛みを思い出させようとするのです。汚れた生理用のナプキンを登校する前の机に置いておき、私に血が流れていることを知らせようとするのです。
 (…)
 私は、しばらく机の前に立ち尽くしていました。いったい誰の血なのだろう、とぼんやり考えていました。男の子たちは、その時、私をはやし立てたりしませんでした。彼らには、それが何だか解っていなかったのです。私にだって、よく解らなかったくらいですもの。彼らは、ただ、黙って薄気味悪そうに私と、その生理用ナプキンを交互に見ていました。
 女の子たちは数人ずつ、かたまってひそひそと話をしています。恵美子らしい声が私の耳に飛び込んできました。
「あの子、お便所なのよ」
 男の子たちは、やっと、出口を見つけたというふうに、ほっとして、はしゃぎ出しました。便所かあ。それから、彼らは本宮うんこという名を私に与えたのです。本宮うんこ、本宮うんこ。彼らが知っていた本宮杏という名は、その日限りで姿を消しました。(…)
 私は、汚れたナプキンの前で途方に暮れていました。人の血程、けがらわしいものはないのだと、私は、その時、知りました。私は、ちゃんと生理に関する知識はありましたし、それを汚いものだと考えたこともありませんでした。(…)頭の中に姉の、ママ、ナプキン切れてるわよお、という呑気な声が甦ります。彼女が毎月、受け止めている生理と、私の机にこれを置いた人間のものとは、まったく違うものなのです。その人間は、生理を汚いものとして受け止めているからこそ、こんなことをしたのでしょう。そう思った女の生理は汚いです。その血は生命を形造っている一部分には成り得ないのです。他人を汚すものでしかないのです。p.81-85

 どんどん考える。じぶんの老いに無自覚なまま、思考することで「平静」に戻ってこようとする。観念をシェルターにして心が折れないよう回復(レジリエンス)をはかる。辛いとか辛くないとか、可哀想とか可哀想じゃないとか、そういう次元に自己を定着させないよう、《ぼんやりと》考えるのである。まるで綱渡りをしているように、不安定な一歩一歩を、その都度その都度、助けながら。
  このあと、クラスで唯一「大人」だと認めている男子(=アッコ)が、なにも言わずに生理用ナプキンを外に投げ捨ててくれ、杏は救われる。そのあとの描写で、ぼくは杏を好きになってしまった。

私はアッコの中に自分がいることを感じ、思わず顔を赤くしました。けがらわしいものを私のためにつまんでくれたこと。知らん顔することだって出来た筈です。でも、彼はそうしなかった。私が、もし、初潮を迎えたら、彼に知らせてもいいと思いました。私の血は、人の机に置いて困らせてやろうと思いついた人物の血よりも、はるかに綺麗だと確信するからです。彼には、きっと、本当に綺麗なものの価値が解ると思うからです。p.87

 そして、この小説のクライマックスに向かってゆく。特に「p.123-125」がひどくぼくのなかに入り込んできたのだが、ここでは引用しないでおこう。ラストについても同様に書かない。読んだひとの読んでからのお楽しみ。

 

※「社会化」→「社会科」誤字訂正(セルフ)17/02/01
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河出文庫文芸COLLECTION(河出書房新社
デザイン:栗津潔
カバー装丁:菊池信義
発行者:清水勝
印刷・製本:大日本印刷株式会社
※解説は島田雅彦(「聖なるあばずれ」へのオマージュ)、その他「こぎつねこん」も収録

 


《気に入った文章》

私が新しい学校生活に出会うのは、いつも春ではありません。p.13

 

私といつも一緒におトイレにいっていた女の子は、ひとりでいかなくてはならなくなるのです。このことは、考えようによっては両親を亡くした時くらいにこまることなのです。手紙書くからね、絶対にお返事ちょうだいね。私は、その子の言葉にうん、うん、と頷きます。でも、私は、手紙なんてこないことを知っています。その子の日常生活に、もう私は組み込まれていないからです。友だちというのは、日常生活なのです。遠くはなれたところまで、わざわざ用を足しに行く人など、どこにいるものですか。p.15

 

草や木から、音もたてずに湯気が立ちのぼっているのを感じます。そうして、いろいろな緑が私を見詰めるのです。それらは、私を小さな者だと思っているようです。私は思わず立ちすくんでしまいます。蝉の声は私の汗をせかします。太陽は、たったひとつの黒い点である私の頭を焦がします。すべてが、ちっぽけな私に向かってくるように感じます。p.16-17

 

私は自分を主張するでもなく、ヘンにものおじするでもなく、砂場の砂をかきわけるようにして、新しい教室に自分の居場所を作りました。p.30-31

 

私は暗い気持から脱出する時に瞳をよぎるばねの存在を先生に知らせるべく天真爛漫な笑顔を浮かべて見せるのでした。(…)そうすることによって彼らに自己弁護のきっかけを与えてあげるのです。p.34

 

 たとえば、あの先生のストッキング破れてるよ、とか、わたし、今日、朝ごはんのトーストのみみを残して叱られちゃった、とか、そのようなものでした。私は、何故かアッコに自分たちが共有している人生以外のものを知って欲しかった。
 アッコは、私から来たメモを読むと気づかれないように筆入れの中に隠しました。彼から同じような紙切れが返ってくることはありませんでした。私は、そのことで、益々、気を良くしました。私が大人と認めた男の子が調子にのって、ぼくは朝ごはんに玉子やきを食べた、などと返事を書くようであってはならないのです。私は彼の内に自分に関する知識が詰まっていくのを望みましたが、私は、彼が、どんな少年なのかを知りたいとは思いませんでした。たただ、彼が憮然とした表情を浮かべるのを見たり、男の子同士でお喋りをしている時に、「おれはね」などという生意気な言葉をはさむのを聞くだけで充分なのでした。p.38-39