ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

東直子『東直子集 セレクション歌人26』

 短歌っておもしろいな、と初めて思ったのは、穂村弘さんのひどく偏った――かつ偏っていることがプロフェッショナルの文脈で完璧に自覚された――短歌エッセイを読んだときだった(『短歌という爆弾』)。そのあと短歌をいろいろと鑑賞するようになって、当然、雪舟えまさん・東直子さんを読むことになる。そこでこんな短歌と出合った。

喧嘩喧嘩セックス喧嘩それだけど好きだったんだこのボロい椅子

(『青卵』p.99)

  なにがいいのかぜんぜんわからなかったけれど、とにかく強烈だったのを憶えている。いまでさえなにがよかったのかわからない。それだけど好きだったんだ、この短歌。
 俳句にしろ短歌にしろ都々逸にしろ、短詩型はとてもよい。リズムと一緒にそのまま世界を記憶できる。写真も世界まるごとという感じがするけれど、うまく思い出せないし、だれかにすぐに伝えられない。小説もそこそこ世界を出してくれるが、プロットや脚本のほうが肝心だったりして微妙になることばかり。だけど短歌は、主体がだれかもわからないような世界が、たった三十一字ですべて表現されている。これは単純に驚きだった。

三月の娘の胸に取りついたインフルエンザは感情的で
ほほほほと花がほころぶ頃のこと思い浮かべてしまう如月
よい人とよい街にゆきよい花を育ててしんしん泣いたりしてね
七人の用心棒にひとつずつ栗きんとんをさしあげました
そうですかきれいでしたかわたしくは小鳥を売って暮らしています
特急券を落としたのです(お荷物は?)ブリキで焼いたカステイラです

(『春原さんのリコーダー』※それぞれ連作から抜粋

 東直子さんの短歌には、おどろくほど思想がない。あるのはテクストの上に溶かされた実生活と、そこで生きられている自然体である。この微熱的というか体温的なことばの風景に、短歌のメロディが心地よく響く。

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

(『春原さんのリコーダー』p.9)

  村について書いているということは作中主体(短歌のなかの主体)の住んでいる地域の地方紙なのだろうか。桃を剥いているときに、ふと地域社会面の記事が飛び込んできたのだろう。やわらかく田園的な桃と、ドライで深刻な廃村の二物衝撃。記事が桃の皮で濡れてゆく。「廃村」という他人事のような冷たい二字の漢語でしか、その村のことを理解できないもどかしさ。新聞の見出しのスペースの問題だろうけれど、それでも村がひとつなくなることの重大さと、「廃村」のたった二文字では釣り合わない。
 いや、新聞ではそれが釣り合っているのだろう。村の世界と、たった二文字のテキストが等しく釣り合ってゆく。そんな現実を、桃の向こう側に見つける。
 来て――だれの声だろうか。村の声か、記事の声か、桃の声か、作中主体の声か、それともだれの声でもない声か。いろいろな解釈ができると思うが、ぼくは、おなじ空間にいるだれかを呼んだのだと感じた。桃の向こうで報じられていた記事がだんだん頭に入ってきて、そしてピンとくる。「来て、この村、知ってるでしょう」。きっと地方紙の地域社会面だったにちがいない。
 みたいなことを考えるのがたのしい。そこには世界のすべてが歌われているのに、その歌人のメロディに誘われて多角的な世界があふれる。もっと遠くに飛べるような気がしてくる。じぶんについている翼を信じたくなる。それが東直子の短歌だと思う。

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邑書林
装訂:間村俊一
装画:北見隆
発行人:土橋壽子
印刷製本:シナノ印刷株式会社
東直子の散文(「かたち」「モノローグのめぐりに」「草かんむりの日々に」)と藤原龍一郎東直子論(「ナオコ・ゴー・アラウンド」)も収録