ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

ありのままとは、原状なき回復のことである

 アナと雪の女王(原題は「Frozen」)の主題歌が流行る前にも後にも、「ありのままの自分」というのは喧伝され続け、90年代を生きるひとに商業化された「癒し」を与えてきた。ここで問題となるのは、「Let it go」の訳語としての「ありのままの姿を見せる」が成立してしまったことである。
 既に森田一義(「ヨルタモリ」)が指摘しているように、「ありのままの/姿」というのはあり得ない。自分像の意識化は、他者の想定を前提としている。「だれか」に見せる姿を取り繕わないことはむずかしい。どうしても空論になってゆく。(もちろんそれをドクマとして個人的に信じること自体は否定されるべきではない)
 それに対して「Let it go」というのは、他者がどうこうだの、自己像がどうこうだのの話ではない。簡単に言えば「その話もうよくないですか」という通過の要請である。「水に流す」でもいいし、「なかったことにする」という言いかたでは語弊もあるがニュアンスは伝わりやすいだろう。
 「ありのまま」ということばには、どうしても「わたしの始点」(原初・原状)が含まれてしまう。《最初にあった私》の根を強く意識することにつながってゆく。でもそうじゃあない。「Let it go」というのは、むしろ原状に対して無頓着なままレジリエンスのみを気にしている。どうやったら心が折れないのか――その心の折れなさはどうやったら保てるのか。さっさと次の話をしませんか、という通過の自問自答によって心の折れなさを保持しようとしている
 つまり「ありのまま」というのは、自己始点へのこだわりなんかではなく、原状なき回復――心が折れる前に次へ進むことへの特化/善悪や損得を無視してとにかく出来事を通過させること――である。
 かつて村上春樹が「ホテル」という比喩で語ったやり過ごしも、「ありのまま」に含まれるだろう(『ダンス・ダンス・ダンス』)。どんな出来事も「一泊」しかさせないこと、なんなら「素泊まり」にして全くもてなさないこと。「ありのままの姿」なんてどうでもいい。原状がどういった姿だったかなんて知ったことではない。余裕のあるひとが余裕のあるときに振り返ればいい。
 ありのままだの、あるがままだの、スピリチュアルな表現はすべて「Let it go」を思い出すべきだと思う。原状への回帰ではなく、原状なき回復、心の折れなさを保持するやり過ごしとして、レジリエンスの文脈で再認識されるとよいのではないか。