誰かに何かを伝えたい気持ちは、全くなんでもない気持ちである


 いやあいい問いだ…。考えずにはいられない。ぼくの言語運営能力じゃあ、どうせこれっぽっちも言語化できないが、やれるところまでやってみよう。

 「自らのなにかを犠牲にして(でも)伝えなければならない状況/誰かが伝えなかったことによって陥る全体的な危機/伝達不足によるだれかの不幸/その不幸に対処するひとの過労」の総面積を減らすために、ぼくらは前もって――いささか民主主義的な発想でもって――《誰かに何かを伝える》ことを、いつの間にか選択している。
 たとえば、じぶんの子どもを私立に入学させて満足している親というのは、こういうタイプの危機管理に疎い。じぶんにとって有害なひとにこそまともな教育を与えなければ、その怠惰から逆襲を食らうことになる。現にトランプ政権の誕生と、その初期の大統領令のほとんどから、伝え忘れていたことの「逆襲」の有様が学べるはずである。
 つまり「トランプにまともな教育を受けさせなかったのは、どこのアメリカ人だこのやろう!」という話にならないように、そんな面倒な責任のなすりつけあいをしないように、そんな粗末な争いで理想を凹ませないように、ぼくらは静かに民主主義をすすめ、トランプ氏にもまともな教育を――押し付けにならないよう――受けさせておく(必要があっただろう)。それをサボればサボるほど、しっぺ返しが大きくなってゆく。
 《誰かに何かを伝えたい気持ち》というのが、「ちょっとそこのお醤油とって」と言うように触ったり見せたりできるものであればわかりやすいのだが、ぼくにとっては発露不可能な気持ちなのだ。この気持ちはいつだって先回りして終わっている。気持ちを披露する《前に》済まされているから、見せることも、共感させることも不能となっている。だから、みつちゃんが問うことによって顕在化・意識化させたのは、まことにすごいことだと思った。

It might be a Scottish name, taken from a story about two men in a train. One man says "What's that package up there in the baggage rack?", and the other answers "Oh that's a McGuffin". The first one asks "What's a McGuffin?". "Well", the other man says, "It's an apparatus for trapping lions in the Scottish Highlands". The first man says "But there are no lions in the Scottish Highlands", and the other one answers "Well, then that's no McGuffin!". So you see, a McGuffin is nothing at all.
――"Hichcock" interview in 1966 by François Truffaut

 引用は、アルフレッド・ヒッチコックマクガフィンという概念を説明したときのアネクドートなのだが、ぼくにとっての《誰かに何かを伝えたい気持ち》も、このような在りかたをしている。「全くなんでもないもの/nothing at all」という彼の表現を借りて、ぼくも、誰かに何かを伝えたい気持ちというのは全くなんでもないものである、と表現したい。それは存在否定されるものなんかではなく、気づかれる前に役割を完遂している暗躍タイプのヒーローに近い。
 《誰かに何かを伝えたい気持ち》は常に暗躍している。ときにじぶんにさえ気づかれない。全くなんでもないものとしての感情に、ぼくは追いつくことさえできない。それでも、もしこの気持ちを無視したとしたら(どうやって無視するのかさえもわからないが!)、ぼくはぼくの怠惰の逆襲に遭う――経験則的にぼくはそう知っている。

 F太さんが指摘するように、それは「報告・連絡・相談」というビジネスライクな事務的伝達さえ含んでいるし、じぶんの世界観を伝染させることも含んでいるだろうし、教義的なアイデアを伝説させることも含まれていて、学術的・学際的な知識を伝播させることも含まれているだろう。
 とにかく《誰かに何かを伝えておく》ことによって、だれかが後から身を削って伝えなくてはならない状況を飛躍的に減らすことができる。道徳的なことや倫理的なこと(あるいは民主主義的なこと)を差し引いても、だれかの不幸を減らすことに直結しているし、だれかの不幸に対処しなければならないもうひとりのひとの過労と犠牲を減らすことに直結していると思う。
 それは「ありがとう」と言ってもらえないタイプの世直しだと言ってもいいし、あるいはそこにじぶんを組み込んで「自浄」と呼んでも構わない。
 じぶんになにかを伝えてくれたひとがいたとしたら、そのひとになにかを伝えてくれたひとがいるはずで、じぶんの受け取った情報の次数分だけ、《誰かに何かを伝えたい》があったのだろう。その原初的な気持ちは、いつだって浮かばれない。「御蔭様」という日の当たらない暗そうな地点で、全くなんでもないものとしてじっと育まれている――もしかしたら本人にさえ気づかれず。
 「ねえそれってどんな気持ち?――うんとね、こんな気持ち!」という日向の語りに向かない気持ち。明るく理解されることを注文できない気持ち。ピントを合わせることのできない不分明で不確認な気持ち。
 以上のように《誰かに何かを伝えたい気持ち》を初めて考えてみたが、やはり追いつくことはできなかった…。もっと上手に言語化できるようになろう――問いを問いとして問うてくれたみつちゃんに感謝しながら。