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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

幸田文『包む』あとがき

 何をお包みいたしましょう、という云いかたは、いまではほとんど聞かれなくなってしまった。私は子供のころそれをお菓子屋さんでよく聞いた。小学校も三四年になるとお使いがおもしろくなって、頼んでもさせてもらう。はゝはお使いに行くさきを択んでさせてくれた。へたにお使いをさせて愚劣なことばかりおぼえては困るというのだろう、それで比較的品のいゝお菓子屋のお使いなどをした。店さきには鹿の小餅、しぐれ、松の雪、きんつばなど、とり\/にならんで、どれにしようかときめわずらっていると、そこのおかみさんが出て来る。奥と店との境にさげた紺暖簾から、日本髪の鬢を少しかしげ、襷へ片手をかけて、「いらっしゃいまし」とそこへ膝を折る。子供へもそう丁寧なのだ。私はうろうろと見ている。「何をお包みいたしましょう」と云われると、なんとなく安心する。それは、ゆっくり見ていらしていゝのですよと云われたようでおちつくのである。「きょうはお天気がよろしゅうございますから桜餅のような匂いのたつものはいかゞで。」そう云われると桜餅のいゝ匂いが、いまもうこの口もとにあるような気がして、まずそれがきまった。一ト品きまるとあとのとりあわせは楽で、おかみさんは経木を濡布巾できゅっと拭くと手早く盛りこみ、白いかけ紙でふわっとくるんでくれる。それを風呂敷へ入れて、潰さないようにと両方の掌をひろげて捧げてくれたように帰って来れば、こゝにほんとにいゝものを大切に包んで持っているという気がして嬉しかった
 私には「何をお包みいたしましょう」は、おいしいものに直結していた。そのころは果物屋も煮豆屋もさかな屋も八百屋もそう云ったものだそうだ。いまは土・日のデパートのお菓子売場などでは、買手が多くて売子が少いから、お客のほうで「これいくら\/頂戴」と競っている始末だし、日によって売場のすいているときは、買おうと択んでいるケースの向こう側へ売子がすっと寄って来て、たゞ黙って立っている。そうされると、お客は早くきめなければいけないような急いだ気にさせられて味気なくおもう。だから買ったあともそれを手提に押しこむと、なにか匆々と立去りたい妙な足どりになる。いゝものを包んで大切にかゝえている嬉しさなどはない。ものがたべものなのである。幾何かの金を味にかえて、そこにほんのりしたものがなければつまらない。「何をお包みいたしましょう」には明治から大正へのゆるやかな時代があらわされているが、いまの、すっと寄って来て黙って立っている式や、「何あげますう?」には、昭和三十年代のよさは表現されていないとおもう。悠長な云いかたをいまもしていてもらいたいというのではないけれど、子供ごころにも浸み入るようなことばの味はなつかしい。「包む」には庇う心がある。
 別に私が、いゝもの、おいしいものを包んで持っているつもりからの題ではない。包むに包みきれずあらわれてしまうのが書くということだ。包みかねるのが文章で、包みたいのがわが心ではないかとおもう。包みたい節がたくさんあるからこその「包む」であり、逆に何を包まんわが思いなどと、いったん包んだ心をほどいて見せるようなへんてこなこともしたくなるのである。包んでもほといても、作文はすでに書くひとの底を見せているものだとおもう。
 私は子供のときに聞いたあのおかみさんの「何をお包みいたしましょう」がなつかしいばかりに、包きれない作文の題にした。p.242-244
※濁点付きくの字点を「\/」で表示しました、他の踊り字はママ
※引用者による補足:鬢(びん)・襷(たすき)・経木(きょうぎ)・掌(てのひら)・匆々(そうそう)・幾何(いくばく)

  この随筆集には、幸田文の二十九編のエッセイが収録されており、どれを見てもほんとうに面白い。その面白さは、べつにエンターテインメントのコンテクストに限らず、むしろ幸田文日常世界へのひたりつきを味わうことの面白さである。
 たとえば「道ばた」という随筆では、「車輪の下にあった砂利どもは、堅い地面へ無理からにぎゅっと押しこめられたのだ。押しこまれた地面は押しこんで来た砂利のかさだけをどこへはみ出したのだろうか。砂利一個の体積は小さいものだけれども、それだけ分の土はどこかへ行ったのだろう。まさか車の重さで土が消滅するわけもなかろうから、砂利が押しこんだ分だけの土はどこかへうまく融通されたものと見える。余地というものかとおもう」のような観察を長々と続ける。
 「子供へもそう丁寧なのだ」のような観察も、ぼくの心に染み込んでくる。品がいいというのは、なるほどそういうことなのかという気づきが改めて訪れる。
 ぼくも年をとったのか、こういった随筆がとても愉快に感じられるようになった。ただただおかしいというのはこういったことなのか、と、ひとつ嚙みしめたくなるようなことばの「包みきれなさ」がそこにあるのを感じる。
 三十年後には、じぶんもこうした随筆が書けるようになっているのだろうか。
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講談社文芸文庫「現代日本のエッセイ 幸田文」(株式会社講談社
デザイン:菊池信義
発行者:野間佐和子
製版・印刷:豊国印刷株式会社
製本:株式会社国宝社