ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

ピエール・ルメートル『その女アレックス』橘明美・訳

 直木賞を受賞した恩田陸さんが新聞のインタビューで「年間で300冊ほど読んでいる」と語っており驚愕した。石田衣良さんも作家にとって読書は必要だという話をしており、作家の末席を汚している私も、なんとなくそんな気がしている。特に彼は「翻訳もの」もバランスよく読むよう主張している。ガラパゴスにならないように、という意味合いらしい。そういう危機管理は確かに大事だと思って、翻訳本を久しぶりに手に取った――『その女アレックス』。
 結論から言えば、楽しめなかったがじぶんの苦手分野の参考にはなったという印象が強い。勉強だから…と思っても、これを500頁弱はちょっと無理。残酷な話にあまり快楽を見出せない人間なので、なにも面白くなかった。(どんでん返しをしたあとも、偽装してアレしたあとでも)ひたすら「かわいそう」のオンパレードで、プロットの面白さなんて評価している場合ではなかった。「101頁以降は語るな」とあるので、できるだけ序盤のライトな描写を引用しよう。

数メートル先で白いバンが片輪を歩道に乗り上げて停まった。その分歩道が狭くなったので、アレックスは建物に身を寄せて通り抜けようとした。そこでふと人の気配を感じたが、振り向く暇はなかった。肩甲骨のあいだを殴られ、息ができなくなった。ぐらりと前に倒れ、バンの車体に額が当たって鈍い音がした。なにかにつかまろうとしたが、手は空をかき、と同時に相手がアレックスの髪をつかみ、それがかつらだとわかって悪態をついた。男の声だ。大きな手が今度は地毛をわしづかみにし、腹部に拳が食い込んだ。痛烈な一撃で、アレックスは声も出せずに二つ折りになり、吐いた。男はとてつもない腕力の持ち主で、軽々とアレックスを仰向けにして片腕を押さえ、無理やり布きれを口に詰めて喉の奥まで押し込んだ。そのときにあの男だとわかった。地下鉄とストラスブール大通りで見かけた男。一瞬目が合った。アレックスは足で蹴ろうとしたが、万力のような力で締め上げられていてどうにも動けない。今度は引き倒されてバンの荷台に転がされ、腰のあたりを蹴られて荷台の奥へと飛ばされた。顔が床をこすった。男は後ろから乗り込んできてアレックスの腹を膝で蹴り、顔を殴った。それも手加減なく……。相手は本気だ、殺される。殴られた衝撃で頭が床に当たって跳ね返った。ひどい衝撃、そこが……頭の後ろのところ、なんだっけ、そう、後頭部、そうだ後頭部……。その言葉以外にただ一つのことしか頭に浮かばなかった。死にたくない。こんなことで死にたくない。今はまだ死にたくない。口が反吐で詰まり、アレックスは胎児のように身を丸めた。頭が割れそうに痛む。両腕が引っ張られ、後ろ手に縛られた。続いて足首も。まだ死にたくない。扉が乱暴に閉められ、エンジンがかかり、バンは勢いよく飛び出した。まだ死にたくない。p.19

 この作品のなかではかなりライトな描写なのだが、改行もなく、びっくりするほど細かいのでやや疲れる。無能な警察の捜査などにも文量が割かれているから残酷描写は全部で100~200頁ほどかもしれないが、それでもどんどん残酷になる残酷描写を読んで楽しめるほどの器量が、ぼくにはなかった。
 アレックス自身もプロットをうまく回したりどんでん返しするために使われる道具のようになっていて、犯罪小説なんて得てしてそういうものなのかもしれないが(ふだん犯罪小説を読まないのでよくわかっていないのだが)、プロットの感想は「どんでん返しは非常にうまかったが、全体的に作者のコントロールが見え透いている」ぐらいのものだった。脚本家が書いた小説だなあ、というところを超え出ることはなかった。

また、ルメートルはサスペンスタッチの語りにも定評がある。フランスの文芸評論家のベルナール・ピヴォは、「ルメートルは一つの動作や行為の描写に時間をかけるが、それがなんと衝撃的であることか」と評した。確かに描写が細かく、繰り返しが多いところもあるのだが、それにもかかわらずテンポも緊張感も落ちないのは驚きである。さらに、描写が映画的だという点は本人も認めるところで、「頭のなかに映像が浮かんでいて、それを書いているんだから、当然そうなります」と言っている。p.455(訳者あとがき)

 「次になにが起こるか想像した途端に足元を救われる」のを評価するのはよいのだが、重要な情報が後から後から出てくるので推理もクソもなく、ただただ「ああ、そうだったのか」とビックリさせられるだけで、これを推理小説と言ってしまったらなにかが失われるのではないか…という気がした。
 小説家としてなにを学んだか――と自問するとすれば、じぶんは犯罪小説の楽しみかたを全く知らなかったということがわかった、ということだろうか。その重大な事実をどのように、どの方向に発展させるべきかという問いはこれから考えるとして、なかなか気の重くなる読書だった。でも読んでよかった。(映像的な文章を目指す物書きに教えることのできる小説がひとつ増えた!)
 これから読んだ本は、できるだけブログにアップしてゆきたい。年間300冊、というのはまあ無理だけど。
----------------------------------------------------------------
文春文庫(株式会社文藝春秋
デザイン:石崎健太郎
写真:nullplus/Vetta/Getty Images
翻訳コーディネート:高野優
DTP制作:ジェイ エスキューブ
発行者:羽鳥好之
印刷:大日本印刷
製本:加藤製本