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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

「同じ愛し方」に悩むひとたち――恋人を格付けすると「添えなさ」に気づけなくなる

前にも感じたことのある気がするけど、そうでない気もする。そんなやつ。あー、やっぱ1番になるって難しいね。うちいつになったら1番になれんだろ。同じ愛し方されてんだろうな、って事はうちの元カレもうちのこと思い出すとにやけちゃったりするのか? 笑っちゃうぜ。同じ愛し方をしないでください。差が出てしまうでしょ? 違う愛し方をしてください。もっと束縛してもっと嫉妬して、馬鹿みたいに気が狂ってしまえばいいのに、それでもうちが一緒にずっといるから。そんなあなたを愛す私の愛し方(笑)(笑)1番になるって難しい。あーあー、今でも覚えてんだろうな。一年以上抱いていた体の感覚、柔らかさ、温かさ、香り、どこを触れば喜ぶとか。気持ち悪いね。けど、うちの元カレもそう言うこと覚えてるんだろうな。うちの体のこと。って言うとあなたは嫉妬する? そしたらうちは勝ち誇りながら言うんだろうな、お互い様って(笑)
――はづきちのブログ「あー、この気持ちね。※引用者による句読点補完

恋してる自分に恋してるのね。あなたは彼を愛してるんじゃない。きっと誰に恋しても同じ愛し方。あなたは誰だっていいのよ。居心地がいいなら。あなたは自分を守ることばかり。彼がどうなろうと知らないと見ないフリをする。あなた一人で付き合ってるんじゃない。あなたと彼の2人で付き合ってるのよ
――お悩み掲示板「大好きだけどさよなら😢💔」に対する回答 ※引用者による句読点補完

一緒に居るとすごぃ幸せ。でも、一緒に居る事に慣れ切ってるあたしは性懲りもなく、未だに『ばぃばぃ』が苦手。離れるのがすごく嫌。出来る事なら一緒に住みたい。完全、ハマってる。完璧、依存してる。束縛しそぅで、怖い。あたしで、良いの? こんなあたしでホントに良いの?? 早くも不安が降り積もる。我が儘を、言いたくなぃ。迷惑を、かけたくなぃ。負担に、なりたくなぃ。『ゆぅと居ると楽』そぅ言ってくれた。でもやっぱり不安が消えない。同じ事を繰り返しそぅな気がする。同じ愛し方しか出来ない。今は『楽』だと思ってくれるかも知れない。でもそのぅちあたしは貴方の『重荷』になるかも知れない。同じ愛し方しか出来ない。くっついて甘えるのがあたしの愛情表現。『元カレMくん』ともこんな感じだった事を思い出す。1年前の心の傷が今更うずく。治ったと思ってたのに‥。真っすぐに大好きなのにものすごく怯えてる。好きになればなる程に恐怖感も増していく。あたしは恋愛依存症
――♪のんびりまったり♪「(。´・艸‐)※引用者による句読点補完

 「同じ愛し方」というのはなんだろうか。「違う愛し方」なんてできるのだろうか。だれも自問自答していない。検索結果に出てくる登場人物は、みんな「同じ愛し方」というものを把握し切っている。「俺は同じ愛し方をしないって誓った」みたいなひともいれば、「元カノと同じ愛し方されるなら死んだほうがマシ」という過激派もいる。
 問題は「格付け」だろう。恋人をどうやって優位にするかに苦心するわけで、それはつまりどうやって優位を発見するかという問題である。前の恋人《よりも》という文法を用いて格付けすることで、なんとか特別扱いの堅牢な根拠を探す。彼女たちの愛は半永久的な値踏みを前提としている。
 「特別な恋人」であるにもかかわらず、なぜそんな格付けと値踏みを繰り返さなければならないのだろうか。その問いに暫定的な回答を与えるとすれば、どの男も似たり寄ったりだからだろう。いや、それは男とか女とかどうでもよく、ぼくらにとってぼくらという存在はどいつもこいつも基礎的にありふれているのである。

事実、友情とは、われわれがその性質をはっきりと見分け、決定的に選びとったひとりの人間を、絶対的に選択することだ。この原則だけから見ても、かかる感情にふさわしい人間はほとんどないことが理解できよう。実際、たいていの人々にとって、人間など似たりよったりのものだ。便利だとか有利だとかいう選択理由がなければ、選ぼうにも何一つ理由が見つからぬだけに、人と交わるに当たっては、それだけいっそう便利さや有利さにもとづいて行動しがちなものだ。(…)友だちを欲しがるには、あまりにも仲間が多すぎるからだ。真の友情を支える花崗岩の土台は、これと反対に、人々の性質の間にある驚くべき相違と不均衡を、かたときも忘れることなく、深く感じとっているものだ。
――アベル・ボナール『友情論』安東次男・訳

 この次の章で、ボナールは「本当の友だちというのは、添える孤独なひとのことである/Les vrais amis sont les solitaires ensemble」という逆説的な言いかたをする。ぼくらが「同じ愛し方」ということばで表現しようとしている違和感は、現行の恋人の「添えなさ」なのではないかと思う。
 《友だち百人できるかな》的な発想が、だれかと添うことの決定性や絶対性を晦ましている。あまりにも仲間が多すぎるために、じぶんがだれと友だちになるのかを思考できないし、選択することもできない。似たり寄ったりの人間たちと、似たり寄ったりの感情で、似たり寄ったりの交流を繰り返して、孤独にならないよう多数と仲間で在ろうとするあまり、便利だの有利だのの選択理由ばかりが強化されてゆくのかもしれない。米長邦雄棋士が言ったように、指したい手がいくつもあるときはどれも魅力的ではないのだ。
 恋人や友だちを格付けして、優位性を示すピラミッドの頂点に君臨した栄光輝くハイランクカーを選んで恋愛のステップを華やいだところで、似たり寄ったりの小競り合いの結果発表を祝福するに留まる。「いまの恋人を全力で愛する」ことも、「前の恋人よりも深く愛する」ことも、その周辺に生じる「同じ愛し方」という問題も思考も、カテゴリーミステイク(©ライル)に陥っていて、友情の第一文目から誤訳しているし、友情の瞬間を示す通知を文字化けさせてしまっている。

  小手先や熱量やバリエーションの問題ではない。「添えなさ」を選ばないことである。互いが「添える孤独者/les solitaires ensemble」でなければならない。絶対的に選びきらねばならない。選び込まねばならない。選びきれなかった相手を(無理やり?)恋人にすることで、かかる友情は誤作動を起こす。感情は絞まらなくなる。
 愛し方だの、愛され方だのにこだわっているうちは、ずっとおなじことを繰り返すのだと思う。おなじ夢を何度も見て、おなじ結末を何度も味わって、こんどこそ全力を出すんだと意気込んで、ボロボロになる自傷的な恋愛の続編を書き続けるのだろう。
 椎名林檎が『月に負け犬』で「好きな人や物が多過ぎて 見放されてしまいそうだ」と語った心境も、そんな違和感からスタートしているのかもしれない。
 さて、ぼくはどうだ。