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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

幻想だからなんなのか、形骸化だからなんなのか――相手のことばにひたりつくこと

 「そんなの幻想にすぎない/偏見にすぎない/言い訳にすぎない」とか、「それは形骸化している/時代遅れだ/負の遺産だ」とか、気に食わない意見や排除したい前提があるとき、ぼくらはこういった否定のストックフレーズで優位に出ようとしてしまう――もちろんぼくのこの主張も「AはBに過ぎないという構文は概念の容器を否定文のなかで変更しただけで、根本的にはレッテルの相違"に過ぎない"」とおなじ構文に流し込めるが、いまは棚に上げる。
 その自己不安のせいで、「じゃあそれが幻想だとして、幻想だからなんなのか」を考えることはないし、「そもそも形骸化と言ったが、形骸化の条件とはなんだったか」と立ち戻ることもない。だれかを黙らせるために交換したことばに特別な意味などない。「AはBである(なぜならCだからだ)」に対して、「Aは(Bなんかではなく)Dにすぎない」とぶつけてしまうのは、「"C"という論理の肝へのひたりつき」に慣れていないからである。じぶんの主張を急いでしまうと、AとかBに当てはめられた名詞のみを頼りに、その背後にあったはずの"C"を見逃してしまう。

病気とは人生の夜の側面で、迷惑なものではあるけれども、市民たる者の義務のひとつである。この世に生まれた者は健康な人々の王国と病める人々の王国と、その両方の住民となる。人は誰しもよい方のパスポートだけを使いたいと願うが、早晩、少なくとも或る期間は、好ましからざる王国の住民として登録せざるを得なくなるものである。私の書いてみたいのは、病気の王国に移住するとはどういうことかという体験談ではなく、人間がそれに耐えようとして織りなす空想についてである。(…)私の言いたいのは、病気とは隠喩などではなく、従って病気に対処するには――最も健康に病気になるには――隠喩がらみの病気観を一掃すること、なるたけそれに抵抗することが最も正しい方法であるということだが、それにしても、病気の王国の住民となりながら、そこの風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能に近い。
――スーザン・ソンタグ『隠喩としての病い』富山太佳夫・訳

 ぼくらは、「幻想」とか「偏見」とか「言い訳」とか「形骸化」とか「時代遅れ」といったことばに、ひとつの共通した隠喩的な空想を与えている。堕落的で、廃退的で、非知的であることと同一視する空想――「お前はこの会社の癌だ」と言ったときの『癌』とおなじ種類の隠喩――である。ただただ堕落や無知と同一化しようとしてしまっている。ソンタグは、「隠喩がらみの病気観を一掃すること」を掲げたが、同時に「風景と化しているけばけばしい隠喩に毒されずにすますのは殆ど不可能」とも語っている。
 その問題は、「隠喩としての幻想」には道徳臭い穢濁した懲罰性がつきまとうことである。ジジェクは夢や現実をラカン的な文脈で考察するなかで、「幻想は欲望に方向性を与えるものである」と幻想がなにかを考え抜こうとしたが、ぼくらはジジェクのようにはできない。幻想にすぎない、とレッテルの貼替えをしたあとは、その安堵感から幻想がなにかを考えようとしないし、幻想を再定義しようともしないし、幻想の肯定性を見抜いたりもしない――ぼくらは異論を言うことに躍起になりすぎている。
 それは、ぼくらがトランプ大統領の振る舞いに感じる不安感と共通している。トランプ大統領は、理由なんか聞かずにフェンスを取っ払う。「なぜなら"C"だからである」を聞かずに、「AがBだなんておかしいよね」というやりかたをする(ことが多いように思える)。

In the matter of reforming things, as distinct from deforming them, there is one plain and simple principle; a principle which will probably be called a paradox. There exists in such a case a certain institution or law; let us say, for the sake of simplicity, a fence or gate erected across a road. The more modern type of reformer goes gaily up to it and says, “I don’t see the use of this; let us clear it away.” To which the more intelligent type of reformer will do well to answer: “If you don’t see the use of it, I certainly won’t let you clear it away. Go away and think. Then, when you can come back and tell me that you do see the use of it, I may allow you to destroy it.” (...) Some person had some reason for thinking it would be a good thing for somebody. And until we know what the reason was, we really cannot judge whether the reason was reasonable.(「なぜそのフェンスが建てられているのかわからないというなら、私はそれを撤去させないだろう。お引き取り願い、もういちど考えてもらおう。そのあとまた来てもらって、なぜフェンスが建てられたのか答えてもらってようやく撤去を許可するだろう」…だれかのためによかれと思って建てられることだってある。そしてその理由を知るまで、そのフェンスがほんとうに必要かどうかの判断を下すことはどうやってもできないのである It is extremely probable that we have overlooked some whole aspect of the question, if something set up by human beings like ourselves seems to be entirely meaningless and mysterious.

――チェスタトンThinking Backward, Looking Forward

 チェスタトンは「なぜそのフェンスが建てられたのかを知るまで、(邪魔だからといって)そのフェンスを取り除いてはならない」と教義的に提案する。
 知恵がついてくると、ひとを見下すテクニックが身につくと、邪魔なものを排除する手法ばかりうまくなってゆくが、邪魔なものを排除する反射的な選択を、どうにか「理由を聞く」という選択肢に誘導することはできないだろうか。懲罰的な隠喩を貼り付けて邪魔なものを撤去してしまう前に、どうにか理由("C"だからである)に対して開けた対話の場を作り出せないだろうか。
 ソンタグが指摘したとおり解決するのはむずかしいが、ひとつの解決法は、自問自答をすることだろう。「お前は馬鹿だ」と決めつけてしまったときに、できればその前に、「馬鹿というのはなんだったか」「ほんとうに馬鹿だろうか」「じぶんのほうこそ馬鹿じゃないのか」と考えだすことで、緊急的には解決できる。「幻想だ」と評価したひとのほうが、じつは大きな幻想を見ているのではないかというチェスタトンの指摘は、ぼくらの耳にひどく痛く響いてくる。「時代遅れだ」と言ったひともまた時代遅れである可能性を抱えているはずだ。その自己言及なしに、ぼくらはレッテルだけを貼り替えている。概念の器を奪い合っている。
 だからどうしたということでもないのかもしれないが、ぼくは何度も戻ってきたいと思うんだ。相手のことばにひたりつきたい。理由にひたりつきたい。異論を唱えるのもよいし、持論を展開するのもよいが、そこに相手がいるときは、相手のことばや理論にひたりついていたい。もちろんぼく自身がつかっていることば――「レッテルってなんだっけ」とか「決めつけってなんだっけ」とか――についても自分自身で改めて。