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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

2017年の目標:「奇跡(cud)を信じること、冒険のなかで肯定すること、夫婦を越えてゆくこと」

Cud pospolity:
to, że dzieje się wiele cudów pospolitych.
(…)
Cud, tylko się rozejrzeć:
wszechobecny świat.

Cud dodatkowy, jak dodatkowe jest wszystko:
co nie do pomyślenia
jest do pomyślenia.
――Wisława Szymborska「Jarmark Cudów

 ここ数年は「平等に見量る」という目標を立ててきて、ようやく平等という不能さを越える手口を発見できたなあというところ。そのなかで否定性に苛まれたのは生きづらかったけれど、得るものは大きかったとも思う。今度は「すばらしいもの」をすばらしいとして肯定できる人間になりたい。肯定をメインにしてゆきたい。
 冒頭の引用に戻るが、ポーランドの詩人シンボルスカは『奇跡の市』という詩のなかでいろいろな「奇跡」(cud / cudów)について考察している。たとえば「平凡な奇跡は、平凡な奇跡がたくさん起こるということ/Cud pospolity: to, że dzieje się wiele cudów pospolitych」とか、「多くの奇跡のうちのひとつは、小さくて軽い雲なのに、大きくて重い月を隠せること/Cud jeden z wielu: chmurka zwiewna i mała, a potrafi zasłonić duży księżyc」とか、計12個の奇跡(cud)を記した。
 ぼくは、シンボルスカのように「奇跡/cud」をじぶんの生活のなかに、日々のなかに、人生のなかに改めて見つけたい。それを2017年の目標にしたい。やや宗教くさくなるが、これについてだらだら考えてゆく。
 そもそもポーランドでは、ほとんど全員がカトリックで、ここでの"奇跡"も間違いなくキリスト教的な意味合いである。キリスト教における奇跡は、よく「イエスと信者のあいだの恵みの力」という風に言われるが、ぼくのなかでは異なっていて――というか聖書を読むと"中途半端に信じているひと"にもバリバリ奇跡は起こっているので――、むしろ小さく信じることを大きななにかに結びつける肯定性の力のことを「奇跡/cud」と呼ぶのだと思う。
 ぼくらは無宗教でも「どうせ俺の人生なんて」とか「私なんてこんなもので」といった悲観的な運命論を無意識に繰り広げがちだが、奇跡を見つけようとすることで、その貧しい運命論もじぶんにとって大きななにかに結ばれてゆく。奇跡というのは、宗教的に神ってる出来事や超能力を無条件に信じてじぶんは救われるんだと思い込むことではなくて、じぶんを束縛する否定性からじぶんを解放することでしかない。
 たとえば聖書には、弟子が水の上を歩いただの、イエスが水をワインに変えただの、そういった奇跡が記録されている。いまだったらSNSを使って、それがデマだったかどうかをすぐに確認できる。だれかの起こした出来事は、すぐに嘘か本当か調べ上げられ、みんなに共有される。しかし奇跡というのは、真偽を確認できないグレーなすばらしいこととして残っている。「奇(くす)しい痕跡」という訳語が与えられているのも、もはや黒白はっきりさせることのできない過去の神秘的なゾーンであることからだろうと思う。それは情報でも知識でもなく、単なる痕跡でしかない。残ってきたものというのは、それ自体は肯定しか許されない。
 奇跡を信じることは、痕跡を肯定することである。あるいは、肯定した痕跡を内面に取り込むことである。たとえば、ぼくにとって「過去にだれかが水をワインに変えた」なんてこと信じられないが、「一粒の種が芽を出して木となって、花を咲かせ、ブドウという実が成る」というプロセスは信じることができる。
 もちろん、ぼくはブドウの実が成るのを絶対に正しい方法で確かめたことはない。どんな植物学者も、どんな果樹園長も、どんな教師も無理だと言える。昨日そこに植えてあった種が、今日もおなじ種であることを確かめることはむずかしい。屁理屈に聞こえるかもしれないが、種が実になるまでをずっと確認しておく方法はない。機械を使ったとしても、その機械の精度を完璧にすることはできない。ぼくらは任意のどこかを「とにかく正しいものとして」見過ごすしかない。今日の種は、昨日の種とおなじものとして話を進めるしかない。そして、なにより、ぼくらはそれを他人にやらせる。何学者かわからないが、とにかくだれかに研究させる。種を植えさせて実になったことを高い確度で確認させて、その結果のレポートを通じて「種が実になること」の正しさを知る。
 その手口をよくもわるくも「信じる」と呼ぼう。「心と身体は別々である」と歴史の偉人かだれかが確かめてくれたらしいから、とにかくなんも知らないけれど、心と身体は別々なんだと「信じている」のである。ルービックキューブの配置が「(8!×3^8)×(12!×2^12)/(2×2×3) =4,325京2,003兆2,744億8,985万6,000通り」だとだれかが計算してくれたらしく、ぼくはそれを「信じている」と言える。みんなもきっと、2次方程式の解の公式を導いてくれた数学者のことを、その計算結果・証明結果を「信じている」んだ。
 では、どうしてそれを信じているのだろうか。だってぼくらはそれを計算していないし、証明もしていない。スーパーの卵の賞味期限を確かめていないのに信じている。ぼくらはどうしてそれを信じていて、かつてだれかが水をワインに変えたらしいという記録を信じないのだろうか。
 それは勇気の問題である、と断言させてほしい。解の公式が使えたとか、卵を食べても大丈夫だったとか、みんなも大丈夫って言っているとか、なにかしらの経験・だれかしらの証言を引用することによって、ぼくらはそれを信じる勇気を獲得している。解の公式を「知っている」と言えることは――卵が安全だと「わかっている」と言えることは――、そこになにかしら大小の勇気があることを示している
 逆に勇気がないことに関して、ぼくらは否定を採用する。なにかを肯定するには、どうしても勇気が必要であって、それは過去の痕跡を引用して、じぶんのなかに内面化するところから始まる。なにかを新たに肯定しようとするということは、過去の無数の痕跡を冒険することである。奇跡(cud)とは、いつかだれかの勇気になるものとして傷つけられた跡のことである。解の公式の奇跡や、スーパーの卵の奇跡があった。スーパーの卵が安全なものだと初めて肯定しようとしたときのぼくらは、きっと冒険者だった。信じるということは、過去のだれかの無数の傷と、その引用を手に取るための冒険的な気分によって支えられている。
 もちろんそれは冒険である以上、ただでは済まないことのほうが多いだろう。安全ではない道をゆこうとするのだから、犠牲はつきものである。それでも奇跡的な態度で世界と正対することで、どんな冒険でも愛せるようになり、憎しみや悲しみの否定性を消しさることができる。
 トマス・アクィナスは、愛(amor)を情念の第一原因(cause prima)と考えた。欲望も、希望も、快楽も、悦びも、愛をもとにしている。愛に向かって驀直してゆくことで、ぼくらはその他の二次的な感情に振り回されなくなる。愛というのは、感情の迷妄をなくし、否定的なものを和ませ、自己と対象を一直線に結びつける力(virtus unitiva)として理解される。
 愛というと、よく「私たちはおたがいに愛し合っている=私たちは仲睦まじい」というおたがいの能動的な気持ちの一致を示すために使われるが、トマスにとって、愛は〈魂の情念〉(passiones animae)である。つまり、なによりもまず「受けること/passio/pati」が肝心になる。相手から愛を受けて変化することが、愛の最初の作用である。愛を感じることでじぶんのなかに得体の知れない運動が生じて、思いもよらない気持ちが誘発されて、その受け身の経験のなかで相手との関係を捉え直すことになる。

恋せずにいられないな 似た顔も 虚構にも
愛が生まれるのは 一人から
(…)
夫婦を越えてゆけ
二人を越えてゆけ
一人を越えてゆけ
――星野源『恋』

  星野源の『恋』という楽曲のなかで、たった一度だけ、異質な雰囲気を放ちながら「愛」ということばが堂々と使われる。そこでは「愛が生まれるのは一人から」と歌われており、紅白歌合戦を視聴しながら、まさにこれだと思った。「私たち愛し合っている=私たちは仲睦まじい」ではなく、愛というのはたった一人のことである。たった一人であることの肯定的な態度であり、冒険的な気分である。一人であることから生じる力を信じること、それが恋、それが愛だと歌いのだと受け取った。
 二人であることは一人であることに後行しているが、それでもまずは二人であることから始めるのが恋なのだ。それでも二人であることを超越しなければならない。一人であることに立ち戻らなければならない。二人でありながら一人であり、一人でありながら二人であるという夫婦性のなかで、ぼくらは、愛されるし、愛するし、その愛の生じたところで関係を捉え直してゆく。肯定するしかない奇跡として、素直に肯定してゆくこと。それを重ねてゆくこと。新しい変化を何度も肯定する。当たり前を変えながら、距離のなかにあることを頼りに、常に愛を受け合うのである。

It is this pursuit - this endless questing - which we must now resume. There are new problems, new dangers, new horizons - and we have rested long enough. The world is changing - the perils are deepening - the irresistible march of history moves forward. We must now take the leadership in that great march - or be forever left behind. And this is why we have gathered here at the home of enduring greatness - not merely to pay tribute - but to refreshen our spirits and stir our hearts for the tasks which lie ahead. We celebrate the past to awaken the future.
――Speech of Senator John F. Kennedy, Memorial Program, 25th Anniversary of Signing of Social Security Act, Hyde Park, NY
August 14, 1960

  ブドウの種がブドウの実に成るプロセスを疑ってみせるのは理性の高度なワザだが、どうしても否定することにつながってゆく。種が実になってゆくプロセスを「すばらしい」と思うことがなくなってしまう。もちろん現実はそんな極端なものではないだろうが、ぼくは「すばらしいこと」をすばらしいと言祝ぎたい。
 ケネディ元大統領は、とある演説のなかで「未来を目覚めさせるために過去を祝おう/We celebrate the past to awaken the future」と語った。過去を肯定したときに、その変化を受けて――あるいは愛を受けて――未来が動き始めるのである。彼は、就任前に教会で、神に向かって「困難に立ち向かう勇気を与えてください」と言った。まず愛を受けること、受け取って変化すること、そして関係を捉え直すこと、ケネディがアメリカの困難な時代に偉大な大統領として在り続けることができたのは、愛を知っていたからではないかと思う。
 奇跡だの、信じるだの、愛だの、神だのとかなり宗教臭くなっているが、べつに宗教的なことが言いたいわけではなくて――なんなら宗教的な意味で受け取ってもらっても構わないのだが、ぼくは宗教者ではなくて――、ぼくはどうやって「すばらしいこと/cud」をすばらしいと肯定することができるだろうか、ということを考えていただけなんだ。
 ポーランド語では「奇跡=すばらしいこと」という風に表現される。どちらも"cud"なのである。なんなら「天才」とか「驚き」のことも"cud"と言えてしまう言語で、とにかく、驚いたり、すばらしさを感じたり、そういう経験を祝うことに奇跡の意味がある。つまり、ぼくの'17年の目標は「cud」というポーランド語のなかにギュッと収まっている。「cud」というポーランド語に含まれている肯定的なセンスをどうにか内面化すること。シンボルスカが見ていた世界を辿ってみること――「どうせすべてはおまけなのだから、おまけの奇跡は、考えられないことが考えられるということ/Cud dodatkowy, jak dodatkowe jest wszystko: co nie do pomyślenia jest do pomyślenia.」。考えられないことを考えられるように、奇跡=すばらしいこと(cud)を掴む準備をしてゆきたい。

実生活を離れて思想はない。しかし、実生活に犠牲を要求しないような思想は、動物の頭に宿っているだけである。社会的秩序とは実生活が、思想に払った犠牲にほかならぬ。その現実性の濃淡は、払った犠牲の深浅に比例する。伝統という言葉が成立するのもそこである。この事情は個人の場合でも同様だ。思想は実生活の不断の犠牲によって育つのである。ただ全人類が協力して、長い年月をかけて行った、社会秩序の実現というこの着実な作業が、思想の実現という形で、個人の手によって行われる場合、それは大変困難な作業となる。真の思想家は稀れなのである。この稀れな人々に出会わない限り、思想は、実生活を分析したり規定したりする道具として、人々に勝手に使われている。つまり抽象性という思想本来の力による。――小林秀雄『思想と実生活』

 そのために生じるであろうリスクについて、じぶんの実生活とゆっくり相談してみることにしよう。