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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

ちくわさん、ぼくから見たよ、ちくわさん

 これから、ちくわさんについて語ってゆく。語りたいという気持ちと、語らなければいけないという気持ちが以前から小さい熾火として同居していて、昨今(?)どちらもきわまってきたので年末の勢いを借りて記してゆく。と言ってもまあ、総決算というわけではなく、ぼくのほうから見て明らかだった「ひとつ」だけしか書けそうなことはないんだけれど。
 ただ、大事なことは、これはあくまでぼくからみたちくわさんであり――というか「ちくわ」さんであり「Y.S.くん」ではなく――、それはぼくのレンズに写ったちくわさんでしかない。じっくり見ているつもりではあるし、それなりに手入れをしてきたレンズだという自負もある一方で、たとえば一眼レフのRAWで撮った写真よりも、iPhoneのデフォルトカメラでなんの気なしに撮った写真のほうが「よい写り」だったなんてことがよくある――ほんとうによくある――ように、色も写りも、あらゆるものが相対的だと断っておかなければならないだろう。すなわちここに書き留められたものは、心理テストのような省略を前提としている。


「ちくわさんと初めて会った日のことを、いまでもよく覚えている。」

 こんな書き出しはありふれていて朝露ものだが、事ぼくの記憶に限っては異常事態である。ぼくの記憶――と言うかまあ記憶のせいにしないで「ボク」――は、ひとのことを覚えるのが苦手で、しばらく会いもしなければ顔と声と名前を平気で忘れる。そんなぼくが、いまだに最初の接線をどのように描いたか覚えているというのは、ぼくの全細胞、あるいはぼくの全生命にとって破壊的な事実となっている。
 その記憶維持の柱になっているのは、当時のメモ帳の存在で、そこにこんなことが書いてある。「会話文はしつこいぐらい省略しないのに、会話自体は過剰省略する」――ほとんど悪口にもみえるメモだが、この感覚はずいぶんと変わっていった。
 レッツ・ビー・オーネスト――というか手の内の3~4割ほどバラシてしまっていて全微分可能な感じになっているからオーネスト以外の選択肢はないのだが――、出し惜しみなしで言えば、この二年間で、評価――というと「私は客観性を保っています」みたいになって欺瞞的になるので、より主観的に「値踏み」とか「見比べ結果」とか「嗅ぎ付けたもの」とか「目星」とか「謬見的な月旦評」とか「減点方式的な買いかぶり」と言い換えることのできる愚見――の値がひとつだけ大きく変わった。
 ちくわさんは大胆になったように思える。それは勇敢さと言ってもいいし、徒手空拳と言ってもいい。とにかく出たとこ勝負の鼻っ柱が強くなった。それはじぶんでコントロールできない部分を諦めることでもあり、委ねることでもあり、敢えて託してみる態度でもあるのだろう。具体的に言えば、ウケるかわからないようなリスキーなギャグ(?)を回収できない形で吐き出すことが増えたような気がする。
 数年前までのちくわさんからは想像もできないような姿勢というか、挑戦というか、そういう肯定的なものでないとすれば、じぶん自身のこだわりに追いつけないくらい身の回りのあらゆるものが早く進んでいて、それをきっぱり諦めた、という言いかたもできるかもしれない。「まあいいか」性を高めたというか、「これぐらいなら問題にならないよね」みたいなコミュニケーションの俗性を拡張したというか、「好き勝手」を言うことに対して撤退しないやりかたを見つけたのかなと思う。
 やりとりを部分部分に分けてうまく対処するモジュールを作ったのだろうという気がするんだけれど、その分だけ全体の「一気に決まるタイプ」の情報交換が余計に苦手になったのかなと感じている。それこそなにを言ってもべつに正解でも不正解でもないような場での記号的な自己紹介みたいなものが、前のほうがまだなんとかなっていたように見える。
 それを抜きにしても、スキーマをたくさん作って、ずいぶんと既存の悩みを流せるようになったんじゃないかんと思う。このあいだもうちで鍋をやるときに、かなり手際よく動いてくれたし、ぼくの困っている些事にもちょうどよく対処してくれて、いつも「できることって閉じているんだ」と悩んできた(?)ちくわさんの「できること」も、ぼくから見たら、火を見るよりも明らかに、あみめでぃあが名作であることよりも明らかに、「君は変わったよ」と断言できる。
 スキーマというのか、準備というか(たぶんちくわさんの言語運用的には「準備」というよね)、なんでもいいんだけれど、「考えているようで考えていないこと」にいきなり撤退させられないように、考えていないとなにがどうなるのかを前もって把握して、その予測的な知識を、どろどろとした現実的な場面にうまく適合させて乗り切るうまさは、段違いになったと思う。すり合わせっていうのかな、ぼく的には「コーディネート」と呼ぶんだけれど。
 とにかくね、習慣性を獲得したというか、これまで心砕いてきた現実的な些事に対する「余裕」は能力でも性質でもなんでもなくて、習慣的なものだったんだろうなって思った。意識していたのかわからないけれど、ちくわさんは余裕を習慣化できていて、そういう準備を繰り返していて、ぼくはすごいなあって思ったんだよ。ぼくはずっと能力だと思ってきたから。
 そういうわけで、2000字も書いてしまったから終わろうと思うけれど、これからもずっと、縁が切れるまで、よろしくね。