ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

強引な言葉遣いに私の想いが沈むとき――決めつけることについて

「好きだ」ということだけを覚えていて、その気持ちが何に支えられていたのか、何から始まったのか、本当は何だったのかということに対しての興味を失っていき、あらゆる「最初」は好きによって晦まされてしまう。向き合わなければならないのは、「好き」という後から付いてくるオマケの感情ではなく、それ以前にあったはずの、最初にあったはずの根源的な気持ちなのだ。
――本質的にちくらぎ『あみめでぃあ』vol.1, 初版-らららぎ「好きな人という多義的で独特な言葉に寄り添って」

 相手にとって「好きな人」ということばでは不適切=不足に思われるときも、ぼくらは「好きな人」ということばで語らせたがる。――ねえねえ好きな人できたの、彼には好きな人がいるらしいよ、好きな人にならされてもいいかな。
 なかには積極的に好きな人ということばを使いたがるひとたちもいるし、そういうひとたちが引き起こす「それって結局は好きな人のことでしょう」という強引なコミュニケーションのなかに異なる想いを沈ませてしまうひともいる。それはハラスメントとして認められるようなことなのに、ほとんどだれもが無罪を無知で塗り固めてしまう。
 使えることばをじぶんに寄せて強引に固定すること――不適格なことばを使わせて黙らせること――で、条件を問わなくてよい状態にする。「好きな人ってどんなひとのことだっけ」なんて話はぜんぶ見下して、あたかも大事じゃないものとして省略してゆこうとする。
 わかりやすく言えば、悪口として「お前は馬鹿だ」と言うとき、だれも「馬鹿の条件=馬鹿なひととはどういうひとのことだっけ」をひとつひとつ確認しようとはしない。なぜならそんな条件よりも「お前は馬鹿だ」と言うこと――決めつけること――が大事だからである。
 たとえば、きゃりーぱみゅぱみゅが成宮問題のときに「週刊誌ってひとの人生を狂わせる」と批判していたが、「じゃあ《ひとの人生を狂わせる》ってどういうことか」を改めて考えることはしない。なぜなら「週刊誌ってひとの人生を狂わせる」という決めつけと印象操作が大事なのであって、それ以外のことは大事ではないから。「薬物が」ひとの人生を狂わせることは、どうでもよくなってしまっている。
 条件を不問にしながら、あらゆる合意と検証を省略しながら、ぼくらは、決めつける。そうやって相手の想いを黙らせて、じぶんにとって便利なコミュニケーションを強要することは、一種のハラスメントではないのだろうか。すくなくとも、決めつけていいと思っているということは、決めつけられてもいいということなんだ。

日常の中に後見人(私が不安になって振り返ったらそこにいてくれる人)が欲しいだけなんだよなあ。――2013年12月22日

 ぼくはよく(ひとの面倒を看ているように見えるので)「保護者」「お父さん」という規定を受ける。あまりに言われるので機械的な愛想笑いで返却するようにしているのだけれど、ぼくのやりたいことは「後見」(tutelage)であって〈君らが保護者と呼びたいそれ〉ではない。しかしながら、だれかを「保護者だ」と決めつけるとき、その保護者の条件=保護者という比喩を適用すべきひとってどんなひとのことだっけを問わない。だからぼくは「保護者って規定したい=保護者だと決めつけて話を進めたい」という他人のくだらない欲望に圧力をかけられながら、慎重に慎重に話さなければならない。
 「ごめんなさいね、あなたはどうしても『保護者』にしたいらしいですが、これは『後見』なんです」と言って、瞬時に「そうなんですか」とはならない。使っていることばがちがうから、あるいはちがう言葉遣いを無意識に拒絶しているから。たとえば、ぼくが、保護者だと決めつけられそうになったときに、三年前にじぶんで書いたブログを引用して、

後見人は、<どうしてそんなこと>という分からなさについて思い馳せることができる。悩みを/話してくる人にとって、何よりも大事なのは<分からなくても、私のために聴いてくれる、私のために後ろから見守ってくれる、ブレたときに戻ってきてもいいこと>である。

――「聴くこと、後見人であること」2013年12月21日

とか、

不倫問題とか、身体目当てで寄ってきた男に依存しちゃってる話とか、そういう<悩み>を聴いていると、<いったいどうして、そんなことで悩んでいる>と思ってしまうときがある。それは私がまだ平面思考で未熟だから。私は「どうしてそんなこと」のまさに<そんなこと>が悩みの主題になっている意義について、全く考えることができていなかったのだ。

――同前

とか言い始めて、それを真剣に聴いてくれるひと・理解しようと努めてくれるひとは多くないだろう。
 あくまでぼくのなかで保護(guard)ではなく後見(tutelage)なんだよと相対化しても、「私から見たらそれは保護者だよ」という視点にこだわろうとする。そこから抜け出して、相手のことばを聴くことは非常に知性を要することで、非常に困難で、だれにでもできることではないと思う。
 あるいは「へえ後見なんだ、じゃあ法的な意味で相手に判断能力がないとみなしているということなんだね」という頭の固い法学クラスタも同様で、ぼくにとっての「後見」は相手の判断能力を見下すことではなくて、むしろ「代理の効果は本人に帰属する」ことが大事で、ぼくにとっての「保護」の問題は、代理の効果を代理人に帰属してしまうことが問題なんだ、という問題意識を理解してもらうのはむずかしい。
 後見? 代理? 効果? 帰属? それってどういう意味?――というふうにひとつひとつわからないことを尋ねてくれたらいいのだけれど、わかったふりして誤想して、無知を無罪の根拠にすることもある。(もちろんぼくも無罪な表情をするときがあるけれど、せめて大切なひとのことばは保留しよう、わからなければ尋ねていこうと努めている)。
 だからあえてわざとらしく自分語りらしく続けると、みんながぼくに使わせたい「保護者」ということばには、「代理したことによって得られたものは代理したひとのもの」という意味が含まれていて、でもぼくはそんなもの興味なくて、「代理された本人に効果があるべきだ」という思想があるから、ぼくがなにかを代わりにやったとしても、ぼくはその効果をすべて持っていってほしいと思っている。
 クソ男が世間知らずの女子大生に「世間」を教えるふりをして親的な立場から搾取するような「保護」――俺の言うことを聞けばお前は世間を知ることができるし、楽しい大学生活を送れるし、その延長で幸せになることができるんだ(そしてそれはすべて俺のおかげだから恩返しをしろ)――とは全然ちがうんだ、と言いたい。行為だけを文脈外から見て「一緒に見えた」としても、ぼくのなかではまったくちがう。話を聴いてくれれば、文脈を知ってくれれば、それがぜんぜんちがうとわかってもらえると思う。
 それでもひとは「じぶんの見たいようにしか世界を見ない」ようになっているし、ぼく自身も「ぼくのやっていることはちがう」という世界を見たいだけなのかもしれない。だからこそ、そこは何度もためらってゆきたいところなんだけれど、「それって結局、保護者なんでしょう」とか、「それって結局、好きな人なんでしょう」とか、「お前は馬鹿だ」とか、「週刊誌はひとの人生を狂わせる」とか、ぼくは好きじゃないなあというだけの話だったのかもしれない。
 すくなくとも、君が決めつけてくるなら、ぼくもまた決めつけるかもしれない。それでたぶんぼくは嫌になるから、友人ではいられなくなってゆくと思う。そのうち関係がなくなっていたら、ごめんね。ぼくらは仲良さそうに見えて、おたがいコミュニケーションできていなかった、ということなんだ、そういうことなんだ。