相談に乗ることの困難さ――「わかる」ことの支配性を自覚できない未熟さを出発点に

悩んでいる人に「分かる」と言って助けたくなる。けど、相手が本当にどん底まで悩んでいるとき、「分かる」という言葉が苦しめていることを知りました。「分かってないですよね」ある女性に言われたその言葉が、しこりになってぼくに残ります。そして本当に悩んでいることは、むしろ「分かるわけない」「分かってくれるな」とさえ思っているのだと知ったのです。
――人生かっぽー「本当に悩んでいる人には『分かる』という共感は凶器になるかもしれない」

 

 この問題は、そこらじゅうで起きているため、占い師のところにもたまーにくる。俺のことばは無力なんだ…みたいな厨二的な悲壮感とニヒリズムを携えて、相談にくる。こういう一律的な相談(者)に対して、ぼくは一律的に「なぜどちらかを排除するのか」ということを優しめな口調で質問する。
 ここで「そうか、わかりました、ありがとうございます!」となる相談者はいない。質問されても理解できないのは、「わかる」か「わからない」のどちらかしか選べないと思い込んでいるからである。そして友だちに「わかるよ」と言ってしまうのは、「わからない」のが不安だからである。わからないことによって、会話のルーズコントロールが――不安。じぶんの浅はかさの露呈が――不安。失望されるのが――不安。相談に乗る人物として相応しくないのが――不安。なにもわからないと想定されるのが――不安。
 相談に乗るということは、非常にむずかしい。「知っていること」を想定されている気がする。「知らないなあ」「わからないなあ」ではいけない気がしてくるために、仮初の責任感が生じてくる。その責任を果たす態度として「わかるよ」が出てくる。わかっているから、ぼくは君の悩みを聞いてあげられるんだ、という相談フェーズがある。
 その責任感は、「相手の抱えている問題を理解して解決すること」への責任感であり、それを前面に出せば出すほど、私的だった〈相談/a private council〉は、ただの〈諮問会/a general meeting〉あるいは〈教義/a doctrininal lesson〉になってしまう。相談に乗るときは、解決することに責任を感じてはいけない。プライベートな雰囲気を、ドクトリンな雰囲気、レッスンな雰囲気に(勝手に)変更してはいけない。
 「わかる」は、責任を果たそうとする思い上がりによって生まれる。相談を、単なる相談にしておけない未熟さによる。共感すればするほど、その苦しさから解放させたくなり、それを現時点で担っているのがじぶんだと勘違いしてしまうところによる。そうして「わからない」を排除してゆき、相手の悩みにじぶんの定規を当てて語り直そうとして「わかる」を言ってしまう。
 じぶんの定規を持ち出すことは、相手の悩みやことばの一部――あるいは全部――を黙らせることである。わかることで悩みを馴致できたことにし、その馴致できたところを解決のいとぐちにしようとしてしまう。それが責任だと思い込んでいるから、そうしなければいけないとさえ思っている。「俺にも/私にも〈わかる〉ところ」から解決を探らねばならないと躍起になっている。問題をノーマライズして、一般的にあり得そうなソリューションを当て込めて、シミュレーションしてよさそうだったら実装する。すべての根拠は「君はぼくに相談しているし、ぼくには悩みがわかるから」になっていると言っても過言ではないだろう。
 この根拠が成立すると思い込んでいるのは、ふつう、わかるというとき、そのわかる条件なんてどうでもいいと思われるからである。わかるというときは「なにが」わかるのかが最優先事項なのであって、その条件を問う作業が挟まれることはない。
 たとえば「わかり手」などの芸能活動(?)も、とにかく「何かがわかること」が芸となる。逆に悪口で言えば、「あいつは馬鹿だ」において重要なのは「あいつは馬鹿だ」であり、その「馬鹿」の条件ではない。あるいは「そんなの贋作に決まってんじゃん」とか、「こんな素晴らしいひと二度と出会えない」とかも同様である。なにかの大きなリテラシーを持ち出し、無敵の文脈として措定し、そこからこぼれ落ちるものを黙らせることでもって成り立つ言説の自明性を支えるものが「何かがわかる/ことが重要である」だと言える。カントの用語で言えば「うぬぼれ」(Eigendünkel=arrogantia)になる。
 ぼくらは、目の前の悩み多き相談者に共感しようとするたびに、うぬぼれを発動してしまう。そしてそれに気づかない。自覚できない。共感は善いことだと思っているから、わかるっていいよねって思っているから、どうしようもない隘路に転がり込んでしまっている。いや、もちろんぼくだってわかることは善いことだと思っているが、「共感者の定規を当てて黙らせることを含んでいる」ため、その支配性に見合うだけの配慮を欠かしてはいけないのである。つまり条件付きで善いのであって、無条件に善いわけではない
 占い師をやっていたときの先輩――というとかなり怪しいが四大出身のふつうのひと――に、最初にこんなことを指摘された。「君は共感しかしていない、同調が足りてない」。いやあ、ほんとうに意味がわからなかった。苦しかった。なにがダメなのかわからなくて、俺のやりかたは正しいんだって反発しそうになった。カント的に言ってうぬぼれていた。共感と同調のなにがちがうのかなんて、逆立ちしても思いつかない。しかも教えてくれない。指摘するだけ指摘して、あとはじぶんで考えな、みたいなドライな業界なので、それならじぶんで考えるしかない。
 結局たどりついたのは、「わかる」と言うときに――つまり相手のことばを黙らせるときに――かならず「わからない」を保留しておくことである。落着しない、決着しない。わかるか/わからないか、という一方排除の思考をしないこと。わかる/わからないのどちらも排除しないで、それでもあえて「わかる」を選んでゆくための配慮と労働を重視すること。その悩みに対して相手が心を燃やしてきた分だけの火を、じぶんの心にも放火してみせること。なんなら相手以上に相手の悩みについて考えてみようとする意識。それを「同調」と呼んでいたのだと思う。
 共感は黙らせるだけでいいが、同調には倫理的なプロセスが伴う。支配の自覚を出発点に「わかる」ことで、可能な配慮が増えてゆく。その配慮と労働によって、相手の悩みを対象化できるようになってゆく。味わえるようになってゆく。単なる「わかる」だったところから逃れて、再び異なる質感でもって「わかる」を取り込むことができるようになる。そこまでしてようやく、相談としての相談が保たれる。
 よく「男は相談に乗るのが下手だ」と経験則的に言われるが、たしかに占い師の世界に男は少ない。入ってくる数は結構いるんだけれど、ぼくみたいに単純な共感しかできなくて挫けてやめてゆく。かといって、こうやって教えてくれるひともいないし、妙に職人ぶっているため言語化・理屈化できている世界でもない(そもそも理論と言葉に弱い世界なので、それを嫌っているところがある)。相談者の燃えている火を見てあげられない、あるいはその火とおなじだけの火をじぶんの心に放火することができない、そこが重要なのに問題を解決してしまう、性急なのかうぬぼれなのか、あるいは両方なのか、そこがなによりむずかしい。
 相談に乗ることは日常的だが、考えれば考えるほどむずかしい。ぼくの倫理、きみの倫理が、その場で、一瞬一瞬で、試される。とにかく大事なのは、「わかってあげる」ことよりも、相手とおなじ火をおのれの心に放火することである。

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この内容は、藤本一司さんの『倫理学への助走――「わかる」と「わからない」のあいだ』(2008年)を参考にしているので、気になったかたはぜひ(できればポチって)読んでください。カント研究者のマイナーな本ですが、おそらくレヴィナスの要素も入っていると思います(ぼくがレヴィナス好きなので「わかる」)。おもしろいし、いままでになかった倫理学の入門書だといえます。「北樹出版」というマイナーなところの本なのでなかなか話題に出てきませんが、かなりの良書です。