今年の十二月は、いつもより握力が強くなってしまっていた

 老いるということが、彼/彼女が燻らせて続けてきた「死への眼差し」を、私自身に内面化することだとしたら、今年は老いることに努めていたのかもしれないと思う。死ぬと思っているひと、死に接近しているひと、死と詩のあいだでもがいているひと、いろいろいるけれど、そういう彼らの、彼女らの、見ている世界――しかも死を思いながら見ている世界――に共感しようとして、その眼差しを取り込もうとすることで、ひとは老いてゆくのかもしれない。
 溶岩焼き肉のレストランさんで、大事なひとがじぶんの死をどのように思っているのか聞いた。彼女のこれまでの半生は、暗がりに転がっていて、それでも戦略を練りながら、あたまを使いながら、生き残ってきたという。惜しげもなく、じぶんの過去や、じぶんを縛るものや、じぶんを動かす原理を、目の前で、笑いながら、つとめて明るく語ってくれる。いつ死んでもおかしくなかったと思う。彼女もそう思っているらしく、明日死んでも大丈夫なように最低限度の用意をしていると教えてくれた。
 死は期待や予感ではなく、ひとつの確信として彼女のなかで底止している。諦めているのか、受け容れているのか、十歳のころに突然おとずれた不条理に手を振っているようにさえ見える。天使は神の本性だから、罪を犯すことができないという――だったら彼女は、その意味において天使なんだと思う。そんなことを思いながら表情を窺おうとしても、ずっとをこっちを見てくれているのでうまくいかない。たぶん笑っているんだろうけれど。彼女の消え入りそうな笑顔が、たぶん、ぼくはすごく好きなんだと思う。
 その死を見詰める眼差しを、どうにかして内面化したいと思って、じぶんのなかでいろいろと精神的に試みているけれど、それがうまくいっているかどうかわからない。先に生まれたぼくよりも先に、何度も何度もなにかを断念してきた、その経験だけが、その感情の、過去の震えだけが伝わってくるだけで、彼女のなかの死の号令を聞き取ることはできなかった。
 そこから二週間して、一昨日、お気に入りのふたりのデートを撮影させてもらった。男の子のほうは、最近、会うたびに目がおかしくなっていて、なんと表現すればいいのかわからないけれど、枯れたものを見ている目になっている。新しくできた首の傷も生々しく、でもたぶんぼくにはなにもできないから、一生懸命、写真を撮るだけ。写真を撮るなかで、その行為のなかで、「生き返ってこいよ!」と叫ぶのが、ぼくの大事な仕事なんだと思って、久しぶりに写真というものを撮影した。
 彼とは、長いこと一緒にいるつもりだけれど、彼が死を見詰める眼を、ぼくはまだほとんどわかっていない。共感できていないとか、同感できていないと言うべきかもしれないし、そういうことばで言語化すべきではないかもしれないとも思う。彼にとって、たぶんぼくは、最初のころ、じぶんで言うのもなんだけれど祈るべき天だったんだけれど、なんとかキャンセルし続けるなかで最近はもうすこし友だちになれていて、まあなれてないけど、なれてきたという言いかたしかできない変容があって、そういうタイミングが来ている気がする。ここからどうなるのかうまく計算はできていないし、するような余裕もなくて、すべてが早いから、それは彼が最初から維持してきた若さだと思うし、ぼくの鈍さでもあるのだけれど、とにかく早いから、ぼくも彼の死への眼差しを早く見つけたいなって思う。
 もうひとりの子は、そういった迫真性こそないけれど、会うたび会うたび笑いかたが変わる子で、おとといは呼吸も小さかった。なにひとつ知らないけれど、なんか大きなストレスを抱えているんだろうなあって、圧し潰されないように保ち続けている心の熾火みたいなものがあって、それが豊かじゃないから、強くないから、生きることがむずかしくなってゆくのかなって感じた。無責任だけれど、ぼくにとって、しあわせになれよって、願ってやまない存在。
 言語化するには無理があるけれど、目の前のひとがいつも消え去ってしまう想像をする。いなくならないでって、懇願するぼくが、俯瞰で映る映像。無意識というスクリーンにずっと垂れ流されていて、それが極まってくると、隣で座っている八十代のおじさんとかを見るだけで泣けてくる。このひとは来年もこのカフェに来ることができるのだろうかって、そりゃぼくもおなじ条件だけど、寿命だってあるし、病気のリスクもあるし、このひとはもうすぐ死ぬのかなって漠然と想像するだけで、機能停止して落涙することがある。
 それが、この十二月はひどかった。ひどいというか、たぶんじぶんからやっていたと思うし、そういうじぶんの感受性のようなものを諦めようと思ったんじゃないかなって思う。死んでゆくこと、枯れてゆくこと、潰されて、諦めて、捨てて、消えてゆくことへの自己自身への眼差しを、できるだけ内面化しようとしていた気がする。たぶん無意識に、知らぬ間に。なにをしているんだろう。じぶんでもわからないけれど、知らなきゃいけない気がして、触れなきゃいけない気がして、君が死んでしまう前に、君の死の先触れを知っておかなければいけない気がして、たぶんぼくは随分と至近距離で、君の心を見詰めていて、観察していて、気にしていて、挫けていると思う。最近のじぶんの振る舞いを自己分析してみると、そういうところがある気がしてならない。
 二人称の死について語ったのはジャンケレヴィッチだったけれど、ぼくは二人称の死の主体が掴んでいた先触れを知りたいのだと思う。なんのためか、その目的は、いまのところまったくわからないけれど、もしかしたらヒロイックなことかもしれないし、もしかしたらラブなことかもしれないし、もしかしたら単なる興味なのかもしれない。
 そんなところまで自己分析が追いついていなくて、また会えたら考えてみたいと思う。ちゃんと相手の顔を見ながら、話しながら、あるいは写真を撮りながら。どんなに控えめに言っても、ぼくの人生の、あるいは運勢の、運命の、間直しをしてくれた三人だと思っているので、今年の最後に会えてよかった。
 十二月は、どうしても、草木が枯れて落ちて死んでゆく時期で、寒いとか関係なく、人恋しいとか関係なく、ひとの死に感度を合わせやすくなる。たぶん、ぼくだけじゃなくて、みんなもそうだからこそ、合ってゆくんだと思う。たがいに目を見たり、おなじ空間で呼吸をしたり、笑いかけたり、気持ちを汲んだり、そうやって相手を模倣したり、気持ちや気分を感染させ合ったりすることで、十二月の、死んでゆく季節の、感覚を掴み合える気がする。それをたぶんぼくは意識してしまって、握力が強くなってしまっていて、今年の十二月は、いままででいちばん疲れた。もう疲れた。世界はリアルタイムに動くから、世界内存在のぼくは、なんの文句も言えないのだけれど。