ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

はっきりしないではっきりすることで生じる詩的な態度

 もはや覚えてすらないなんかの話の折りに「おもしろいね」と言ったら、「らららぎさんはおもしろいと思ってないときの"おもしろいね"がすっごいわかりやすいですよね」と打ち返され、「そうかな、あはは」みたいなはぐらかしを重ねた。ドライな発言でぶっちぎっているようで、善いとか悪いとかの断罪要素を限りなく抑え、なんか知らないけれどあなたってそうよね、という未着地なコミュニケーションで終わらせてくれている。断定しながら断定することへの迷いを含んでおり、だからこそぼくはその余白に向けて、「そうかな、あはは」と返すことができる。
 善悪とか道徳とか常識といった教育的な観念から一歩も逃げずに、その場の決めつけを回避できる。それは縛るものからの「自由」であり、ずっと「詩」が求めてきた目的や方法でもある。彼女の話すこと、その会話全体は、ぼくにとって「詩」だった。ツイキャスをやっていれば行きたくなるし、コラボで変なひとがあがっていたらすみやかに立ち去りたくなる。ぼくは、詩のように話される話を聞きたいんだろうね。
 このあいだの京都新聞の文化面に北山修さん――精神科医でミュージシャン――のインタビューがあり、このようなことを語っていた。

(…)「どっち付かずでいいんだよ」ということをコミカルに歌い込んでいます。もともと人間ってそんな存在ではないでしょうか。この「どっち付かず」って、生きる上ですごく重要だと思う。(京都新聞2016/11/20,16頁、文化百聞 第31回「人は本来『どっち付かず』」)

 詩のもがきかたを、北山さんがうまく表現してくれたなあ、と思った。ミュージシャンだけあって、詩とか詞に対して思い入れがあるのだろう。
 さらに、このインタビューの補言でディランに関して「賞を受けたそうな、受けたなさそうな、授賞式に出席したそうな、出席したくなさそうな…。これは『どっち付かず』の在り方とも関係するではないだろうか」とコメントしており、目を開かされる思いがした。
 選考委員たちは「詞がいい」と評価するが、ディランは「歌を聞いてくれてありがとう」と返す。このズレが最後まで続いたところなんかも、ディランの「決めつけさせない態度」が出ている気がする。でも「詞」が文学として認められる途を断つわけにはいかないから、賞は受けて、式は欠席する。まあなんとも、と言った感じがするし、ぼくは好きだ。「潔くなく、どっち付かず」に生きることを肯定したいという北山さんと合っているだろう。蛇足だが、旅館で働いていたとき、同僚にNHKの元会長のひとがいて、そのひととの最後の夜、飲みに行って、「逆らわず、いつも笑顔で、従わず」という処世術を教えてもらった。ディランの態度や、北山さんの思想となにかリンクする気がする。大事なのは、きっと、詩のようにもがくことであること。

去る10月13日(※)にスウェーデン・アカデミーがノーベル文学賞を発表したのは、なんと誰あろう、「ボブ・ディラン」でした!! この発表には、思わず〝え~!〟と声が出てしまったほど。 (…) 「文学」とは、〝言語で表現された芸術である〟として、 小説、詩歌、戯曲、紀行、随筆、文芸評論などがありますが、ボブ・ディランの〝歌詞〟がそのような範疇に果たして含まれるのでしょうか? 文学として評価され、権威あるノーベル文学賞に値するというのであったとしても受賞発表後、故意としか思えないほど姿を隠し沈黙を続けました。 まぎれもなくこれはノーベル賞の失墜であり、歴代の受賞者との落差がありすぎます。 辞退するなら辞退すればよいこと。まるで ノーベル賞を 馬鹿にしたような態度、〝 自分はそんなものもらっても嬉しくないよ、要らないよ、自分には多くの人の心を 打つだけでいいんだ 〟とでも言いたいのならそう言うべき。 (…)今回の受賞の際にも、 いつまでも授与の返答をしなかったディランの態度は傲慢そのもの。いっそ辞退した方が、潔くて伝説になったのでは? それにしてももっと賞に値する人がいるでしょうに、なんで彼にノーベル賞をあげるのかと納得いきません。世界中が注目する授賞式は12月10日(※)です。彼は果たして 出席するのでしょうか? 賞金(9400万円)は、受けるのでしょうか!?(…)授賞式はいよいよ明日です。さて、ボブ・ディランは来るのでしょうか!?
――デヴィスカルノノーベル賞ボブ・ディランに! 世界中で沸騰した賛否両論』
原文ママ

 詩(詞)を書かないような、文学の欠片も持たないようなひとたちにとって、あまりにどうでもよすぎて、あまりに無関係すぎて、浮かんでくる感想が「出るのか出ないのかハッキリしろよ」ぐらいしかなかったのでしょう。それでもグローバルの時代の弊害と言うべきかなんと表現するべきか、メディアから情報が入ってきて、それに対してじぶんの意見を発表しなければならない気がしてくる――芸能界のご意見番ポジションになってしまった彼女なら、なおさら。最後に「賞金(9400万円)」と書くあたりも、このひとのキャラクターが出ている文章で、がんばれという気がしてくる。
 ここまで「怒れる」ひとはあんまりいないだろうけれど――むしろ「!!」のあとに半角スペースいれるぐらいだから内心は相当冷静だろうけれど――、多かれ少なかれ、行くのか行かないのか、行きたいのか行きたくないのか、ずいぶんと揺さぶられたことだと思う。
 たとえば、これがもし、まったく才能のなさそうなやつがどういう訳か選ばれたら、「引っ込め」で済む話なんだけれど、デヴィにせよ誰にせよ、ディランのあれが「(半)韜晦」だとわかっているからこそ、ムカつくものである。能ある鷹が爪を見せたり隠したりして遊んでいるのを「俺もやりたいぞ」というだけの話で、要するに、ヒーローに自己投影したい子どもと同じで、ヒーローが「悪を倒そうかなあ、倒そうと思えば倒せるんですけど、うーん、弱点とかもわかりやすいし、戦ってもいいし、たぶん戦ってほしいひと多いでしょう。わかるけれど、戦わなくてもいいって思ったりするよね。うーん、とりあえずまあ、俺が出ていけば牽制にはなるから、牽制しておくね」という治安の守りかたをしたら、たぶんちょっと嫌なんだよ。
 でも、ぼくは、「半韜晦」したっていいと思う。才能を晦ましたり、また見せたり。どっちなんだよと言われたら、どっちなんだろうと代わりに躊躇ってみせること。そういう態度もあっていいんじゃないかな、と思った。東京大学阿部公彦准教授も「詩は、迷いながら読んでいいんですよ。あいまいな世界がないと、人間は生きていて辛くなりますから」(BuzzFeedボブ・ディランの詞は何がすごいのか?』)と言っているし、断定のなかの非断定、非断定のなかの断定、あるいはその相互浸透が起きて、どちらであるか同定できなくなるような言い草、語り草、そういうものがあっていい。

I was out on the road when I received this surprising news, and it took me more than a few minutes to properly process it. I began to think about William Shakespeare, the great literary figure. I would reckon he thought of himself as a dramatist. The thought that he was writing literature couldn't have entered his head. His words were written for the stage. Meant to be spoken not read. When he was writing Hamlet, I'm sure he was thinking about a lot of different things: "Who're the right actors for these roles?" "How should this be staged?" "Do I really want to set this in Denmark?" His creative vision and ambitions were no doubt at the forefront of his mind, but there were also more mundane matters to consider and deal with. "Is the financing in place?" "Are there enough good seats for my patrons?" "Where am I going to get a human skull?" I would bet that the farthest thing from Shakespeare's mind was the question "Is this literature?" (...)But there's one thing I must say. As a performer I've played for 50,000 people and I've played for 50 people and I can tell you that it is harder to play for 50 people. 50,000 people have a singular persona, not so with 50. Each person has an individual, separate identity, a world unto themselves. They can perceive things more clearly. Your honesty and how it relates to the depth of your talent is tried. The fact that the Nobel committee is so small is not lost on me. But, like Shakespeare, I too am often occupied with the pursuit of my creative endeavors and dealing with all aspects of life's mundane matters. "Who are the best musicians for these songs?" "Am I recording in the right studio?" "Is this song in the right key?" Some things never change, even in 400 years.
その報せを受けたのは、ツアーの途中でした。わずか数分で要領よく理解できることではありませんでしたが、文学の巨匠シェイクスピアが思い浮かんできたのです。きっと彼はじぶんのことを劇作家だと思い、文学作品を書いているなんてこと考えもしなかったでしょう。彼のことばは舞台のために書かれましたから、読書されることなく発声されるものだったと存じます。たとえば『ハムレット』を書いていたとき、「ふさわしい配役はどうなるだろうか、舞台演出はどうしようか、本当にデンマークでいいのだろうか」といった悩みの種があったことだろうと感じております。もちろん作り手としての目指しているもの、野望、そういったものが常に念頭にあったことでしょう。ですがそれ以上に俗なことがらを考えることに身を削っていたことでしょう。「資金繰りはできるか、パトロンのための特別席はあるのか、小道具の骸骨の手配はどこで行うのか」。シェイクスピアにとって、これは文学だろうかという問いは、遠く彼方になったと言えます。(…)ひとつお伝えしておきますと、私は演奏者として五万人規模の単独ライブも、五十人規模のライブもやったことがありますが、ひとつの人格として扱える五万人よりも、それぞれの人格を持っている五十人の前で演奏するほうが難しかったです。ひとりひとりが独立したアイデンティティを持ち、自分自身の世界を持ち、(五万人単位の人格よりも)ずっと明確に物ごとを認識できる。あなたの誠実さと、それがあなたの才能の深さにどれ程関係しているかが試されるのです。ノーベル委員会がとても少ない人数で運営されているという事実を、私は見落としたりしません。とにかく、シェイクスピエアにとっても、私にとっても、大事なのは作り手としての試練を求めることでありながら、同時に人生の俗っぽいことがらの、あらゆる側面に対応し続けることであります。「こういう楽曲ならどういうミュージシャンがいいんだろうか、レコーディングスタジオをまちがっていないか、このキーで本当にいいのか」といったことが、四百年すぎたいまでも変わらず立ちはだかってくるものなのです。

――ボブ・ディランノーベル文学賞受賞スピーチ

共同通信の全訳には微妙な箇所があったので、ある程度は踏まえながら独自で訳しました。

 歌いたいのか、歌いたくないのか、なんのせいで歌えないのか、どうすれば歌ってくれるのか、あらゆることを語りながら、なにも語らずになにかを断言する。ここまで正直にはぐらかし、ここまで誠実にもがいてくれるひとなんて、ほかにいるのだろうか。なぜこれが叩かれてしまうのか、なぜこれを叩こうとしてしまうのか。
 はっきりしないではっきりしていて、はっきりしているからはっきりしていない、ぼくはそういう世界が好きだし、そういう詩をもっている子を、ひとを、好きになるんだろうなあ。そういうことを思った昨日だった。