「専念してください」と言い続けること

 ぼくは自動車の運転免許を持っていないから、つい一年半前まで、クルマのことなんか、なにひとつ知らなかった。ところが、同人誌の編集作業で自動車について大量に注釈をつけなくてはならず、図書館にこもって入門書と専門書を交互にながめてことばを覚え、動画サイトにあがっている解説動画を次々に流し観て、愛好家が交流しているコミュニティを見学し、いつの間にか詳しくなっていて、「俺の知らないことまでたくさん書いてある」と著者に言ってもらえた。
 それ以来、たまにクルマの情報を追うようになって、たとえば今月売りの『Let's Go 4WD』という四輪駆動車の専門雑誌に載っていたイベントのルポなんかが気になった。「東北ジャンボリー2016」という宮城県スポーツランド菅生のモトクロス場で行われたイベントに関するもので、すこし引用する。

好天にも恵まれて会場内には笑顔がいっぱい
 2011年に発生した東日本大震災。各地でイベントなどが自粛される中、「東北の人たちと一緒にイベントを楽しもう」というテーマのもとに始まったのが、この東北ジャンボリー。(…)今年のイベント内容だが、昨年と同様ジムニーのレース『JSTC東北デビジョン第3戦」(※)や、ハードなオフロード競技「XCT - Dual2016第2戦」のほか、東北ジャンボリーではおなじみとなったちびっ子たちに大人気のストライダーレース「みちのくライダーズカップ」を開催。(…)また、このような機会がないと、なかなか他のイベントを見ることがないので、例えばストライダーに参加した子供たちを連れた家族がジムニーのレースを見ていたりしていたのが印象的だった。

※括弧が"『」"になっているのは原文ママ

東北ジャンボリー みちのくライダーズカップ - Google 検索 (←画像検索、ぜひ写真で見てもらいたい)

 

 ほかの特集では、「FJクルーザーにあこがれて、ランドクルーザープラド78の買い手が見つかると同時に契約し、そして、妻に告白しました」(まささん/FJクルーザー日本仕様)とか、「お子さんを保育園に送迎するために活躍中なので、奥様からリフトアップの許可が出ないとか。と言いつつも、豪州仕様のバグガードやTDIチューニングを施す」(中村陽介さん/プラド2.8L)とか、クルマを中心に家族の楽しそうな姿が載せられている。
 特に気にすることではないのかもしれないが、子どもがヘルメットをかぶって、小さなバイクでオフロード(舗装されていない道)を走っている光景を(紙面を通して)見ていると、いまのところ「ぼくの子どもはこうならないんだよなあ」という気持ちがわいてくる。
 ぼくの元父親は、幼いぼくをパチンコ屋で遊ばせたり――むかしはそんな簡単に追い出されなかった――、海まで連れて行ったりしてくれた記憶がある。飲み屋にも入ったし、レンタルビデオに行くこともよくあった。ホームセンターや建設関連の道具を見に行くこともあったと思う。それがいまのぼくにどう活きているのかわからないが、ぼくはちびっ子レーサーになることはなかったし、じぶんに子どもができてもきっとちびっ子レーサーにはしないだろうという想定ができる。
 教育熱心な親御さんというのは、子どもにたくさんのチャンスを与えようとする。お習字からピアノ、作文や、英会話、まるで投資家のようにいろいろな分野で、その才能が開花するどうかをモニターしている。
 あまりに競争的で、あまりに闇雲なようにも見えたのだけれど、占い師とか塾講師をやるなかで、やらせる側(与える側)――親だったり、あるいは塾講師だったり――がなにをやっているのかよくわかっていない、ということに気づいた。つまり「やらせるとはやらせる側にとってどういうことなのか」という問いに対して、未回答なまま妄信的に「やらせていた」のである(この気づきは、じぶんとしても反省するところが大きかった)。やらせるのはいい、可能性を増やしてやるとかもいい、でもぼくらは「やらせるとはどういうことなのか」という地点から考え始めなければならない
 先日、担当の編集者さんに「いつもカフェの代金ださせてしまってすみません」と言ったら、「だいじょうぶです、執筆に関するあらゆることのマイナス面を引き受けるのが編集ですから、二度と気にしないでください」と回答され、作家としてのぼくは『書かされている』という前提なのだと初めて理解した。そしてそれは決して悪いことではなく、「書かせる/書かされる」という前提を共有するからこそ、執筆が安定し、商業ベースで書き続けることができるのだろう。
 やらせる側の責任というのがあるとすれば、それは専念させることである。つまり「専念してください」と言い続けることであり、実際にあらゆる懸念を裏で処理してやることである。
 ぼくは進学校に通わせてもらえたのだけれど、進学校とか進学塾というのは、進学の懸念を排除してくれる場所なんだといまさらながらに思った。勉強の懸念、進路の懸念、ライフプランの懸念、親との価値観のズレの懸念、あらゆることを処理してくれていた。もちろんそれは「進学しない人生」に対して信じられないほどの弱さを露呈する。ぼくは進学なんてしたくなかったが、最終的に、あらゆるプレッシャーに負けて進学してしまった――まあ、プレッシャーに負けて、とそれっぽく言い訳したが、結局、懸念を排除してくれていた道のほうが、ぼくにとって楽だったのだろうとも思う。
 ハーバード大学の出した論文に「代替案を考えることで生産性が落ちる」的な内容のものがあり、衝撃を受けたのを覚えている。もちろん著者は「だから代替案を考えるな」と主張しているわけではなくて、「代替案を考えることもリスクである」とアナウンスしたかったらしい。そのうち日本語に翻訳されてビジネス界隈あたりで反響を呼ぶんだろうけれど、これはそのまま、親の仕事なんだろうなあとも思った。代替案を考えることでパフォーマンスが落ちるなら、親が代わりに考えてやればいい。子どもになにかを「やらせる」ときは、それに専念させ、子どもが違和感を覚えたり、向いてないと感じて途方に暮れそうなときに、別の案をすかさず出してやれるようになればいい。なにかをやらせるときは、そのリスクをすべて背負いきるぐらいがちょうどいいのだろう。そこには甘えや依存のような問題もあるだろうが、それはまた別の問題かな、という感じがする。
 というわけで、まあじぶんのなかでもよくわかってない部分が多いのだけれど、とりあえずお台場あたりのクルマのイベントに行ってみようと思う。なにかが変わりそうな気がするので。