彼女たちを代理するもの

 ぼくの、むかしの恋人の話をしよう。
 ぼくと付き合ったひとは三人いるから、だから、三つの短いお話になるけれど、できるだけ退屈しないように喋ろうと思う。
 どの恋愛も、大げさに言っておかしかった。記憶の一部が文字化けしているから、すこし不鮮明なところもあるかもしれない。そのときは許してほしいな。
 最後にはオチというかさ、ぼくも小説家だから、ひとつのまとまった話をするつもりだけれど、君は君のほうで、いったいこの話が〈なんの話だったのか〉考えながら聴いてもらいたいなって思うんだ。だって、漠然と聴いているだけじゃあ、ぼやけたり、にじんだりするような話だから。目の前にない人生の話なんて、いつもそんなもんでしょう。それを、君が君として真剣に聴くことで救ってくれたら嬉しいなって思う。もっとも、この場合は金魚掬いのほうの〈掬う〉かもしれないけれどね。
 前置きが忠告ばかりで愛がないなって思うかもしれないけれど、結婚したり、子育てしたり、死んでいったりするときのために、きっと必要な話だと思うんだ。だから、むかしの恋人の話だからといって、センチメンタルなものじゃあなくて、もっとサバサバした話かもしれない。じぶんでも曖昧なのは、いまからじぶんがなにを言い出すのか、なにを言い始めるのか、ぼくもよくわかっていないからなんだけれど……まあいいか、これから話を始めよう。
 わかりやすく「洗剤」の彼女、「蜜」の彼女、「窓」の彼女と分けておこう。便宜的に"彼女"ということばを使うけれど、それはぼくの貞操とは関係ないことだから、わかっていると思うけれど――だって、ぼくは君のことが好きだから、だからこんな話をするんだよ。

 生まれて初めて異性と付き合ったのは、大学に入ってからだった。
 別に男子校だったとか、同性愛者だったとか、そういうことは全くなくて、むしろ無かったのは魅力のほうかな。魅力がなくて無力になって、そういう非力な青春も悪くないなってメタ的に考えて、音楽ばっかり聴いていた気がする。なんにもわからないくせに、セルジュ・ゲンスブールとか、ジョアン・ジルベルトとか聴いていて、そんなじぶんを大人っぽいなって思っていた気がする。特に楽しくもなければ、特に哀しいこともなく、ウォーキングみたいな速度で毎日を生き過ごしていたんだ。
 大学の講義は、なんていうか、「大学の講義」って一括りにできないなって思うんだけれど、それでも一括りにしたくなるような独特な雰囲気があって、そういうどうでもいいところに敏感になって、あんまり出てなかったかな。いるだけで気持ち悪いというか、居心地が悪いというか、内部の人間なのに、どこまでもよそ者になれる空間で――いや、空間でさえもなくて、ドブ川みたいな、整理されているのに汚い場みたいな感じだった。
 それでもさ、キラキラした一般的な共学から順調にあがってきた子って、きっともうキラキラしている恋愛に飽きているんだろうね。そこからもっと高みにある別次元のキラキラ星を望むか、あるいはまったく別ベクトルにある名称不明の異次元の隕石にぶつかってみて反応を楽しむか、どっちかなんだろうって思う。それでぼくはぶつかったんだ。無視していてさえくれれば、ぼくはもうじきデプリにでもなって、宇宙を漂泊できるプランだったんだけれど、大学っていう場所に棲んでいる魔物は、不器用な依怙贔屓をするんだよ。その子とセックスをしたんだ。
 他になにをしていいかわからなかったんだよ、お互いに。もちろんセックスだって、「わからない」のうちに入っているんだけどさ、それでも風潮があったというか、徴候があったというか、全体的に同意できることってそれぐらいしか持ってなくて、もはや身体を交えることが共通言語だったんだと思う。ぼくらが、莫迦だから――。
 それで成り行きから付き合うことになって、その子もおかしい人間で、いつも洗剤を贈ってくれるんだ。最初は汚いからちゃんと洗えっていうメッセージなのかと思って、洗濯も食器洗いも、風呂もトイレもちゃんと洗浄するようにしたんだけれど、どうやら違ったみたいで、洗剤の支給は、ぼくの掃除の頻度に左右されなかった。確固たる意志で、頑固な汚れみたいだった。洗剤だけにね。
 それから彼女とは、大学で会って、講義の話をして、お互いの話をして、デートして、たまにセックスして、それだけのなんでもない日常を共有して、なんでもない大学生活をなんとなくふたりの思い出で塗りつぶしてゆくオペレーションを続けていた。ぼくらの恋愛は、いつの間にかオペレーションだったんだけれど、それもいつかつまらなくなるから、どっちかに他の刺激が生まれて、その他の刺激のほうに向かう。どっちが先だったか忘れてしまったけれど、自然消滅した。オペレーションがぼくじゃない違う相手に引き継がれた、と言うほうが、彼女の感覚に近いかもしれないけれど。
 そこから半年ぐらいして、向こうから連絡が来てさ、ちょっとした近況報告のついでに御徒町で会って、酒を飲んだんだったっけな。お互い随分と酔っ払っちゃって、確認もしないでホテルに行って、すべてが終わったあとに、彼女は「洗剤、次はアルカリ性がいいよ」って、ぼくに言ってきた。
 まったく意味不明だよな。次の洗剤はアルカリ性がいいなんて、人生で思うことなんてない。ぜんぶ同じようなパッケージなんだから、注意深く、トイレ用とか、食器用とか、お風呂用とか、そういうのをチェックするだけで、アルカリ性がいいなあとか、次は酸性にしようかしらなんて、ぼくは思ったことがない。君もそうだろう、洗剤なんていうのは日用品でありながら、そこまで日常に溶け込んでいるわけでもない。危険だからっていうのもあるかもしれないけれど、危険性のある日用品で他に溶け込んでいるものはたくさんある。洗剤だけは、どこか疎外されていて、専門性を保っていて、どこか用途でしか機能でしか考えられていない。
 最後のオペレーションが終わって、家に帰って、なんとなく気になって洗剤を見たんだ。名称は、たしか『アワーズ』だの、『洗浄能力』だの、『トイレクリーン・クリーン』だの、『クエン酸くん』だの、『セーフティ・セーフ』だの、『ファン・ファン・クリーニングス』だの、いろいろな洗剤が置いてある。捨てるのも悪いし、捨てかたもよくわからなかったから、貰ったものを置いておくダンボールを作って、そこに入れていたんだけれど、ぜんぶ、酸性の洗剤だった。アルカリ性の洗剤はひとつもなくて、まったく意味わからなくて、次はアルカリ性がいいよって、どういうことなんだろうって考えた。
 大学も長期休暇の期間だったし、アルバイトにも熱心じゃなかったから、その洗剤で掃除をしてみた。いろんなところを、酸性洗剤で、実践って大事だっていうから。そしたらわかっちゃったんだ。いまどき高校生でも知っているかもしれないんだけれど、酸性の洗剤はサビとかアカとか、そういうタイプの汚れに使うんだよね。ぼくが汚かったのは、洋服でも、食器でも、風呂でもトイレでもなくて、ぼく自身のサビだったりアカだったわけで、彼女はそれを綺麗にしたかったんだと思う。本来の意味で「素敵」になってほしくて、ぼくのためにいろいろしてくれていたんだと思う。推測だけど、推測でしかないんだけど、大量に酸性洗剤が贈られてくると、そういうメッセージ性も生じるだろう。彼女の持っている十円玉は、いつもピカピカだったからね。
 それで、最後に会った日に、アルカリ性にしろと言ったのは、ぼくに酸性の汚れが付着したからなんだろうと思う。酸性の汚れが、なにを表していたのか、ぼくにもまだわからない。

 次の彼女は、「蜜」の彼女。
 その子は、といっても年上なんだけれど、見習いの研究者で、中央アジアの宗教かなにかを研究していたと思う。とにかく博覧強記で、一種の憧れで近づいたんだよ。学生時代にやらなかった、先輩に憧れるってやつを初めて上演してみたかったんだと思う。とにかく夢中で、洗剤の彼女との思い出なんか全部すっ飛ぶぐらい、大好きだった。
 その子とはゼミのOB飲みで知り合って、最初の会話も覚えている。「どうして"蜜"という漢字には、"ミツ"しか読みかたがないのか、君にはわかる?」ということを聞かれた。洗剤のときとは、まったく異質の、宇宙的な規模で意味不明なことを聞かれたと思ったよ。知識を問われているのか、思想を問われているのか、それともぼく自身の感性を問われているのか、まったくわからなかった。動揺したし、なんて答えたか覚えてない。
 いろんなひとがいた場だったから、話題はすぐ進路だったり、研究所の話だったりに移ったんだけれど、ぼくはずっとその質問が忘れられなかった。
 大学の図書館のリファレンスで、漢字に関する文献を教わって、いろいろ読んでみたけどなんにもわからなかった。蜜という漢字は、中国のなかでも珍しいタイプの漢字で、インド・ヨーロッパ語から翻訳された翻訳語で、それが漢籍から日本に輸入されたということだけがわかって、読みかたが他に与えられなかった理由はわからなかった。
 次のOB会のとき、勇気を出して隣に座った。ぼくは蜜の話がしたかっただけなんだけど、そういまでも信じているんだけれど、別の意味で解釈されて、テーブルの下で事情がもつれて、二次会のあとにぼくの家が近いという合理的な理由から、ぼくの家に宿泊することになった。その日のうちは、その日のうちにやるべきことをふたりでして、大事なのは次の日の会話で、もう昼頃だったかな、こんな話をした。一部は正確じゃないけれど、再現してみる。
「蜜、インド・ヨーロッパ語だったんですね」
インド・ヨーロッパ語族に属していた、という意味ならそうらしいという研究結果が出てる。高校の授業でミトラ教ってやったでしょう。あのミトラは太陽って意味なんだけれど、どうもそのミトラという音に蜜という漢字をあてがったみたい」
「じゃあ、太陽という意味なんですか」
「正確にはわからないけれどね。中国ではミー、韓国ではミルって呼ばれているから、どうもそういう伝わりかたがあったんじゃないかって話になってる。ゾロアスター教だったり、そのミトラ教だったり、そこからできた仏教だったりが、中央アジアから東アジア、そして日本に伝来してきた。アレキサンダー大王は君も知っているでしょう。彼が宗教に寛容なヘレニズム文化を作ったのも知っていると思うけれど、ゾロアスター教だけは破壊していたという文献があって、きっとなにかあったんだと思うんだけれど、その破壊や迫害で、中央アジアの宗教がこっちまで押し寄せてきたのは、いちおう筋が通っていると思う。ソクラテスとかプラトンとかアリストテレスから、どんなことを家庭教師されたのかわからないけれど、アレキサンダー大王はゾロアスター教だけNGだった。どうでもいいことすぎて、だーれも研究してない。文献もろくに見つかってない。文字だけが残っている。蜜という字を手がかりにして、当時のことがわからないかって思うの。それが私の研究テーマ。その最初の一歩、どうして蜜にはミツという音しかないのか。中国から来たから音読みだと思うでしょう。でも日本にもミツバチがいた。太陽という意味の蜜と、花の甘い蜜はまったく異なるはずだけれど、そこでマッチして、音訓のどちらかよくわからない形で日本語に溶け込んでいる。ほかにも菊とか蘭とかも読みかたがひとつしかない。気にならない? あなたは細かいところにこだわり続けることができるタイプの頭の良さを持っているから、この問題に取り組めると思うんだけれど。現にもう図書館でいろいろ調べたみたいだだしね」
「はい、なにもわかりませんでしたけれど」
「逆にどんな成果があった」
「さっき言ってた、仏教ですかね。般若波羅蜜多という心経に蜜という字が入っていて、仏教学では完成している状態とか、向こう側に至るとか、そういう如来のイメージだってことぐらいですかね」
「よく見つけたわね。般若波羅蜜多のことをサンスクリットでは"prajnaparamita"と言って、フランス語の「パフェ」、つまり"parfait"っぽいから完全という意味だと思われているけれど、そしたらギャーテーギャーテハーラーギャーテーの部分がわからなくなる。みんな行くんだ、一緒に行くんだという早口言葉の部分ね。そういうことを、いまちょうど私も研究している」
 そこでぼくは、何ヶ国語ぐらいやるのか、というズレた質問をして、呆れさせたのを覚えている。嫌な思い出だったから、よく覚えている。まあとにかく頭が良くて、セックスして、付き合った。なんかおなじことの繰り返しをしているみたいだし、たぶん繰り返していたのかなって思うけれど、とにかく付き合った。面白いことに、付き合っても、会えばずっと蜜の話。たまに研究所の愚痴もあるけれど、その愚痴も聴いているうちに蜜の話になっている。ぼくは彼女と付き合っていたのか、彼女の研究と付き合っていたのか、いまでは判別不可能になっているし、それでいいとも思っている。
 とにかく貴重な一年間だった。特に印象的だったのは、なぜヨーロッパの蜂が日本に住み着かないのか、という話だった。それを話して、蜜の彼女の話は終わろう。
 外来種というと、どの分野でも日本の固有種を食い散らかしているように言われるけれど、ミツバチの事情はすこし変わっているんだ。天敵は、ご存知の通りスズメバチなんだけれど、洋蜂は闘ってしまうんだ。闘争本能なのか、そういう遺伝子があるんだろうね、全滅するまでスズメバチと闘う。勝てないのに、莫迦だよなあ。それに対して、和蜂は巣にこもる。たまに闘うけど、勝てるときだけ。基本はやりすごす。共生する。だから野生化できていて、洋蜂は野生にいない。そのミツバチは、太陽の角度でもって蜜のありかを伝達しているという。太陽によって、ビーラインを動いている。もはや太陽に指示され、移動し、蜜と花粉をもらい、花をたくさん増やしているとも言える。彼女はその話の最後に、こんなことを言ったんだ。「要するに、ミツバチに自由意志なんかなくて、そんなミツバチを研究している私もおなじね。自由意志なんかないみたい」って、意味がわからなかったなあ。

 最後は、「窓」の彼女。
 同じ大学院に通っていて、ぼくは文学部で二人称の小説の可能性について研究し、彼女は映画という文化装置について研究していた。
 どうして付き合ったのか覚えていないんだけれど、たぶん意気投合して、なにかがあったんだと思う。想像にまかせるけどね。
 その子との最初の会話も、ほんとうに、記憶に新しい。すごく印象的で、新鮮だった。
 「ゴシック建築のドアが大きいのは、なぜだと思いますか」ということを聞かれた。いきなり変なこと聞かれると、ぼくは好きになってしまうのかしれないね。自分語りをすると、こういうことがわかってくるから、あまり好きじゃないんだ。それで、もちろん質問には答えられない。でもそれっぽいことぐらいは言えるよ、ぼくの知性でも。だから、「権威を表すためかな」なんてことを言って、たぶん内心では笑われていたと思うけれど、優しいから、あるいはひとを見下すことに興味がなかったのか、「もっと実用的な意味なんです」と仄めかしてくれた。間違ってるとか、不正解とか、バカとかアホとかじゃなくて、なぜかヒントをくれる。不思議な子だった。
 それでもぼくは、想像力に欠けていて、なんにもわからなかった。結局、その子が答えを発表して、確か答えは非現実的な世界に入るためのドアだから、といった感じだった。要するに「神のゾーンに入ることをドアで理解しろ」とか、「この神ってる大きさのドアについてこられるかな」という情報伝達のためのドアだったということかな。そのとき、ドアってすごいなあって思った。
 それから少したって、一緒に住んだほうがいいってことになって、部屋を借りることになった。マンションの一室にしようということになって、女の子の要望に合わせようと思ったら、彼女は「私は窓だけ選ばせて」って言うんだ。窓だけでいいのって思うよね。ぼくもそう思った。セキュリティとか、街のおしゃれさとか、ブックオフとかイケヤとか、ドン・キホーテとか、そういうのいいのって聞いたら、できればマツキヨがあれば嬉しいけれど窓さえ私好みだったら、あとはなんでも同じって断言するんだよ。どんな人生を送ったら、そんな価値観になるのかなって。変な子だった。
 いろんなところに内見に行って、彼女はほんとうに窓しか見ない。聞けば、どんな光が入ってくるかで人生が決まる、みたいなことを言っていた。それと雨の日でも窓を機能させるために軒がなきゃいけないって言ってて、こだわるとそういう感じになるんだなって。たぶんぼくが迂闊だったんだけれど、窓ってそんなに大事なの、みたいな、無神経なことを言ってしまって、そこから、はじめて、彼女の価値観を聞けたんだ。また会話を演じさせてもらうね。
「ドイツでは、就労規則に窓の使いかたが書かれるくらい窓を大事にしています」
「そうなの、さっき光って言ってたけれど、やっぱり光が大事なの」
「禅寺にある円窓ってわかりますか」
「わかるよ、大きな丸になっているやつ」
「大きな円環に、美しい自然が映っています。ほかにはなにが見えますか」
「なにも見えない。ほかの部分は暗い壁だ」
「それは、窓の窓ではない部分が見えているんです。映画で言えば、スクリーン外という画面です。矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、画面外というのは画面以上に画面なんです。ゴシック建築のドアも、だれかの家のキッチンの窓も、そのために特化して作られます。キッチンの窓と言えば、キッチンの窓以外の窓がある想像できないですよね。つまり、建築というのは保守的なんです。機能を守るために積み上げてゆく。窓は採光だの、換気だの、眺望だのが機能ですが、私にとっては映画を見ているのと同じだし、ほかのひとにとっては絵画を見ているのと同じなんです」
「映画と絵画……?」
「映画は、いつだって画面の外が大事です。画面の外に映っているはずのものが、次に映るべきで、観るひとの心は画面外に遠心してゆきます。それに対して絵画は枠内の世界です。枠内にどれだけ世界を約(つづ)ませることができるか、中心的、求心的です。窓は遠心的かつ求心的です。窓に映っている景色だけをひたすら求めてもいいし、窓に映らなかったほかの世界を観てもいい。円窓が美しいのは、そこに自然の美しさを求心できることと、真っ暗にきっと映っているであろう映像を無として観ることができるからなんです」
 そりゃあさ、大学院に行くくらいだから、きっと頭は良いんだろうと思っていたけれど、ここまでクレイジーな方向に発達していたとは思わなかった。これまでよく隠してきたなって、いや最初の質問から本当はぶっ飛んでいたんだけれど、それでもよく隠してきたなあって思ったんだ。
 それからライプニッツというドイツの哲学者の話になった。モナドには窓がない、ということを言ったらしい。個物は、個別に存在しているのではなくて靴下の内側みたいな空間にちょうど綺麗に折りたたまれているって考えていたらしい。ひとつながりで、窓がない、ドアがない、それが個物の正体だって、おもしろい世界観を持っている哲学者がいたらしい。じゃあ世界の違いはなにかって言えば、その窓のない折りたたまれた世界の、どこを明るくしたり、どこを暗くしたりするかなんだってね。そうやってすべての個物は、明るくするとか暗くするとか、それぞれの明暗配分というか、コントラストというか、キアロスクーロみたいな、特異な方法でもって世界の普遍性を有している。
 この考えかたは面白いなって思ったんだけれど、彼女はこう指摘した――この哲学者は空間を信じすぎている。私は境界のほうを信じている。
 空間を信じるとか、境界を信じるとか、もうなにを言っているのかわからなくなった。
 それでも彼女にとって、窓があること、窓から光が入ること、窓の映像にあり得る無の部分、窓の景色に求心すること、そういうことが大事だったみたいで、そこにある空間はぜんぶ同じだって、ちょうど映画館がどこも同じ空間であるのと同じだって、言っていた。

 ぼくが付き合ってきた女性というのは、一癖も、二癖もあった。
 でも、なにかを信じていた。洗剤だったり、蜜だったり、窓だったり。
 それでこの話がなんだったのか、ちゃんと考えてくれていたかな。君があくびをした回数を、ぼくは好意的に忘れるだろうしね。
 簡単なことなんだけれど、洗剤も蜜も窓も、彼女たちの人生に置き換わってしまっていた。むしろ、彼女たちは「人生」なんてことばに人生を託そうとしないだろうね。どう考えても、洗剤ということばに人生を託すだろうし、ほかも同じだ。ぼくにはわかるよ。そういう生きかたをしていた。彼女たちにとって、それがもっとも具体的な生だったと思うんだ。もっとも具体的に彼女たちが「表れていた」ものだと思うんだ。
 洗剤とか、蜜とか、窓というたびに、彼女たちの人生は、再び、いま、ここに現れる。既に常にそこにあるものとして、何度も再演される。彼女たちに肖像画なんていらなくて、そこに洗剤を置いておけばいい。蜜を置いておけばいい。窓を置いておけばいい。それだけですべてが肖像されるような人生を送ってしまった。
 たとえば、ぼくの身体はいま「ぼく」として生きているけれど、死んだら「ぼく」ではなくなってゆくだろう。死体のぼくと、君はセックスしないと思うし、愛することはできない。じゃあ死んだあとの「ぼく」を、君はどのように愛するだろうか。それはぼくのエピソードだったり、記憶や思い出だと思うんだ。写真やビデオに残っている、ぼくと君の思い出を「ぼく」として愛すると思う。ぼくが洗剤として、蜜として、窓として、彼女たちのことを語るように、君はぼくを「なにかでもって」という形で愛し替えるしかないだろう。そのために、ここで教えておきたい。伝えておきたい。ぼくが「人生」ということばの代わりにぼくの生活感情を託しているものを――それは「表象」という概念なんだ。表象に苦しんでいる。表象がわからない。すべてが表象に見えてくる。そういう世界に迷い込んでしまったんだ。
 だからぼくは、名前を呼ぶのが大嫌いだ。存在を賭けてもいいと思えるひとの名前しか呼びたくない。
 でも、だからこそ、ぼくは、君の名前を呼びたいと思うんだ。
 名前、呼んでもいいかな。

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#創作三題噺深夜の60分一本勝負
#創作三題噺深夜の60分一本勝負_20161216

妖怪三題噺( @3dai_yokai)「蜜」「洗剤」「窓」

 

100分かかりました…ルール違反すみません…><