ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

ぼくたち、わたしたち、いまが、旬です!――リスクヘッジがリスクになることもある

 12/9のスポーツニッポン名古屋版を読んでいたら、柿谷選手とグラビアアイドル丸高が結婚したという明日には忘れてそうな内容のニュースが報じられていた。そこに「復帰から4日で甘~い♡俺たち今が旬です♡」と記されていて、いまが旬というのは恐ろしいアナロジーだけれど、それでもじぶんはいまが旬なんだと言えるのはいいなあと思った。もちろん紙面は結婚の話題だから「どうせ結婚したからのぼせて旬とか言ってるんだろ」と思わなくもないが、結婚するまでにいろいろあるだろうし、それぞれサッカー選手として、あるいはグラビアアイドルとして、なにかのぼりつめてきた階段があって、その最も血潮があついときだという自覚があるからこそ、こういうことばが出てくるのだろうか、と思う。
 じぶんが「じぶんは(じぶんたちは)いまが旬です」と言えるだろうかと想像してみる。いつもの癖で、そもそも旬ってなんだってなって後退する。結婚が「ゴール」という究極的な比喩で呼ばれ、そこにたどり着いたことで「旬」となるのかもしれない。では、ぼくのゴールはどこにある。ぼくが旬になれるチェックポイントは、そんなに明確にあるのか。ぼくが明確にしていないだけなのか。旬と言ってしまった時点から、「旬だった」になってゆき、「あの頃は旬だったね」になり、「そう言えば俺たちにも旬だった時期があったな」になり、葉っぱのように枯れてゆく。その死のような変化を先取りしてしまい、ぼくは「いまが旬である」を毛嫌いしているのかもしれない。
 でもべつに、「いまが旬である」の回数制限があるわけではない。何度だってあっていい。でも何度もやったら価値が薄れる気がする、かな。でもそれってなんでだろうって考えると、実はよくわからなかったりする。ぜんぜん何回でもやってよさそうな気がしいるのに、ぜんぜん何回もやろうと思えない。そもそも何度とか何回とか言っている時点で、現在形をびよーんと引き延ばして考えているから、ぜんぶが先取りになってゆき、感覚がおかしくなっているのかもしれない。メンタルブロックを作っているのは、未来での感覚を知った気になっている自分自身だ。高確率だと思い込んでいる、低確率な思考だ。
 ぜんぶ低確率。不安は起きないことへの欲望だ。案ずるより産むほうがイケてるって、先人もアドヴァイスしているし、リスクヘッジがリスクでもあるって二年前のブログで書いてたのだれだっけ、もう忘れたの、忘れてた。論文の引用ばかり気にしているから、肝心の書いた内容を忘れるんだよ。はいすみません。
 忘れないように再び書いておくけれど、リスクヘッジがリスクにもあるというのは、たとえば結婚するのは個人の自由がなくなったり金がかかったりリスクだけれど、リスクヘッジのつもりで孤独を選ぶこともまたリスクだよね、というやつ。論文は引用しない。そういうこと、そろそろ覚えたい。
 「俺たち今が旬です♡」はぼくのなかでリスクでしかないけれど、それをヘッジするために付与する理屈がじぶんを縛り付けることもある。「ウェイな発想で人生を決めるべきじゃない」みたいな理屈をじぶんで持ち出して、それに縛られてゆくこともある。「人権って大事だよね」という原則を絶対に守ろうとするがゆえに、現実と理想の強烈な板挟みに遭うこともある。なにかを守ってるつもりで、なんにも守れてなかったなんてよくあることで、この何気なく言った「よくあることで」さえも、じぶんを――次に言い出すことばを、思考を、行動を、志を、動機を――縛ったりなんかしちゃったりして、自虐風自慢じゃないけれど、むしろほんとうに心の底から言うんだけれど、「今が旬です♡(ピースピース!)」みたいな風に人生を送りたかったです。いまからでも、できると思いま…すけど…(?)