とある神社のギリシア語講座

「里志くん、今日って部活?」
「霧砂さん、いたんだ。ぼくはこのままちょっと」
「またあの神社、行くんでしょ」
「正解。ふふふ、よくぞ正解した、約束通りぼくのお道具箱をアンロックしよう」
「なに、そのノリ」
 女子というのは、なぜこうも男子のノリについてこられないだろう。
「里志くんって、高校生になってまでお道具箱とか使ってるんだ」
「そうだね、ミニマリストだから、意外とこれで充分」
 エナメルバッグを最大化している彼女には、よくわからなかったらしい。ミニマリストは冗談なんだけれど、霧砂さんはいつもなにを持ち歩いているんだろう。
「しかもプラスチックなんだ」
「ずっと使おうと思って、そうなるとぼくの性格からして紙素材は無理だから、プラスチックにしたんだ」
「むかしから計画的だったんだね。ていうか、神社って噂の猫でしょう? 噂と学校の友だちと、どっちが大事なのかな」
「どっちとか、相対化できるもんじゃないよ、気になるんだから」
「それもそうか、まあ、仲良くなったらわたしも呼んでね」
 特にこだわることもなく、いやはやに教室から出ていった。どちらかに用事があるときは粘らない淑女なところがあって、そういうところがぼくと合っているような気がしていた。こういう低空飛行の会話ができる女子って、他にいないんだよなあ。
 とにかくぼくは、霧砂さんとの下校を断って神社に向かった。
 埋立地の人工的な町の片隅で、むかしに在ったであろうなにかの一瞬を、ずっとずっと守っているような重たい空気の神社。そのせいで住民はだれもよりつかないし、そもそもこんな人工的な場所に住んでいるような人種が、神社仏閣のたぐいに興味を抱くとは考えにくい。
 林を抜け、階段をのぼると、ちいさいながらに豊かな敷地が神秘的な味付けでもって現れる。
 ――おい里志、聞いたか、神崎神社にしゃべる猫が出るんだってよ。
 最初はただの噂だと思ったし、実際に一週間もしないうちにべつの噂に置き換わった。
 それからぼくはもう一週間、部室に顔を出すことなく足繁く通ったが、努力もむなしさに変換され、ぼくの貴重な青春時代の七日間は神社のパトロールボランティアとして浪費されていった。
 今日も見回りに精を出そうと思って立ち上がったとき、突然、異質な強風に巻きつかれた。声も出せない。周囲の様子も音も、なにもわからない。ただただ吹き荒れている風が、リセットボタンを押したみたいに、あらゆる現状を勝手に書き換えようとしているみたいに、確かな意志をもってぼくに、ぼくに向かっていた。
「やっと、やんだ……なんだったんだ……」
 そうだ、きっと来るんだ、猫が来るんだ。
 ぼくは猫の出現を確信していた。
 しかし、当の猫は現れることなく、気持ちは空振りに終わる。
 噂がたって、噂が過ぎ去っても粘りづよく通って、風が吹いたあとに現れる、そういう出現条件だと思ったのだけれど。
「いよいよ、ゲームのやりすぎかな」
「同感だよ」
 ぼくの前に、紺色の猫が現れた。
「猫だ! ほんとだ、ほんとうにしゃべれる」
「しゃべられる、な」
「あ、はい、すみません。ぼくは芝山里志って言います」
「里志くん、ずっと見ていたよ。ここで油を売っていた子だね」
「表現がちょっと傷つきます」
 ほんとうに、猫がしゃべっている。
 霧砂さんに、霧砂さんに教えないと……!
「貧乏ゆすりがすごいな、油を売るだけじゃ生計たてられないのか」
「待ってください猫さん、事実誤認があります」
「猫さんじゃなくていい、元は人間だから、ルイーゼという名がある」
「え、元は人間だったんですか」
「意外かもしれないが、ギリシア人として日本でギリシア語を教えていた。いつものようにスクールに向かっていたんだが急に雨が降ってきてな、ここなら雨宿りできそうだと思って敷地に入ろうとして、階段で滑って頭を打って、死んだ」
「死んだって……淡々と話しますね」
「まあな、それより、君はだれかに俺の存在を報せようとしているな」
 図星を突き刺されて、こどばの薬莢が詰まった。
「ひとりだけなら、いい」
「え、いいんですか」
「大切なひと、ひとりだけならいい。その代わり、お願いを聞いてくれ」
「お願いってなんですか」
「あの日やるはずだった授業を、やらせてほしい」
 そうか、地縛霊なんだ。
 猫の地縛霊……どこかのアニメで観たことあるような気がする。
 ぼくが、解放してあげなくちゃ。
「ぼくでよければ。でも、生徒さんを集めるのは難しいかなって」
「いや、里志くん、君だけでいい」
「それでいいなら……あ、ちょっと待っててください」
 ルイーゼさんを置き去りにして、ぼくは量販店で小さな黒板とチョークを購入し、頼み込んで要らないダンボールをもらってきた。
 これだけあれば、青空教室には充分だった。
 いつもの教室より、こういう環境のほうがずっと気持ちよく授業を受けられる。
 ほんとうだったら、霧砂さんが隣にいればいいのに……なんてことを考えていた。
「すごいな……ギリシアでも、こういう授業があった」
「神社でやるんですか」
「こっちで言えば、神社みたいなもんかもしれないな。早速、はじめてもいいか」
「よろしくお願いします、ルイーゼ先生」
 自動車の騒音もなければ、大した日照もない、こじんまりした神社の空き地で、いにしえの言語の、非現実的な授業が始まった。
 ルイーゼさんは、尻尾を器用に動かして、黒板にギリシア語を書いてゆく。
 クローンが均一という意味だとか、業平とおなじ音のギリシア語は水流司祭だとか、ヘリコプターは螺旋のツバサという意味だとか、日本語のなかに溶け込んでいるギリシア語について、延々と語っていた。
「やっぱり、授業は楽しいよ、里志くん」
「そうですね、すごく生き生きしている気がします、猫なんでよくわかりませんが」
「でも、もうそろそろ帰らないとだね」
「あと十分くらいなら」
「俺はもうスッキリしたよ、ありがとう。聞きたいことはないかい?」
「その……ほんとうに教えてもいいんですか」
「ああ、君の大切なひとなんだろう」
 ぼくはできるだけ真剣さが伝わるように、重たく頷いた。
「ちなみに、どんなひとなんだろう。ガールフレンドかな」
「え、いや、ちがいますよ」
「日本人はさ、この単語に弱いよね」
「わかってて仕掛けたんですか」
「ぼくが猫になったのは、ずる賢いからかな」
「それなら猿でもよかったんじゃないんですか」
「その子のこと、好きなの?」
 好きかどうか、考えないようにしていたけれど、そんなの、たぶん、好きに決まっている。
「あの、どうやったら、モテますかね」
「十代の、重大な悩みだね」
「ことばで遊ばないでください」
「それじゃあ、最後にもうひとつ、ギリシア語のレッスンだ」
 授業中から思っていたけれど、ひとの話を聞いてくれないマイペースなひとだった。
「君のつけている時計、金属みたいに見えて実はちがう」
「そうなんですか」
「なんだと思う?」
「え、ずっとチタンとかニッケルとか金属かと思ってました」
「それはプラスチックなんだよ」
 ぜんぜん知らなかった。日常に溢れているとは聞いていたけれど、時計までプラスチックだったなんて。
「そのプラスチックということばも、ギリシア語なんだ」
「どういう意味なんですか」
「どんな形にもなる、という意味だね。実際にプラスチックと言われている素材は、溶かしてチョコレートみたいに型に流し込んで製品化する。人工抗体にもなるし、プラスチック数というのもある」
「チョコとおなじ作りかた、知りませんでした」
「モテる男は、プラスチックなんだ」
「強烈にモテなさそうですね」
「強いこだわりを持つんじゃなくて、相手の気持ちとか、環境とか、状況に合わせられる男になるんだ」
 気持ちや状況に合わせる、簡単なようで、簡単じゃないよなあ。
「自信がないみたいだね」
「まあ、どうせ個体値が低い人間なんで」
個体値って、あの個体値?」
「え、知ってるんですか」
「俺は、日本のアニメとゲームが好きで、日本に来たんだ。個体値を気にしているようだけれど、あれはほんとうのほんとうに計算し尽くしたあとに問題になる微々たるものだよ。それより大事な要素がある、なんのことかわかるだろう」
「相手の役割に合わせることですか」
「里志くんもやりこんでるじゃないか。そう、合わせること、プラスチックであることがいちばん大事だ。どんなときでも強い要素になる。いくら種族値を計算しても、努力値個体値をはじき出しても、合わなければ話にならない」
「そのためにめざパがあるわけですしね」
「それはすこし古いバージョンの話だがな」
「たしかに」
 だんだんオタク臭い会話になってきた。
 陽も暮れ始め、色の淡(うす)い満月が静寂(しじま)の夜を先取りしているように見えた。
「大事なことだからもう一回だけ言おう、個体値は大したことじゃない。君が鼻の高さの一ミリ二ミリを定規で測ったところで、相手に合わせたユーモアを言ったり、相手に合わせたことばをかけたり、状況とか現場を意識した態度をとること以上に重要なわけじゃない。だって、君だって、おっぱいが大きい娘よりも、品行方正で、料理が君好みの味で、もちもち肌の娘のほうをメインにして、巨乳はサブにするだろう」
「もち肌は個体値じゃないんですか」
「あれは、好きなひととか、いつか出会う素敵な男子に合わせて作ってるんだよ。ゲームばっかりしているから、そういうことも知らないんだ。思い込みが生まれてくるんだ。ディティールにこだわることも大事だが、もっと全体を知るといい。そして、プラスチック。そこに合致しようとする意志、それがあるだけで君はどんな個体値の敵よりも前に立てる」
 それもそうかもしれない。ぼくは、個体値みたいな些細な部分を顕微鏡でみて、そのわずかな差異に騒いでいただけなのかもしれない。貧乳が好きな男だっているし、ブス専門なんていうことばもあるぐらいだから、個体値というのはあってないようなものなんだ。
「里志くんは、その子の、どんなところが好きなの」
 突然言われても、猫に言われても、ぼくはじぶんの答えを、見つからないように捜索した。
 神社は時が止まっているようで、全生命がぼくの回答を待っているように思える。マイナスイオンだの、フィトンチッドだの、いいんだか悪いんだかわからない成分を、まるで手拍子のようにちらつかせながら、迫ってくる。
 ルックスは、可愛いけれど、それが理由じゃあない。ぼくと接しているときだけ、ちょっと積極的に見えたりする。お互いの用事に干渉しないところも、ぼくはすごく好きだし、他人から悪口を聞いたことがない。ぼくは、なにが好きなんだろう。
「なんとなく、合うんです。弁当を食べるスピードとか。会話のテンポとか。ことばでは、言い表せないです」
「自然と合う、なんてこと、あるかな」
「どういうことですか」
「たとえば、いま俺は里志くんとうまく会話できている。合っている。オタクっていう趣味の一致もあるし、この場所を共有している共通感覚もある、お互いに興味を持っている、失礼がないように距離も保っている。そうやって、お互いが合わせているんじゃないかな」
「つまり、ぼくは、霧砂さんと、合わせることができている……?」
 そんなこと意識したこともなかった。
 ただそこにいて、ただたまたま合うだけで、それだけだと思っていた。
「ルックスに自信がない、運動神経が悪い、家が裕福じゃない、君のことばで言えば個体値が低い、でも個体値が低いからこそ強い戦いかたもあったよね」
「ありましたね、なんだか自信が……あれ……」
 ルイーゼさんがいたところには、先の欠けたチョークが落ち葉のように生気なく転がっていた。
「ルイーゼさん……?」
 すっかり暗くなり果てた神社は、宇宙の隅のように感じられた。ひどく孤独で、老いられている世界があった。
 バッグのなかで携帯電話が震えた。ぼくはちゃんと世界を受信できている。
「もしもし、霧砂さん?」
「あ、やっぱり里志くんだった」
 耳元と背後から、改めて、里志くーん、という間延びした音声を聞いた。
 顔を確認することはできなかったけれど、それは絶対的な確度で霧砂さんだった。
 見えなくても、好きだ。ぼくの好きなひとだ。
 わかっていなかったのは、ぼくの意識だ。
「まだ、神崎神社にいたんだね」
「ねえ、霧砂さん、今日気づいたんです、ぼく、ずっと……」
 ぼくは彼女の手を掴んで、すこしだけ引き寄せた。
 言うべきことばを、言ってしまおう。
 もしダメでも、諦めなければいい。
 個体値は関係ない。ぼくはずっと変わってゆける。
「あれ……?」
 なにかがおかしい、反応がない。
 感触がおかしい。
 霧砂さんじゃない。
 だれだ――。
 ぼくは、心臓をくり抜かれたように、感覚を失った。
「そういえば、教え忘れていたね。プラスチックは、熱くなりすぎると、ビスケットみたいになっちゃうんだった。気をつけてね、里志くん」

 

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#創作三題噺深夜の60分一本勝負
#創作三題噺深夜の60本一本勝負_20161214
妖怪三題噺( @3dai_yokai )「個体値」「神社」「プラスチック」