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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

千代恋あめの小説を見る(1)――『原稿団地の少年』

 今日は、おなじサークルメンバーの千代恋あめ氏の小説を見てゆく。読むというよりは、見る。編集長の目で見るか、小説家の目で見るか、校正の目で見るか、翻訳者としての目で見るか、友人としての目で見るか、あるいはそれらすべての目で見てゆく。
 最初に断っておかなければならないこととして、まあ確実に本人が読むから、読者は本人一人のみを想定しているので、その他のかたが読んで不快になったとしても、責任を負いかねる。ごめんなさい。
 次に断っておくこととして、千代恋あめには名状し難い文才がある。読めばだれでもわかるであろう、いい意味でおかしなリズムがある。かつてイチロー選手が「ぼくには説明できるヒットがない。説明できるヒットがほしい」と自虐風自慢したときのことばを借りれば、千代恋あめには説明できる名文がないのである。千代恋あめのこの文章っていいよね、となったときに、残念ながら説明不可能•回答不可能である場合がきわめて多い。一時期、一緒に暮らしていたにもかかわらず、その独特な感性は底止するところを知らず、いまもなお未知数の、その先へ行こうとしている。彼の魅力をぼくが教えてあげることはできないので、その部分に関しては、彼の読者となって自力で見つけ出してもらいたい。
 ぼくがこの場で出来ることは、千代恋あめの小説を「見ながら」コメントしてゆくことだけである。せっかくなので、かなり辛口で見てゆこうと思う。どうせ「この作品、まじでいい」と、今後も何十回と言い続けるのだろうから。

 

『原稿団地の少年』

 

 千代恋あめのアマチュア処女作。ぼくがプロになった日に、目の前で書いていたやつなので、じぶんのなかではとても特別な感じがする。
 バーのマスターが主人公の三人称視点(背後霊型)。ラストオーダー間際の夜更け(原文では「朝方」)に、スーツ姿の女性が来店してくる。『原稿団地』という店名から会話が生まれ、団地のリアリティを曖昧にしながらふたりでイメージを共有してゆくヒューマンドラマ系の掌編。
 「コーヒー」と「珈琲」を使い分けているところあたりに、いきなりこだわりが見られる。お互いのイメージだけでことばが緩やかに絡み合ってゆく様子――あるいはそのすべてに纏わりついている時間感覚――がよく描かれていて、千代恋あめの作品のなかでもオススメ度の高い作品である。(できれば中長編で読みたい。)
 物語は「1人、3人、1人、と。お客様が帰っていく。」という書き出しではじまる。ここだけ読んでもわかる通り、句点の使いかたが異様で、そこから独特な雰囲気も出てくる。本来、句点というのは作家にとって「冷静さを装う」ためのものである。どんなに緊迫した場面でも、

 

「ぼくは命をなげうつ、遠い君のことをおもう、これで呪縛から解放してやれる。」
「ぼくは命をなげうつ。遠い君のことをおもう。これで呪縛から解放してやれる。」

 

このように、読点を打つか、句点を打つかで、見かけの冷静さが変わってくる。
 ではなぜここで句点が打たれたのか、そこから考え始めなければいけない。(千代恋はアイパッドで勢いよく小説を書くので、単なる打ち間違え、という可能性を保留しながら)ここで文章に冷静さを与えたのは、浮き立った「と」を回収するためではないかと推測する。
 格助詞「と」は、行為や思考の結果の「と」である。そこには通常「子どもをらららぎ名付けた」とか、「雨は雪なった」とか、そういう結果や変化の動詞がついてくるが、ここでは言い伏せられている。「と」によって、細かい状況説明を捨てて、店の変化をえがく。それは気の利いた省略なんかではなく、千代恋にとって、あるいは主人公のマスターにとって「わかりきっている映像」があるから、このような途切れた文章になっている。
 「1人、3人、1人」は、どのぐらいの時間が把握されるだろうか。一人の滞在時間が一時間だとしても、来店/退店の間隔がわからないからなんとも言えない。だが客は少なめで、やや寂しいバーの「長回し」を、冒頭の一文に凝縮している。その凝縮を担っているのが、まさに、「と」の持っている「変化と結果」の機能性と、そこから生まれる文体の冷静さである。
 「お客様が帰っていく」は、一見かなり説明的な一文だが、いちおう「店員/店長」が主体で、その日常のありさまを書くことで物語の設定を受け容れやすくしてくれている(ただ本作は三人称視点なので、この書きかたはすこしややこしくもある)。

 

今日こそは完成させたいなぁ、なんて、開店直後から思っていたことを口に出した。

 

 「なん/て」は、引用・例示の複合助辞「など/と」の口語型の謙遜表現。謙遜するということは、一人称でなければおかしく、ここでは視点の混同が気持ち悪い。ただ、その気持ち悪さを乗り越えると、「人称のあやふやな世界」が、どこかこの作品――あるいは千代恋の作品――の通奏低音になっているような気がしなくもない。
 「開店直後から思っていたことを口に出した」という時間差の表現は、素朴ながらにしっくりきている。ずっと我慢していたんだ、という気持ちの積もった表現だと思う。

 

小野は文章を書くことが趣味だった。そこには小説家になって本を出したいだとか、文章で食べていきたいだとか、そういう欲はそこにはなく、ただただ文章を書くのが好きで趣味だった。

 

 「そこには…そこにはなく」の重複がやや読みにくく、気になる。ただそれ以上に大事なのは、「文章を書くことが趣味だ」と「文章を書くのが好きで趣味だ」の二文が続いているところだろう。まずは基本文法に立ち返って考える。
 連体節の被修飾名詞である「こと/の」は補文標識と呼ばれ、それぞれ異なる文法を与えられている。簡単にまとめると、

 

「こと」:言語表現の動詞(「言う」など)、言語表現で伝える動詞(「命じる」「禁ずる」など)、内心に関する動詞(「願う」「思う」など)、アバウトなひとまとまりを作る動詞(「ある」「ない」「よる」「きまる」など)。

「の」:感覚的な動詞(「見る」「感じる」など)、現場に合わせないとできない動詞(「待つ」「応じる」など)、その場の感情(「うるさい」など)。

 

こういう使い分けがあって、これら以外のどちらでも交換可能な動詞に関しては、「こと=距離的•抽象的」「の=同時的•感覚的」といった感じで分ける。
 原文に戻ると、「書くことが趣味」「書くのが好きで趣味」となっていて、このあたりの描写がやけに細かいことに気づく。つまり「執筆趣味」が小野にとって抽象的でもあり同時的でもあることがわかる。

 

今回書いているは、少年が主人公の小説。

 

 おなじく、この説明文でも、「書いているものは」という輪郭のあるものではなく、「書いているのは」という感覚的な言いかたをする。書くことや、書かれているものは、小野にとってまだまだ具体性を帯びていない。

 

ふと、行き詰まり、気分転換に珈琲を淹れようと席を立った。今回書いているのは、少年が主人公の小説。小野は自身がどんな少年だったか、何を見て、何で笑い、何で泣いたか、少し考えようと思い、すぐ、やめた、 どうせ人並み以下な少年時代で、今だってそうだろうと、自虐的になった。物心ついたときから団地に住み、団地を見て育ってきた。少年は個性のない自分の家、町に退屈していて、そこから本、文章、に辿り着いたのが小野少年で、今の小野大吉。退屈そうな少年が、淹れた珈琲の湯気に映って見えた。

 

 珈琲を淹れようとして席を立ってから、小野のバックグラウンドが語られる。その心理描写を湯気に託そうとしている試みは文学的だが、珈琲を淹れた描写を抜かしたために、「淹れた珈琲の」という説明文が入ってしまって、せっかくの美味しいところがだらけてしまっている感を拭えない。たとえば(あくまで例示として)「自虐的になった」という露骨な説明文を、「自分自身を悲観し、珈琲を淹れる手つきが雑になるのを感じた」みたいな描写にすれば、説明くささを取り除きながら、珈琲を淹れた情報も出せて、いわゆる「巧い」文章となる。
 個人的な趣味や作家性によって賛否分かれるところだが、「自虐的になった」と書いてしまったら、そこまでの自虐的な描写は不要になってしまう。「珈琲を淹れようとして立ったときに過去を思い出して自虐的になった」で済んでしまう。そこをそれで済ませたくないから作家は小説を書くわけで、そうでなければあらゆる説明的な文章は「物語のプロットを進めるためだけのプログラミングコード」になるだろう。「退屈だった少年時代を思い出しました」で済まない気持ちがあるから、「退屈そうな少年が、淹れた珈琲の湯気に映る」わけである。
 急いで終わらせようとすると、どうしてもプロットの進行に贔屓して、「簡単に済ませたくなかった気持ち」を忘れてしまうもので、だからこそ作家には推敲という書き直しがある。書きながら慌ててしまったところにアンダーラインを引き直す作業がある。推敲というのは、物語の推進力にやられて死んでしまった作家としてのじぶんを、おなじところに生き返らせる装置なのである。

 

からん、店のドアが開き、小野は慌ててノートパソコンを閉じる。

 

 やはりここも映像的に書かれている。
 先も「と」について考察したが、ここも同様の使いかたをしている。「からん」の結果「ドア」が開いた、という説明になっていて、それは映像でしかない。実際に「からん」と鳴っているのはドアベル(あるいはドアチャイム)であるが、「と」をねじ込むことによって、変化と結果の用法におさめている。
 文章作法的な観点からすれば、「不意にアベルが鳴り、予期せぬ来客を伝えた。小野は反射的にノートパソコンを畳み、慌てて接客をはじめる」のような書きかたになるが、原文は小野のためのト書きのようになっていて、やや小説としては物足りない気もする。
 もちろん映像的であることが即座に「悪」であるというわけではない。むしろ映像的な書きかたをじぶんの作家性にしているプロもいる(当たり前だがめちゃくちゃ映画化しやすいのでめちゃくちゃ映画化されている)。
 ただ、ここで投げたいのは、映像なら映像で見ればよくないか、という問いである。ト書きが読みたいなら戯曲でよくないか、という疑惑である。わざわざ小説というメディアを選ぶのであれば、もっと小説的にしてあげるのも悪くないとぼくは思う。
 「と」の使いかたがあまりに独特なので、この「と」を洗練させてゆくことで、小説に新たなものを持ち込むことも可能かもしれない。それについての具体的なアイデアは、いまのところのぼくには皆無だが……。

 

「い、いらっしゃいませ」

 

 この前の文で「慌てて」と入っているので、「い、」と吃るのはくどいような気もする。ぼくなら地の文で「接客をした」みたいなことを書いて、「いらっしゃいませ」という台詞を省略し、次の文に流れるように接続したいと思う。むろん台詞をひとこと入れることによって地の文の流れを変えるのもよいと思うが、ここではそれほど流れも変わっていないので冗長のようにも感じられる。

 

こんな時間に来店があること、原稿に集中していたことで小野の声がひきつった

 

 「声がひきつる」というのは、とても婉曲的でよいなあと思った。意外とじぶんでは思いつきそうにない表現で、かなり参考になる。声がひきつったと言われれば、きっとそれに値する緊張があったのだとわかるし、だれにでも経験のあることなのですぐにイメージできる。
 だからこそ、その前にくっついている「こんな時間に来客/原稿に集中」はほとんど既出情報なので、描写的にしない限り無用であると断言できる。どうしても入れたいなら、「こういう理由でひきつりました」という説明的な書きかたではなく、「小野は声を引きつらせた。真夜中になればもはやひとも動物も寄せつけないような砂漠と化している不気味な街の、ひどく片隅にあるようなこの店にまだ客が来るなんて、小野は想像もしていなかった。最大の集中で書けていた原稿が、いまだ頭から離れない。それでも小野は接客をしなければならない」のように、いちいち描写を組み込んでゆくのがよいのではないかと主張したい。

 

(…)リクルートスーツに身を包んだ、若い女性。

 

 「身を包まれた」ではないか。

 

女性は、そう言ってカウンターに座る。

 

 同様の話になるが、映像としてはわかりやすいが、かなりト書きのようになっている。台詞なんだから「言った」のは大前提で、どうしても入れたいときは描写にするしたほうが親切だろう。「カウンターに座る」のも、バーのカウンターに座るというのはなかなかどの席にするか悩むこともあって、貸切状態の店の、カウンター席を、女性がどのようにして選んで座るのかというところは、いくらでも書きようがあると思う。

 

(…)なぜバーに来たのか悶々とした

 

 くどいようだが、この「と」が面白い。説明は省く。
 「悶々とする」という語彙は、正直言って、ここではなんにも当てはまっていないように思える。「悶」というのは、見た目でわかりやすいが、心が門に囲まれている様子で、かなり閉塞的な心理状況を表示する。解決のいとぐちがまったくなく、世界のすべてが不透明に思えてきて、憂鬱になってゆく、その否定的な勢いのことである。
 ここではそれほど「悶々」としているようには思えない。聞けば解決しそうな、どちらかと言えば、小野の心はむしろ「書きかけの原稿」と「謎の女性」の半々あたりで揺れていてほしい。バーのマスターをやっていれば、変な客なんて慣れっこであってほしい。リクスーの女が始発前に来て、喜びながらコーヒーを注文したからって、「悶々」としないでほしい。誠にぼくの勝手な価値観だが、そういうことを思った。
 大事なことは、知らない語彙を使うときは、いつもよりも慎重になろうということである。小説を書いていると、ついついかっこいい語彙を使いたくなるもので、これはだれだって戦わねばならない衝動なのだが、いざ使うぞと気持ちが固まったときは、よくよくことばを見るのがよいのではないだろうか。「嬉々として」とか「悶々とする」とか、それがいったいどういう意味のことばなのか、改めて立ち返ってみるのが作家だと、ぼく個人は感じる(ちなみに「嬉々として」には生き生きとした表情も含まれているので、こんな深夜にひとのいないバーで珈琲を注文できたぐらいで生き生きとした表情になるのかどうか、このキャラクターがそうするかどうか、改めて考え直すことも大事だろう。作家にそうさせるのが「校正/校閲」の目なのだが。)

 

「あの、お店の名前素敵ですね」
『原稿団地』?
「そうです、原稿団地。もしかして、そういう文学関係のバーなのかなぁ…って思ったんですけど、違うんですか?」

 

 店名の話題から入るところとか、「文学関係のバーなのかなぁ」とか、このあたりの会話のさばきかたがリアルですごい好き。
 ただ、こんな店名にしているなら、マスターは言われ慣れている(原文の「その質問は何回も~」にもある通り)。いちいち「原稿団地?」なんて聞き返さないような気もする。この聞き返しに、かなり違和感があった。
 それで、ここまでバーで堂々としている女性なら、「そうです、原稿団地。よく言われませんか?」みたいに踏み込んできそうな気もする。このあたりは、作者がさっさとプロットを進めたいのだろうという感じが露骨に出てしまっているかな、という印象があった。よかったところだけに、逆にすごく惜しく感じられる。

 

「うーんそういう仲間も集まるけど、どちらかと言えば地域に愛された、地域密着系のバー、だと思うよ

 

 地域に密着するなら、地域が寝ている時間は地域と一緒に寝ていてほしい気がする。
 台詞内の句点は、明治・昭和あたりにもあったので誤りではないが、急に統一感なく出てくると困るので、読者のことを考えるとあまりしないほうがいいのではないかと感じた。

 

仲間を見つけた、と喜んでいる顔だった。

 

 このあたりはさすがバーのマスターという観察眼で、ひとをたらしてきた感じがよく出ているなと思った。

 

「松坂さんも、物書き?」
「そうなんですよ、目指してるってわけじゃないんですけど、文章を書くのが好きで、締め切りがあるわけでもないのに、毎日書いてたり…

 

 聞いてほしい質問がきたときの、この止まらない喋りかた、物書きっぽくてすごく好きだ。「書いてたり…」でなんとかセーブしているけれど、もっと喋りたいんだろうなあというのが、ありありと伝わってくる。
 ぼくはこういう三点リーダーの使いかたができないので、とても勉強になる。(千代恋あめの作品は時間の経過がうまいと言ったが、このような三点リーダーによる時間の表示をする感覚がかなり秀でていると思う。このあたりは映像的であることの強みというか、映像という時間に縛られたメディアで創作してきた部分が如実に出ていると思う。)

 

話しかけられたら答えるが、基本的には各々、この空間に浸って欲しいからだ。

 

 ここでの「欲しい」は、実際になにかを「欲しがっている/欲している」わけではない。このような「欲しい」を形式形容詞と呼び、本来の意味が薄れているので、できるだけ開いて使おう――漢字は使わずに書こう――という、なんとなくのマナーがある。
 マナーに従うかどうかは作家次第だが、使い分けることによって幅も出てくるので、個人的には使い分けることをオススメしたい。

 

仲間を見つけた、と小野も思った。そこで少し、会話が途切れる。基本的に、小野は、バー空間での、各々の時間を尊重する。話しかけられたら答えるが、基本的には各々、この空間に浸って欲しいからだ。しかしこの松坂唯は、少し気まずそうだ、きっと、良い人なのだろう。

 

 三人称の有利な点は、だれのことも書けることであって、それはだれの情報も記載できると言い換えることができる。だれのどんな情報も書けるとしたら、自然と情報が散らばってくるのがわかると思う。それを避けるために、三人称のときは、情報が変わったらできるだけ改行することになっている。

 

「仲間を見つけたと思った」(小野の気持ち
「会話が途切れた」(第三者視点)
「小野は尊重するひとだ」(第三者視点)
「小野は空間に浸って欲しいひとだ」(第三者視点)
「気まずそうだ」(松坂の気持ち

 

 この段落には三種類の情報があるので、情報の種類が変わるごとに改行をしたいところ。なんでも書けるからといって、なんでもダラダラ書いていいわけではないのが、三人称の一長一短な性質であると言える。

 

(…)個性のある家に住みたい、個性のない町に住んでる自分は個性がないみたい、そんな風に考えていた。無という冷たさから逃げるように、文学の世界に入門した小野は気づく。

 

 ここぞ、という形で描写・表現が出てきた。「個性のない町に住んでる自分は個性がないみたい」――そんなことないんだよ、と言ってあげたくなるような卑屈さで、それはなんなら、何度も強調されている「退屈していた」どころの話ではないようにさえ感じられてくる。少年時代の小野の、日常のなんでもなさに圧し潰されそうな、苦しい苦しい感覚、苦しいのに「なにもないから」だれにも訴えることができない孤独感、ぜんぶの意味から疎外されてゆく不安があって、きっとその不安でさえも「退屈な日常」に回収されていってしまう。
 そのときの小野の、生きていたくない気持ち、悲観的な気持ち、自虐的な気持ちというのが、このことばに集約されている。約まったあらゆる過去の無が、小野を書くことへと導き、それでも物書きとしてではなく「原稿団地」という名前のバーで暮らしながら、そこになにかを感じて寄ってくれた新たな仲間がいて、すこしずつ意味を得かけていながら、やはり過去に引き戻されそうになるもどかしさが、ここではよくわかる。

 

同じ顔をしていても、位置も住んでる人とで、些細に変わってくる。それは様々なストーリーが入った箱が、ジャンルごとに、無造作にたくさん置いてあるようで、そこらの住宅街より密で質がある。

 

 小野は、自己肯定する。意味のある自己肯定。肯定することが正しいことであると信じて、「団地」という概念をじぶんに引き寄せようとして、書く。物書きの立派なありさまだと、ぼくは思う。小野、一緒にがんばろうな。