ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

ぼくは女性を「顔」で選ぶよ、という価値観=好み=趣味の言い訳を始めます

 若気のアフターシックスというものは、「とりあえずビール」からフライドポテト=からあげ=シーザーサラダ=焼き鳥十種盛り(塩)のコンボが決まれば、あとは一本道、お互いの恋愛観について粗雑な――きわめて粗雑な――意見交換会をするだけである。飲み会が始まるまえに(高まる気分をおさえきれず)牛丼屋でビールを飲んでしまったので、失敗した失敗した失敗した、あろうことか、最も深遠なるテーマ――恋愛する相手を顔で選ぶか中身で選ぶかというテーマ――で、空気を読めずに「顔」と言ってしまった。
 周りが全員ちくわさん――うちの文芸誌の誌長――だったなら、ぼくが「顔」と言ったあとに百回くらい註釈を付け足しても、まったく嫌な顔せず、むしろよく頷きながら聞いてくれただろう。だが、ぼくは失敗した。相手は職場の同年代のひとたちで、フルポテンシャルな知性を持ち合わせているが、アフターシックスでは「女子」に戻ってトークする。このあとぼくがどれだけ野次馬のケアをしたか想像するのはむずかしくないだろう。
 「深く考えない同年代のなかでただひとり深く考えている繊細な俺、マイノリティの宿命によって傷ついた」という自虐風自慢もほどほどにして――そもそもこれを自慢だと自認している自意識が気持ち悪いが、それはおいといて――、顔か中身かなんてこと言われたら、言われなくても「顔」である
 そりゃあね、もちろんさ、電車のなかで他愛もない会話をしているときに彼女が「カミュの不条理って日本で大絶賛されてみんな読んだわけだけど、あれってそんなにいいものかな。私にはカミュの描こうとした人間がわからないかな。柳田国男の『山の人生』の序章に出てくるあの父親のほうが、私はよっぽど人間で、よっぽど不条理だと思うんだけど、らららぎさんはどう思う?」なんてことを尋ねてきたら、ぼくはこの子と生涯をともにしようと確信するだろうけれど、そうじゃないじゃん。そういうのは「一面」でよくて――逆に言えばそういう「様相」や「品柄」や「quality」は部分的に持ち合わせていてほしくて――、それよりも大事なのは、ぼくがそのひと自身を経験するときに最も重要なところはどこか、という問いであり、それに対する答えである。
 あるひとにとっては「性格」というよくわからない妄想かもしれないし、「相性」という易断かもしれないし、「魂」というスピリチュアルかもしないし、「母性」という看護学的な概念かもしれないし、「女性器のしまり具合」という性欲的な条件かもしれない。それがぼくにとっては「顔」である。つまり、ぼくは、相手自身を経験するときに最も重要なものを顔だと思っている。
 ここで、やや遅れて註釈すると、「顔が重要」は「美人がいい」を直接的に意味していなくて、なんなら最終的に美人であるかどうかは、それほど重要ではない(もちろん「性格」や「相性」よりかは遥かに重要だが)。童顔がいいとか、タヌキ顔がいいとか、唇はぷるんとしているとか、シミやシワがないとか、鼻がスッキリしているとか、輪郭が美しいとか、肌に艶があるとか、(そういうこともかなり大切ではあるが)そういうことではない。
 顔というのは、どうにもじぶんで管理できないパーツである。どうにか作り笑顔を作ってみても、「作り笑い」ということばからわかる通り、それはハッキリと作られていることが「見て」わかる。もし作り笑いで騙し通せていると思っているひとがいたとしたら、それは自信過剰であって、ほとんどすべてのシーンにおいて「作られ笑い」という人工性を隠し切れていないと断定したい。
 顔は、だれにとっても明確に「身体の一部」だが、まったく操作することさえできない(操作した気になることはできるかもしれない)。それなのに、堂々と、無防備なまま、いちばん目立つところに置かれている。剥き出しの顔を、他人めがけて突き出している。それは一歩まちがえば「ほらほら、顔ですよ、顔ですよ」とちらつかせていることにもなるし、「顔はこちらでございます」と差し出していることにもなる。
 この顔が固定的なものなら、お気に入りの顔を、標本か図鑑のように差し出してもよかろうが、顔はいつだって変化している。喜びの顔、怒った顔、哀しい顔、楽しい顔、明るい顔、暗い顔、晴れた顔、曇った顔、痩せこけた顔、落ち込んだ顔、浮かない顔、沈んだ顔、絶望的な顔、失望的な顔、興ざめな顔、萎えた顔、ゆがんだ顔、いびつな顔、拒絶の顔、渋い顔、険しい顔、迷惑そうな顔、不満そうな顔、泣き顔、泣き出しそうな顔、死人のような顔、影の差す顔、冷たい顔、角ばった顔、四角な顔、尖った顔、神経質な顔、不穏な顔、憂いを帯びた顔、気味悪い顔、心細い顔、心配そうな顔、シワの寄った顔、気難しい顔、老いた顔、疲れた顔、荒れた顔、憂鬱な顔、淀んだ顔、重い顔、貧しい顔、田舎臭い顔、やつれた顔、しらけた顔、さびしい顔、しょっぱい顔、汚れた顔、さえない顔、ひからびた顔、きたない顔、悪い顔、硬い顔、ひるんだ顔、こわばった顔、後ろめたい顔、きまりの悪い顔、悔しい顔、気負った顔、情けない顔、図々しい顔、ずるそうな顔、意地悪い顔、横柄な顔、不敵な顔、素知らぬ顔、知らん顔、何食わぬ顔、とぼけた顔、弱そうな顔、切ない顔、青く(蒼く)なった顔、赤く(紅く)なった顔、火を吹きそうな顔、憎しみの顔、恥ずかしそうな顔、申し訳なさそうな顔、汗の顔、ひきしまった顔、勇ましい顔、神々しい顔、感慨深い顔、緊張感のある顔、張り詰めた顔、思い詰めた顔、爆発しそうな顔、興奮した顔、火照った顔、爽やかな顔、輝いた顔、品のある顔、社交的な顔、広い顔、幼い顔、垢抜けない顔、あどけない顔、無垢な顔、やわらかい顔、打ち解けた顔、華やかな顔、磨き上げたような顔、あたたかい顔、ほのぼのとした顔、所得な顔、不景気な顔、すました顔、充足した顔、精力に溢れた顔、きりっとした顔、恍惚な顔、法悦の顔、気色ばんだ顔、ごきげんな顔、得意な顔、ゆるんだ顔、艶々しい顔、和やかな顔、愛嬌のある顔、穏やかな顔、慈愛に満ちた顔、気楽な顔、清々しい顔、自信ありげな顔、飲み込み顔、したり顔、だんな顔、正義の顔、吹っ切れた顔、驚きの顔、茫然の顔、訳のわからない顔、意外な顔、案外な顔、呆れた顔、呆気にとられた顔、石のような顔、夢から覚めたような顔、心当たりのある顔、菩薩のような顔、般若のような顔、妖怪じみた顔、酔った顔、酔いから覚めた顔、切ない顔、自然な顔、ふさわしい顔、貼り付けたような顔、ちぐはぐな顔、驚喜の顔、蒼白の顔、灰色の顔、鉄色の顔、中途半端な顔、作り顔、表情のない顔、乏しい顔、真顔、いつもの顔、ぼくの顔、あなたの顔。
 これだけ出してもまだ足りない(「物足りない顔」をしながら)。ぼくらはたくさんの顔を知っていて、知らないあいだに使い分けていて、知らないあいだに見分けている。でもぼくらはそれをほんのわずかしか見ることができていない。顔の多彩な変化の、信じられないほど莫大な情報量を前に、目を背けるしかないからである。だれかの顔を、正面切って、見続けることはできない。顔というのは「そこ」にあるのに、それを見続けることができない――消え行く――存在である。
 顔は、身体のほかのどのパーツよりも明らかに、相手に対して迫ってゆくのに、見られたとたんに消えてゆく。哲学者のレヴィナスは、これを「le visage du retrait/顔の引き直し」という現象で説明しようとした。消えたり逃げたりする顔に遅れを取りながら、何度も何度も痕跡(trace)を追いかける。顔はそうやって見られるものであるし、ぼくらはだれかの顔をそうやって見るしかない。
 見たり見られたりしているのに、見たり見られたりすることができない。顔は確かにじぶんのほうにあるのに、じぶんを越え出てゆき、他者に向かってゆく。また他者の顔はこちらに向かってくる。じぶんとだれかの境界線に、顔がある。レヴィナスは、顔のことを「じぶんと他者のあいだにある倫理」と呼んだ。
 ぼくは、「この顔が見たいんだ」と思う女性を顔で選んで好きになる。そのひとの顔の、その倫理ごと好きになっている。この「好き」に何個も註釈をつけたいが、とにかく「そういう顔」の女性が好きである。そのため好きなひとは何人かいて困ってもいる。そしてどうしてかまだわからないが、男よりも女のほうが、顔がいい。(ここまでくれば断らずともわかってもらえると信じているが)それは美人とかイケメンとかの話ではなく、見るように迫りながら突っ撥ねてくる顔のことである。

女はすみからすみまで表―面なのだ。あなたの眼に映る表面の外には女は決して存在しない。(山田登世子『モードの帝国』)

 ここからはほとんど余談だが、先日の「CEATEC2016」でパナソニックの技術戦略部事業創出推進課が「メイクアップシート」というのを開発中だよ、と紹介していた。なにかと思って話を聞いてみると、これからの時代は「塗る」メイクではなく「貼る」メイクになるというのである。
 特殊なセンサー技術(+シート加工技術)を用いて、シミなどを計算し、塗ったのとおなじようになるようなシートを出力し、それを貼るだけでメイクが完成する時代がすぐそこまで来ているらしい。
 もちろんその技術にも驚いたが、ぼくは、そこで初めてメイクにおける「塗る」という行為を相対化した。そもそもメイクをしないから、メイクが「塗る」という行為で展開してゆくことを承知していなかった。つまり「あ、そうか、塗ってるんだよね。それで、なに、今度は貼るになるんですか」という二重の驚きがあった。
 「女はすみからすみまで表―面なのだ」と断言した山田さんの言いたいことが、なんとなくだけどひとつ掴めた瞬間だったと思う。ぼくは髪にワックスを塗ることもなければ、皮膚にクリームを塗ることもない。ローションも塗らないし、日焼け止めも塗らない。髭もそのまま剃ってしまうし、歯磨き粉も(できるだけ)つけない。貼るという以前に、塗ることさえ原初的なままで、その相対化にひたすらびっくりするしかなかった。
 もちろんぼくがファッションに疎かったり無頓着だったりするのもあると思うんだけれど、もしかしたら因果関係は逆で「顔を重大だと思っているから」こそ、ぼくは着飾らずに、塗らずに、貼らずに、じぶんの顔を出したいと思っているのかもしれない。「表情」という現象が、かつては全身で感情を表すことだったように、ぼくはできるだけ素朴な状態でぼくの「(全身で)表情を出したい」と思っているのかもしれない。
 このあたりは自己分析がまったく追いついていないところなので、本日は保留にするのだけれど、こういったことを考えていると、アブラハム・リンカーンが言ったとされる「Every man over forty is responsible for his face/男は四十歳になったらじぶんの顔に責任を持たなければならない」ということばを、改めてじぶんのこととして考えてみないといけないのかもしれないと感じる。顔に責任を持つというのは、いったいぼくにおいて、どういう意味なのか、と。
 蛇足だけど、ここまで言い訳しておいて、やっぱり可愛い子か、美人がいいです。神様、どうかめぐり合わせのほどよろしくお願い致します。