ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

"game"=肉(?) 『バイオハザード5』と「いのち」――自然のなかで交換不可能になってゆく自己

昔から仲良い友人らと遊ぶときたまに「私この中の誰よりも多く、命を日常的に弄んで殺して生きてるんだな」とか思うことある。良し悪しではなくそう思う
https://twitter.com/tubayame/status/803163345960386560

 《じぶんの「いのち」をどうやって相対化するか
 ――いままで(無意識に)素通りしてきたのだが、ここ最近、じぶんの最大の関心事なのではないかと感じるようになった。
 たとえば「生き物を飼うことで、いのちのたいせつさが解かる」というひとがいる。なるほど、でも残念ながらぼくは、かつて猫を飼っていたと言っても、もともと姉の猫を一時的に押し付けられただけで、死ぬ間際になって引き取られてしまったから、結局のところなんにも向き合うことはなかったし、姉夫婦の家の犬が死んだときもぼくは立ち会っていないし――そもそも思い出ゼロだから無感情だし――、カブトムシが死んだときは「カブトムシは越冬できない」という知識を理科的に確認したにすぎず、友人が自殺したときは闇に堕ちただけで(まったく余裕がなく)相対化するにはいたらなかった。
 ぼくのように「動物との絆」に疎く、向き合った経験がないひとなんて五万といるわけで、じゃあ、そういう未経験のひとたちはどうすればいいのか、ぼくにとってはこれがなによりも切実な問題なのである。
 かなり初歩的なところから考え直してゆくので、ぐだぐだな議論をすると思うけれど、一緒にぐだぐだやってもらいたい。

 

 さて、冒頭のツイート――アクアリウムショップに勤めている友人のつぶやき――を読んで思ったことなのだが、ぼくにとって(あるいはみんなにとって)「いのちはたいせつです」という当たり前の価値観は、道徳の教科書の表象でしかなかった。つまり「いのちはたいせつです」という文字列と、教師の機械反復的な発言と、教訓的で明快な映像や寓話によって、それを知っただけでしかなかった。いやもしかしたら、それ以前に、母親が直接、あるいはアニメや絵本などを利用して間接的に、それを言い聞かせたかもしれない。
 そんなのはどっちでもよく、大事なのは、ぼくが「いのちはたいせつです」を知った――知らされた――とき、そこに学ぶべき「いのち」は現前していなかったということである。たとえば、かなり狂気的な例になるが、母親や道徳教師を「殺す」授業があれば、「いのち」というものに触れることができたかもしれない。あるいは、ひとりにつき一匹、野山のウサギを屠殺して、解体して、精肉して、「くさいね」なんて言いながら食べる授業があれば、「いのち」というものの核心に近づいたかもしれない。(まあこれは非現実的で、そんな教えているひまがあるなら、ミサイルの軌道を計算するために微積分を教えたいだろうし、グローバル化する世界で負けないために英語を教えたいだろうし、数字を使って短時間で相手を説得するために統計学を教えたいだろうし……うん、現実的じゃないんだ。)
 祖父が死んだ記憶はなく、小学校にあがって祖母が死んだときは場の雰囲気に飲まれて最初こそわんわん泣いたが、葬儀場で大人たちが手続きを守って哀しもうとしている光景になんだか白けてしまい、燃やすころには疲れていて泣くに泣けず、母親に「なんで泣かないの! あんたって薄情ね!」と殴るように叱られ、そのヒステリーのきつさに対して泣いたトラウマがある。
 姉が三度も出産しているけれど、どれも会いに行ってはいない。妊娠時に赤ちゃんの世話をすこしやっていたが、「なにも伝わらない(感情が返ってこない)」時期特有の「無償の育児」を味わわせてもらったぐらいで、「いのち」がどうこうという余裕はなかった。
 そんな「いのちしらず」なぼくにも、やや相対化のチャンスがあった。それがカプコンからローンチされているシューティングゲームバイオハザード』である。あまり本題とは関係しないけれど、あらすじを説明しようと思う。
 製薬会社がバイオテロを起こし、西アフリカにウィルスがばらまかれる。そのウィルスによって民族はみなキメラになってしまい、それを国連の白人が倒しながら、悪の親玉を捕まえるために追いかける話。全体としては勧善懲悪な感も漂うが、主人公は美樹さやかのように何度も迷う――「More and more I find myself wondering if it's all worth fighting for./[字幕]この世界は命をかけてまで守る価値があるんだろうか?/[直訳]より多くの迷いを自分自身に発見する、それはほんとうに戦うだけの価値があるのか)。
 このゲームは操作性が悪く、キメラと一対一になっても安心できない。初弾を外してしまって、一気に体力の半分を奪われるなんてこともよくある。日常使いできる武器はそこまで強くなく、一発ずつ何度も撃ち込まなければならないハンドガンを先頭に、反動の大きさに辟易するショットガン、撃ちたいところに撃てないマシンガン、初心者みたいな手つきのナイフぐらいで、パッとしない。その割に体術はどのキャラクターも申し分なく強力で、時間を競うタイムアタックにいたっては体術で倒すごとに五秒も加算される。どう考えても、体術で倒せと言わんばかりの優遇さに、やはり体術ばかりを繰り返すことになる。
 もちろん体術を繰り出すからには近づく必要があって、これが面白い。敵がどこにいるとか、なにに気を取られているかとか、足を引きずっているかとか、混乱しているかとか、攻撃の反動で身動きが取れなくなっているかとか、敵の観察をし、敵の状況を敵になったつもりで把握し、じぶんが有利だと判断してから体術を出す。科学がどんなに進んでも、最後は肉弾戦をしなければならない。どうにか一対一に持ち込んで、おたがいが不利なところを狙って、賭けに近い態度で接近し、撲殺・絞殺の類を決める。うまくいくときはアイテムを手に入れ、うまくいかなければ喰われる。

狩りがなされるとき、肌を撫で、肺臓の奥深くにまで吸い込まれる大気は一層えもいわれぬ味わいをもつ。岩もいっそう表情たっぷりの相貌になり、草木も何かいろいろと仔細ありげになってくる。だが、こういうすべては、狩猟者が前進したり、うずくまって待ち伏せしていたりする間中、その追い求める動物が視界にあろうと、隠れていようと、はたまたいなかろうとも、これと大地の下で一体だと感じることから来るのだ。(…)彼らは実によく知っているのだ。すなわち、野外に身を置くや、基本的なもの、あたかもあらゆる状況の軸となるものは、動物とのそうした神秘的合一、それを感知し予感することであって、いつのまにかこれが周囲を、自分の固有の視点を捨て去ることなしに、獲物の視点でもって感じ取られせるようになるということをだ。事柄はそれ自体辻褄が合わず、矛盾した様相を呈している。しかしこれを拒むことはできない。とどのつまり問題はひどく単純な事柄なのである。すなわち追跡者は、追跡されるものが身につけている目ざとさで、もしも己れのそれを補完しないならば、追跡することもできはしない。ということはつまり、狩猟は動物の模倣である、ということだ。(…)獲物との神秘的なそうした合一の中にすぐさま生じてくるのは、一つの感染であって、狩猟者は獲物と同じように振る舞いはじめる。オルテガ・イ・ガセー『狩猟の哲学』(訳・西澤龍生)

 なるほど、『バイオハザード5』をやっているとき、ぼくは狩猟の気分だったのだ。
 敵=獲物の棲んでいる場所に入ってゆき、前進したり、待ち伏せしたりしているとき、獲物がそこにいようといなかろうと、おなじ大地において一体であった。おなじように息を潜め、おなじように様子をうかがい、あらゆる状況の判断軸を共有し、おたがいが自分固有の視点を捨て去り、模倣し、感染していた。それが愉しくて、あるいは(何度も繰り返しているステージなのに)とても緊張して、いつもプレイしていた。
 もちろんゲームだから、やる前とか、やり終わったあとは「ゲームをする/した」という気分で満たされるのだけれど、FPSの狭い視野を持ってステージを回っているときは、狩猟と言えなくもない感覚を抱いたのではないかと思う。前述の通り、銃を使わずにとどめをさすことが推奨されていて、『狩猟サバイバル』の著者・服部文祥さんも――ぼくの話とおなじ土俵で語ったら失礼にあたるかもしれないが――シカを狩るときに「ここで撃っちゃいけない」と咄嗟に感じて、ナイフでしとめたというエピソードを残している。一対一になって、おなじ場所で「神秘的合一/感染」があったとき、殺戮的な武器を手放したくなるのかもしれない。
 特にすごいなと思うのは、『バイオハザード5』では、ナイフや体術で仕留めるとき、視点が急に俯瞰になって、二秒ほどのモーションムービーになる。ナイフを首に刺したり、肋骨を強力に踏みつけたりするわけなのだが、この一瞬の強制ムービーに、ぼくは「いまは」の時間を感じる。獲物を殺すときの、たった一瞬が、ひどく長く感じられる。その「一節」にも感じられる長さを、ぼくは「いまは(のとき)」と呼びたい。じぶんで食べる肉を殺すとき、きっと、ぼくの時間把握は、主観と俯瞰が相互浸透してゆき、一瞬が一節になるほどの「いまは」になるのだろう。
 こうして『バイオハザード5』で狩猟を追体験することによって、ぼくはじぶんの「いのち」の相対性を(ごくごく僅かに)感じ始めた、という話をした。なんとも恥ずかしい話なんだが、そうなんだから仕方ない。でも、このゲームのおかげで、ぼくは「いのちはたいせつ」という価値観に対して保留的な態度を取れるようになった――ちょうど冒頭のツイートで「良し悪しではなくそう思う」と端的に言い表されているように。じぶんの「いのち」という特別なきらめきを持つものも、キメラの「いのち」と変わりない。ぼくの「いのち」は、だれやなんのそれとも寸分たがわず、瑣末で、軽微で、かすり傷で、腰掛け仕事で、単発的で、一時的で、瞬間的な現象で、かりそめで、ポップで、制約を受けていて、埋め尽くされていて、大したことなくて、取るに足らなくて、ありながらあり損ねている。〈そんなことさえ〉ぼくは知らなかった。「いのちはたいせつ」という文字列や教訓(表象)ばかりがあたまのなかにストックされていて、その肝心な、肝心な肝心な肝心な「いのち」を無視していた。
 ぼくらは「いのち」に触れてみなければ、「いのち」を考え出すこともできない。学校や親から「いのちはたいせつ」と聞かされた回数とおなじだけ、ぼくらは「いのち」と一対一になれる世界に座り込まなければならないのかもしれない、とさえ思う。そして、そのために、じぶんにとってちょうどいい距離を見つけなければならないのだと感じる。無頼で、瑣末で、取るに足らない「いのち」が一対一で向き合ったときだけ、ぼくらは「じぶんは何者か」というきわめて精神的な問いを棄却できる。

自然の中で生きるものの価値とは何だろう。生命とは死とは何だろう。そうか、死だ。自然の中で生きた者は、すべて死をもって、生きていたときの価値と意味を発揮できるのではないだろうか。キツネ、テン、ネズミに食われ、鳥についばまれ、毛までも寝穴や巣の材料にされる。ハエがたかり、ウジが湧き、他の虫にも食われ尽くし、腐って融けて土に返る。木に養分として吸われ、林となり森となる。森もまた、他の生き物を育てていく。(久保俊治『羆撃ち』)

 自然に生きるということは、「いのち」が動的であり、「わたし」はひとりではなかった――ひとりという単位があまりに精神的だった――ということを教えてくれる。その自然との距離を見つけなければならない。それが狩猟のひともいれば、アクアリウムのひともいるだろうし、「うさぎはおいしい味だった」のひともいるし、虫を食べるひともいるし、ぼくみたいにまずは『バイオハザード5』のひともいるかもしれない。
 生も死も、ぼくらを巻き込んで動いている。それを肌で知覚すれば「じぶんは何者か」などといった、孤独な交換可能性に苛まれないで済む。交換可能性は、孤独な気分であり、独りきりな精神でしかない。生と死が「停まったまま」に見える道徳の標本的な病である。

My guess would be that someone someday will trace the roots of modern human loneliness to a loss of intimacy with place, to our many breaks with the physical Earth. We are not out there much anymore. Even when we are, we are often too quick to take things in. A member of the group who insists on lingering is "holding everyone else up." I think about this kind of detachment from the physical world frequently, because human beings, generally, seem to long for a specific place, a certain geography that gives them a sense of well-being.
いつか誰かが現代人の孤独の原因を突き止めたとしたら、その答えはまわりの自然との絆の喪失、地球そのものとの断絶なのではないかと、私は思う。もはや現代人には、自然と触れ合う機会があまりない。あったとしても、すぐに元の暮らしへ戻る人が大半だ。たいてい人間というものは、安らぎを得られる場所や風景を求めるものだと思うのだが、人々がこれほどまでに自然への関心をなくしてしまったのはなぜだろうか? この疑問が、ずっと私の頭から離れない。(ナショナル・ジオグラフィック=バリー・ロペス『消えゆく永久凍土』)

 「a loss of intimacy with place, our many breaks with the physical Earth/自然との絆の喪失、地球そのものとの断絶」ということばが、強く強く響いてくる。ぼくは、現代的で、都市的な生活をしているし、きっとこの先も、なかなかこの生活にケリをつけることはできないと思う。それでもなんとかやり直すことができないかとも考える。地球そのものと断絶してしまった分断の傷を、ぼくはこれからどうやって癒やしてゆけばいいのだろうか。
 時間が来てしまったので、最後にロペスをもうひとつ引用して、終わりにしたいと思う。続きはまたどこかで書くかもしれない。ながながぐだぐだとありがとう。

物ごとを変えること。私たちがここにいるのはそのためだと私は思っている。私が砂漠に来た理由はそれなのだ。ここでは、物ごとは鮮烈で単純だ。何をしているのかを見ようと肩ごしに手元を覗き込んできたり、毎日どれだけの人が飢えて死んでゆくのか考えたことがあるかと問いただすような人は誰もいない。(…)どれほど静なのか、それを感じ取るのだ。ここでは、先へ進むためにどんな説明でも受け入れたくて、ついせっかちになりがちだ。静けさを感じることなど取るに足らないと思えるだろう。だがそれは、君と君が求めているものとを隔てる壁なのだ。恐いものは何もないなどと思い込んでしまわないように気をつけねばいけない。先へ進むことは重要ではないのだ。待たねばならないのだ。物ごとはとことん突きつめてみなければだめだ。(…)あらゆるものが衣を脱いで眠りにつくのを待つことだ。君がなぜここにいるのかを自分自身に説明しようとするのはやめたほうがいい。注意深く耳を澄ますのだ。夜が明けるほんの少し前になってようやく微かな音楽が聞こえてくるだろう。それは、とても賑やかな夢の音だ。ごろごろした石たちの夢だ。そのまま音楽が聞こえなくなるなでさらに耳を澄ますのだ。石について思ったことはどこかに消えてしまって、本当にわかっていることが何なのかがはっきりするだろう。(…)もうひとつ君に言っておかねばならないことがある。私はここでガラガラヘビをずっと待っているのだ。でもガラガラヘビはやってこない。その時がちっともやってこないことに私はうんざりしている。それでも私はここで待ちつづける。ガラガラヘビが自分で自分を滅ぼしてしまうようにさせるうまい手はないものだろうか。私はそんな決着のつけ方がいいと思うのだ。もう一度、ヘビという生き物と最初からやりなおしてみたいと思うのだ。(『水と砂のうた』)

 

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・以前に書いた「自分の代わりを求めてもよい」の続編でもありました。

http://chiasma.bangofan.com/lalalagi/be-a-philosopher

・(本文で出せませんでしたが)野生動物の肉のことを"game"と呼びます。狩猟をして熊の肉を食ったら、ぼくは、じぶんの肉を熊に差し出す覚悟を持つべきなのかな、と思います。

・「いまは」というのは、「いま」+係助詞(強調)「は」という時間把握です。あえてラカンっぽく言えば「大文字の"いま"」でしょうか。

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