ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

星座は星より善いものか

 太陽の2倍の大きさを誇るシリウスまでは8.6光年あり、光が届くまで8年ほどかかる(歩いたら23億年ほどかかる)。プロキオンは11光年、べテルギウスは640光年ある――死ぬほど巨大で全天のうち9番目に明るいためよく見える。
 厳密さを無視して単純に計算すれば、シリウスからべテルギウスまでは630光年あると言える。それなのにぼくらは、「冬の大三角」という名前を与えて、あたかもそれらが〈その場で〉つながっているかのように言う。オリオン座とか、おおいぬ座とか、北斗七星(ル・グランドゥ・カスロール)とか、本来は別々に位置している星を、異様な結びかたで星座にする。
 星座を指し示すということは、とことん人間にとって都合のいい〈視点〉から星を乱暴に関係させることである。ベテルギウスからしてみたら、オリオン座なんていうシャバいグループに入れられて、いい迷惑なのかもしれない。有名人税みたいな感じというか、「お前らがキスだのセックスだのしようとして、ロマンチックな雰囲気を求めて、それを最大化するために俺は光ってんじゃねえよ。そもそも地球ってなんだよ、近えんだよ」みたいな。
 そうは言っても、人間に与えられた認識なんて所詮はこんなもんであると言わざるをえない。それを星座と星の関係の比喩で指摘した思想家がいる。名前はウォルター・ベンヤミン。『ドイツ悲劇の根源』という論文で、このようなことを言う。(訳は浅井健次郎さんのものを使用)

 

Die Ideen verhalten sich zu den Dingen wie die Sternbilder zu den Sternen. (…)Die Ideen sind ewige Konstellationen und indem die Elemente als Punkte in derartigen Konstellationen erfaßt werden, sind die Phänomene aufgeteilt und gerettet zugleich.
理念と事物の関係は、星座(Sternbilder)と星の関係に等しい。(…)もろもろの理念はそれぞれに、永遠不変の星座(Konstellationen)なのであり、そして諸構成要素がそのような星座のなかに位置する点として捉えられることによって、諸現象は分割され、かつ同時に、救出されている。


 ベンヤミンは、占星術の用語を哲学に持ち込み、「星座」(Sternbilder)や「星座的布置」(Konstellation・コンステラツィオーン)という用語を好んで使う。ベンヤミンのことばには、ひとを惹きつけるなにかがあって、たとえばこのコンステラツィオーンの説明をするときも、「過去がその光を現在に投射するのでも、また現在が過去にその光を投げかけるのでもない。そうではなく形象の中でこそ、かつてあったものはこの今と閃光のごとく一瞬に出会い、ひとつの〈コンステラツィオーン〉を作り上げるのである」といった表現をする。
 過去と現在、あるいは客観と主観といったものが相互に浸透していき、ひとつの状況(Konstellation)を作る。そこに「絶対的な真理」はあり得ず、知のゴールも存在していないベンヤミンの思想を引き継いだテオドール・アドルノがこだわったのは、この部分だった。その後をゆくスラヴォイ・ジジェクも、似たような議論を極めてわかりやすいやりかたでもって展開している(ベンヤミンアドルノも難解と言われている)。
 ぼくが気になるのは彼らの(ヘーゲルに対する)議論なんかではなく、もっと初期段階の「ああ、星座って奥行きがあったんだ」という点である。知識としてはわかっていたけれど、星座を見るときにはいつも忘れていた。
 「die Elemente als Punkte in derartigen Konstellationen erfaßt werden/星座の構成要素を点として取り出してやる」ことで、星々が「gerettet/救出される」というベンヤミンのことばにぐっとくる。
 星座をみるとき、そこには本来、何百兆キロメートルもの落差があって、それを平気で無視しないようにしたい。あるいは星座から逸れた星も星として扱いたい。救出したいと思う。主観の限界もあるけれど、客観と認識の一致を目指してしまうときもあるけれど、それでも相互浸透させて、しっかり〈星〉をみることができたらいいなと思う。

 最近、こういう認識の話ばかりですみません。