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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

君でありながら君でないものから君自身を知る哲学の死のリハーサル

 気取った表情でアルベール・カミュの『異邦人』の原著をひらいた。
 本題につながっているから、簡単なあらすじだけでも書いておこう。
 物語は、「Aujourd’hui, maman est morte./今日、ママが死にました」というドライかつ幼稚な出だしから始まる。
 母親=ママの年齢も知らず、昨日死んだのか今日死んだのかも「je ne sais pas/わからない」ような、お通夜で母親のことを「cette morte/この死体」と呼ぶような主人公。とりあえず埋葬に立ち会わなくてはいけないので仕事を休んで養老院へ向かう。院長の厚意を適当に無視しつつ(母親の死に顔を見ないで)、元同僚の女性と泳ぎに行く。アフターで映画を観て、部屋に泊めて、愛しているかと尋ねられる。主人公は「Cela ne signifiait rien./なにも意味しない」とか無気力な考えしか持たず、不確定なことしか言わない。翌週またセックスし、結婚しようと言われ、おなじように「それに重大な意味なんてない」と前置きをし、「それでも君が望むなら」と結婚を承知する。隣人の誘いに流され、人間関係のいざこざに巻き込まれて、(半分は自分で招いたような)危機的状況から必要に駆られてアラビア人を撃ってしまう。一発で仕留めたあと、なぜか四発、追加で撃ち込む。「Et c’était comme quatre coups brefs que je frappais sur la porte du malheur./そしてそれは不幸の扉をたたく四つの短い音と似ていた」という断定を避けた、曖昧な比喩表現で、第一部が終わる。

 

 第二部。逮捕され、何度も尋問を受けるが特に弁解するようなこともなく、むしろじぶんの弁護士を困らせるようなことを自己証言する。死刑が決まり、魂を救いに来た司祭にキレて追い出し、死刑のときにひとびとから罵倒されることだけを希望に、残りの時間を過ごすことにする。そして、主人公が法廷を出て護送車で送られるときのシーンが、今日の本題。(訳は窪田さんのが好きなので、引用文の拙訳は控える。)

L’audience a été levée. En sortant du palais de justice pour monter dans la voiture, j’ai reconnu un court instant l’odeur et la couleur du soir d’été. Dans l’obscurité de ma prison roulante, j’ai retrouvé un à un, comme du fond de ma fatigue, tous les bruits familiers d’unel ville que j’aimais et d’une certaine heure où il m’arrivait de me sentir content. Le cri des vendeurs de journaux dans l’air déjà détendu, les derniers oiseaux dans le square, l’appel des marchands de sandwiches, la plainte des tramways dans les hauts tournants de la ville et cette rumeur du ciel avant que la nuit bascule sur le port, tout cela recomposait pour moi un itinéraire d’aveugle, que je connaissais bien avant d’entrer en prison.
法廷は閉じられた。裁判所を出て、車に乗るとき、ほんの一瞬、私は夏の夕べのかおりと色とを感じた。護送車の薄闇のなかで、私の愛する一つの街の、また、時折り私が楽しんだひとときの、ありとある親しい物音を、まるで自分の疲労の底からわき出してくるように、一つ一つ味わった。すでにやわらいだ大気のなかの、新聞売りの叫び。辻公園のなかの最後の鳥たち。サンドイッチ売りの叫び声。街の高みの曲がり角での、電車のきしみ。港の上に夜がおりる前の、あの空のざわめき。──こうしてすべてが、私のために、盲人の道案内のようなものを、つくりなしていた。それは刑務所に入る以前、私のよく知っていたものだった。(訳・窪田啓作) 

 

 これまで何気なく通り過ぎていた町並みの〈すべてが私のための盲人の道案内のようなもの〉に見える。ここを読んだときに、ぼくは、精神的に腰を抜かした。主人公は、町を見ているのに、町を「表したもの」しか見えることができない。それはなにか特別なことなのではなくて、ぼくらはずっとそうだった、ということに気づいてしまったんだ。
 月曜日の新宿御苑の新宿門でうろたえている外国人に向かって、できるだけやさしく、"v"の発音と、"m"の響きに最大限の配慮をしながら、「Closed every Monday」と教えてあげるとき、ぼくは「Tokyo people」を代表しているわけで、もしかしたら「Japanese people」を代表しているかもしれなくて、そしてそんな〈代表としてぼく〉は、明らかに、代表されるものに先立って存在している
 つまり、ぼくの対応から「日本人って親切だな」と思ってもらったとして、彼らは「日本人からぼくを知った」のではなくて「ぼくから日本人を知った」のである。教科書を読んで「Hideyoshi Toyotomi」を知るように、テキストを読んで「Ohayo Gozaimasu」を知るように、ガイドマップを読んで「Shinjuku Gyoen」を知るように、ぼくらがなにかを知るときは、いつもその「表したもの」を先に知っているだ。
 好きなひととセックスをする。シャワーを浴びる。朝ごはんを食べる。散歩をする。手をつなぐ。安心する。顔を見る。笑っていたり、遠くを望んでいたり、ときどき切ない表情をする。会話が弾む。手を大きく振る。歩幅が合う。景色が変わる。知らない道に出る。横断歩道を渡る。昼食をとる。歌をうたう。しあわせになる。日が暮れる。辺りが暗くなる。公園でトイレを借りる。手を離す。携帯を操作する。音が聞こえなくなる。数十分がたつ。呼びかける。気配を感じなくなる。中に入る。薬が転がっている。
 死んでいる。
 死体に近づく。死体にふれる。死体に声をかける。死体と手をつなぐ。死体の顔を見る。死んでいる。その身体にまだ生命があったころとおなじことをしたところで、〈君〉は遠ざかってゆく。身体は、〈君〉であったのと同時に、〈君〉なんかではなかった。〈君〉は〈君の身体=君ではないもの〉に演じられていた。〈君ではないもの〉を通じて、わたしは〈君〉を知っていた。知っていた気に、なっていた。
 死ぬということは、生命の剥奪を、身体の不在に溶け込ませることである。
 死ぬということでさえ、ぼくらは、「死」ということばで「表された」ものを先立たせて知るしかない。盲人の道案内のように、Japanese peopleのように、あの日のセックスで感じていた〈君〉のように。「哲学的な生は死の練習である」と言い残した哲学者がいた。