「興味ない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」――正論風感情論に共感したがる女、刺さりたがる男

 横槍メンゴさんの少女漫画『クズの本懐』がノイタミナでアニメ化するということで、改めて第1巻(第4話「ハイスクールララバイ」)に出てくる台詞について考えてみようと思う。
 すでに煽り画像としてもおなじみの「……興味のない人から向けられる好意ほど/気持ちの悪いものってないでしょう?」――主人公•花火ちゃんの正論風が吹いているだけあって、少女のみならずクズへの願望を持ち合わせた男とか、正論風の感情論に弱いOLとか、そのあたりまで響いてるらしい。
 「感情について語られている強烈な正論に共感するワタシ」という自己愛は、たしかにぼくにもあるので、そこに関してどうこう言うつもりはない。大事なのは、これがただの感情論であることを、クズ一同が改めて理解して、成長してゆくことである。
 (ぼくら)クズ男どもは、「好意」という概念を好意的に用いる。好意だからさ、ほらね、といった感じに。あるいは返報性を期待している。つまり「好意は(熨斗をつけて)返すべきである/好意は(強化された好意として)返ってくる」という法則を無邪気に信じている。だから、雑に断言してしまえば、男の書く恋愛ストーリーは好意が返ってくるようになっている。(たとえば都合よく引き合いに出すと『君の名は。』で滝くんが三葉を好きになるのはエロであり、三葉が滝を好きになるのは好意の返報の結果である、など)。
 (ぼくみたいな)クズ男どもは、好意を好意的に勘定する。好意に「ひっかかる」女を探している。罠を手掛けて、正義の顔をして待ち望む。クズ男の好意は、常に女の肉体か性器に連絡しようとしている。それが、横槍メンゴさん=花火ちゃんの語った「好意」者の本懐である、と、ここではひとまず断言させてもらいたい。
 ただこれは「利己的な男が、私になんかしようとしてきている、キモい」という感情的(生理的)な話であって、ほんとうは正論ではないし、煽りなんかでもない。(学校という)ただでさえ過剰に接続してしまう世界なのに、クズな男は次々と接続を試みてくる。虎視眈々と性器を狙っている。恵もう、与えようとしてくる――返報性を信じているから。だから、そんな世界と、〈私〉の世界を断線したい。好意が性器へと連続してゆくだけの、表だけキラキラした〈恋愛〉という、セックスの口実でしかないふざけた幻想を、切断したい。でも教師(鳴海)のことは、好き。
 ここあたり、クズ女感がめっちゃいい。
 話を元に戻すと、「好意」ということばは曖昧で、曖昧だからこそ読む側の自由裁量で、好きに読み込んでしまえるということである。その強烈なワードに引っ張られて、「向けられる」ということばの恣意性に気づけなくなる。だから立ち止まるべきで、「向けられる」ってなんだろう。向けるとか、向けられるっていうのは、いったいどういうことを言っているのだろうか。
 肝要なこととして、向けられていると感じているのはじぶんでしかない。彼が向けているかどうか、確実なジャッジを行うことはできない。逆に男のほうも、じぶんが向けているかどうかなんて絶対に自覚できるわけではない。そこに谷間があれば、自覚なしで覗き込めるクズの名手もいる。この「向ける/向けられる」は、じぶんのセンスで決めつけるしかない。
 ただ少なくとも「向けられている」と感じるとき、なにかしらの「押し」を感じるということになる。その押しの正体は利己性である。つまり「ああ、きっとこのひとはじぶんのためにやっているんだろうなあ」と感じられるなにかがあって、それを名指して「好意を/向けられる」と呼ぶのだろう。しかし、「利己/利他」と言い換えたところでなにも問題は解決しておらず、結局は「どう見えるか/どう感じるか」というところにとどまっている。
 たとえば、「家事はもちろん手伝うけれど面倒だから食器洗い機買うね」は利己的に見えるが、「家事いつも大変そうだね、ありがとう、今度、食器洗い機買おうね」はどうしてだか利他的に見える。利己と利他の評価は、感情に大きく左右される。「向けられた好意」なのか、「施してもらった恵み」なのかは、感情に従うと言える。だから冒頭の台詞は、心理学の「認知のゆがみ」における「感情的決めつけ」(emotional reasoning)になる。じぶんの感情を、あたかも真実の証明のように扱う歪みである。
 もちろん忘れちゃならないのは、花火ちゃんは、分断しにいっているからこそ、こういう言葉遣いをするのであって、ディスコミュニケーションのために正論風に啖呵を切っているのであって、それはまちがっていないとぼくも思う。大事なのは、このディスコミュニケーションに「共感」してしまって、なにもわからず花火ちゃんがそうしていたからといって、こういう歪みを多用していくのは危険だ、ということ。あるいはクズ男側も、正論で斬られたと嘆いていないで、ことばの背後にある「(乙女特有の)見かけの謙虚さへの欲望」を知るべきだし、「押し」ではなく「恵み」ではなく、無害であることの評価を受けるよう努めるべきである。
 アニメ化、おめでとうございます。