ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

だれの目を通して世界を見るか

 今日はひさしぶりに、ロランバルトの『明るい部屋』の原著を開いた。そもそもぼくがバルト好きなだけなのもあるけれど、二大写真論と言われているだけあって、やっぱりおもしろい。
 「Le nom du noème de la Photographie sera donc: "Ça-a-été”, ou encore: l'Intraitable.」(「写真」のノエマの名前は、つぎのようなものとなるだろう。「それは-かつて-あった」、あるいは「手に負えないもの」)という箇所があるのだけれど、これを読みたかったんだよなあ、という気持ちになる。
 写真は、「それは-かつて-あった」ものとして"現前"するパラドキシカルな存在。
 それってつまり、「かつてあった」の? それとも「いまある」の? どっちなの?――こたえは「どちらでもあるし、どちらでもあった」と、パラドキシカルに言うしかない。
 むかしの写真でも見ようと思って探していたら、八年前の立川、ビックカメラの地下一階で撮った写真が出てきた。被写体は当時お付き合いしていた子。委員会のあとペンタブを見にきたついでにカメラコーナーに寄って、買うつもりもない一眼レフを物色する。カメラで遊んでいたその子はミサミサ風のヘアアレンジをしていて、ぼくはずいぶん遅れて髪型がちがうことに気づいて、なんだかすごくかわいいと思って、手元の携帯で撮影した。
 その写真は八年も前の光景で、手に負えないものである。それなのにいまここにあるかのような心地を与える。その二重性に、驚く。過去のじぶんの眼差しと、現在のじぶんの眼差しがダブった地点を写真する。これがかつての"ぼく"の見ていた(あのときは「俺」と呼称していたので正確にはかつての"俺"が見ていた)世界なのか、と、当たり前のことを確認する。
 写真を見ることで、二度と現れない眼差しを手に入れる。ぼくは、かつてあったぼくの眼差しをリプレイする。過去の主観によって、現在の主観が揺らめく。ぼくは、ひとつの主観を守りきることができないと知る。
 哲学者デリダは、対になってしまった「主観」と「客観」をやり直すことにこだわっていた。科学の世界に完全な客観はないが、それならば完全な主観だってないだろう(!)といった感じで。ぼくらは客観でも主観でもないところで眼差すことだってある。
 ぼくらはいつもだれかの目を通して世界を見ている。すくなくとも「いま存在しているじぶんの目」だけで見ることはできない。かつてのじぶんであったり、あるいは他のなにかであったり、主観を揺るがす〈異なる主観〉に侵入されながら世界を眼差している。
 若いときは、親の目だったり、先生の目だったり、アニメのヒーローの目だろうか。すくなくとも、じぶんの目よりも信頼していたのではないだろうか。ぼくは――いつもこの話で申し訳ないが――あまりにマザコンで、母親の目を過信していた。じぶんの好きになる女の子さえ、母親の目で見ていた。具体的には「この子なら母親は気に入るだろう」という計算をしてから付き合う、といった感覚を思考の背後に常備していた。(もちろん当時はそんなことすら気づかない、それがマザコンの怖さだろう――たとえば「みんなが気に入っている子だから気に入る」みたいなミーハー的・サークル的な価値判断と似ている、と言えばわかりやすいだろうか)。
 自己の〈マザコンによる眼差し〉に気づいてから数年経つ。なくすのは簡単なんだろうけれど、やはり完全な主観などないわけで、マザコンによる眼差しの「代理」が見当たらなくて困っている。もちろんここで「いいや! 完全な主観はある! マザコンから抜け出した俺の目は、100%俺の目であり、この目で女の子を選ぶんだい!」と主張して恋愛街道を独走することもできる。
 会社を選んだり、友だちを選んだり、商品を選んだり、家具を選んだり、小説を選んだり、映画を選んだり、色を選んだり、上着を選んだり、靴下を選んだり、香水を選んだり、人生はあらゆる選択の地続きだし、幸福もそこに一枚噛んでいるとしたら、〈だれの目を通して世界を見るか/選ぶか〉というのは、とても重要なことだろう。
 そして、この話をしているときも、ぼくはバルトの目だったり、デリダの目だったりを通して世界を見ているわけで、んん、でもバルトとデリダなら、結構いいかも。はーと。

 

追記:

今年もアドベントカレンダーをやるので、12月は毎日更新すると思います。