ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

「万障お繰り合わせの上」を気づく――推定した気になっていた相手のストレス

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/27038320

 

 今年の五月に発表された心理学の論文に「Stress at Work」というものがあって、なんか結構考えさせられることが書いてあった。内容は、仕事において高い地位にいるひとの幸福度やストレスに関するデータと分析。これまではずっと「ステイタスの高い仕事」のほうが幸福で、ストレスも少ないと思われてきたが、実は逆だった(あるいは逆かもしれない)というデータが取れたという。
 もちろん「上のひとは大変そうだな」という感覚はあれど、ぼくのなかでは、「あのひとは働いてもない残業代をもらっているし、あのひとはずっと出世したがっていたし、あのひとは……」という理由付けでもって、しあわせなんだろうという結論めいた見方があった。
 そういうふわっとした正当化を執行して「なにか」を守っていたところに、こういうデータや実験をぶつけられると、とても焦る。文化だって働きかただってちがうし、実験の内容だってデータだって「ほんとうに相関なのか……」という感じも残っている。それでもいままで「日記」からしか論じられてなかったストレスに関する個人世界が新しく数量的にアーカイブされたわけで、ぼくの感覚や言い訳をたぶんに揺らした。
 「万障お繰り合わせの上……」などと形式ばったことを建前として送り出していたあの日のぼくは、相手の「万障」を限りなく見下していたと思う。置かれている環境や状況によって判断も能力も変わる。「もっとこうすればいいのに」とか、「なんであのときこうしなかったの」という第三者的な叱責は、岡目八目の喧騒に等しく、相手の環境や状況を大いに見下しているとも言える。万障お繰り合わせの上ということばを使うのは、それが形式だからではなく、ビジネスだからではなく、相手の「都合」をこちら側から評価することができないからだった。だから「万障」だの「お繰り合わせ」だの、輪郭の曖昧なことばで、開かれたグレースケールで、抽象度を極限まで高めた記法でもってお互いの情報を宣言し合うんだ。
 思い込みとか、偏見とか、価値観とか、透明なカビのようにこびりついているものを利用して、相手のストレスまで決めつけているじぶんがいて、そういうじぶんを点検するたびに嫌気がさす。「嫌ならやめれば?」という第三者的な意見もやっぱり岡目八目だが、それはそれで正しいからなんとも言えないもどかしさだってある。
 とりあえず、がんばろう。