『君の名は。』を観てきました――女子高生と観れる映画というだけで満点です

※もちろんネタバレ(というか観てないと具体的に意味が浮かんでこないような書き方)です。

 

 観終わっていろいろ考えたけれど、やっぱりどうしても動かせなかったのは、〈「あーわかる、胸キュンしたいよね」とじぶんに言い聞かせながら観なければならなかった、というのを否定できない〉ということだった。作り手側のことばで言えば、ぼくはターゲットじゃなかった、というだけの話なんだけれど、いちおうことばにしておこうと思う。

 まずなにがすごかったかと言えば、「観ればだれでもオタクになれる作品」として最高の完成度だった。宮崎駿みたいに古臭いテーマ性があるわけでもなく、細田守みたいに希望と自信(誇り)を映像を〈観る〉という行為のなかで与えようとしているわけでもなく、庵野秀明みたいに「わけわかんないもの」を魅せる才覚があるわけでもなく、ドラえもんクレヨンしんちゃんみたいにキャラクター性があるわけでもなく、それでもオタク作家の新海誠が打ち出した『君の名は。』が受け取られたのは、この映像(107分)を受け取ればみんなオタク、という上手な、完成された作品だったからだと思う。

 エンターテイメントの脚本において大事なことは、(1)オープニングに対してバックグラウンドがあること、(2)ドタバタすること、(3)途中で話が後戻りしないこと、(4)必ずゴールすること、(5)行ったら最後に変わって帰ってくること、(6)主人公が後半と同時に決意する(不退転)の六つである。

 宮崎さん(特にラピュタの脚本が好きだ!)や細田さんあたりが、まあいつも本当にテクニカルなのだけれど、新海さんもついに――詩ではなく――エンターテイメントの脚本を書き始めたな、という印象だった。つまり、この六つの約束事をきっちり守りながら、映像というものをストーリーの土台からねっとりみっちりコントロールするようになった(満足にできていたとは言っていない)。これはふつうに考えて作家の成長であり、もともとオタクポルノをやっていた新海誠の面影みたいなものは、本当に薄れていったと思う。

 だれの差し金か知らないけれど、オタクポルノっぽさを薄めて、エンターテイメントの脚本を書かせれば、「観ればみんなオタク」映画を作れる――それが新海誠の新たな作家性であって、だれが期待しないだろうか、と言い切ってもいい(ポスト宮崎というのは明らかに言い過ぎだが)。もちろんもともとディープだったオタクが本作を観て、いろいろ枝葉の部分、作りの部分が気になって苛立つのはわかる。ぼくもどちらかと言えばそっちの人間なので、無理なところはあった。

 脚本の都合として、三葉ちゃんと瀧くんはラストシーンまで出会ってはいけないので、そういう方向性で進む。それで三年のズレとか、同一日付ではない入れ替わりとか、いろいろと設定が組み込まれるわけなんだけれど、その都合を守らなければならないせいで後半が雑になってしまう

 出てくる人物(特に土建屋と放送部)も「ああ、このためにいるんだろうな」という印象を拭えないし、瀧くんのバイト先の女先輩の魅力を描くために「周りの男が夢中になっている(第三者評価の高い女から気に入られているリア充主人公、のための小道具)・仕事ができそう(マニュアルに従ってテキパキ対処するドライさ)・タバコを吸っている(瀧くんが〈過去〉を追っているときに、わざわざそのシーン必要でした?)」ぐらいしかできないのは雑だし、三葉ちゃんの家系が村を彗星から守っているとしても手段が入れ替え以外にないのかって思うし(書物は燃えたって、ああそうですかって感じだし)、メモが消えてゆくところはさすがに噴飯してしまったし、三年前の彗星の事件をまったく覚えてないなんてことあるのって感じだし、入れ替わりに慣れて情報交換するようになっても机って蹴るのかって思うし、そもそも瀧くんは喧嘩早いという設定も都合よく出てくるし(町長に身バレするところ)、そういう全体的な粗さに鳥肌が立つ場面もあった。

 ただ、そういったことを優先しないと決めていたようにも思う。とにかく大事なのは、恋愛作品としての文脈や約束を守りながら(ターゲットとなった10代~20代女性はそもそもこの手のテンプレがテンプレだとわからない可能性高い)、キャラクターよりも胸キュンを優先し(瀧in三葉、三葉in瀧の胸キュンポイントをいくつか強調し)、リア充のドタバタをテンポよく進め(「リア充は週に何度か入れ替わっても生活が深刻にならない」という甘い設定)、細かい部分のニュアンスはRADWIMPSの思想なき詞で好印象を与えつつやりくりし(「五次元にからかわれて/それでも君を見るよ」みたいなやつ)、後半に入る前にきっかけを与えて不退転の決意をさせ(ここの回想シーンの作画もめちゃくちゃ力入っていてびっくりした)、あとは走って走って走って走って、「会う」のをじらして、会って告白して、時間差で気づいて(ここで「手のひらになにが書かれてたかもっと早く見るでしょ」と言っても、そういうことを優先していないので仕方ない)、父親に会って、どう説得したかを華麗にスルーして、隕石から救っちゃいました(危機回避とタイムサスペンスの完成)という形に持ってゆくこと。

 そういうひとつひとつの「退屈させない工夫」が、ぼくにとってはひどく退屈だった。もちろんターゲットとしている層には、めちゃめちゃウケているらしいので、なにも誤ってはいないとも思うけれど、新海誠の名前に引き寄せられたオタクたちは、とにかく「今回も新海誠だった」とトートロジーで割り切るか、詳しい感想文をインターネットに書いてじぶんの役回りに満足するか、キレるかといったところだったのではないかと思う。

 新海誠さんは、デートの口実にでもしてくれ、チケ代の元くらいは取れたと思ってくれたら嬉しいみたいなことを言っていたけれど、映像美や画面の力だけでほとんどのひとはペイできているだろう。「映画館に行く」ということを久しぶりにした若いひとだっているだろうし、「映像を観て自己肯定する」という経験に向き合えたひともたくさんいたはず。そういった意味で作品にテーマがなくとも、映像自体にメッセージが仕込まれていたとも言える。

 十年後「『君の名は。』がいちばん好きな映画だ」と言うひとはあまりいないだろうけれど、昨日今日の生きやすさをわかりやすく変えてくれる、1800円の映像体験だったと思う。

 そんなぼくも、かわいい女子高生ふたりと観に行けたので、新海誠先生さまさまです。まじでありがとうございました。

 

おわる。しーゆーれーらー