ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

相聞のお誘い(続いたら文フリに出します)――ひとは文章が仲良くなれるのか、ことばの実用をことばで問う試み

また立ちかへる水無月
歎きを誰(たれ)にかたるべき。
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。
――芥川龍之介「相聞(さうもん)」『芥川龍之介全集9巻』

 万葉集のジャンルとして発明された「相聞」。そのまま「さうもん/そうもん」と言ったり、與謝野晶子・與謝野鉄幹の明星派が好きなひとは「あいぎこえ」と言ったりするのかもしれません。
 ここで特に強調したい読みかたは、鹿持雅澄流です。彼は「したしみうた」という独創的かつ本質的な読みを添えました。これだ、これをやろう。『ぼくたちは文章が親しめるか』という問いを立てよう。
 ――主語がおかしくないか、って? そんなことはありません。ぼくたちは、文章が、仲良くなれるだろうか。つまり、ことばで創作することをやっている作家各位は、いったいぜんたい、ことばを実用できるのか、そういう問いに挑んでみようよ、ということなのです。
 相聞すること。この現代社会で、かつての万葉のように、「ことばだけを用いて、相手に対して〈自分自身を無理やりくっつける〉こと」はできるのか、という実用的なことを、創作しながら考えてみませんか。
 表情も見えない、家に遊びに行くこともできない、本を貸し借りできない、帰り道を一緒に歩けない、肉声を聞くこともできなくて、ハイタッチすることもできない。手も繋げないし、キスもできない。どんなに妥協したところで、セフレにさえなれない。ことばだけで自分自身を無理やりくっつけるというのは、可能なのか。万葉の時代にできていたことを、いま私たちはおなじように果たせるのか。その方法とは――。その感度とは――。
 「また立ちかへる水無月の/歎きを誰(たれ)にかたるべき」。吉田精一は、芥川の相聞に対して、「そしてこの恋は(……)全く精神的な恋であつた。しかし精神的なものであつただけそれだけ強く、執念く彼の心の中に燃えつゞけてゐたと思はれる」と評した。
 ことばが生まれる前の、かつて詩魂というのは、濃淡な気配でしかなかった。ことばが生まれ、魂の在り処を求めることができるようになった。それがよいかわるいか、だれにもわかりゃしないが、私たちは〈全く精神的な恋〉をすることができるのです。
 異性とか関係なく。
 日常起居をことばで問おう。
 それにことばで答えよう。
 詩魂でもって、全く精神的な恋を含みながら。
 文章が仲良くなれるのか、やってみませんか――。

 

 

――らららぎ