ちがいすぎることなんてあるのだろうか

 
 
 じぶんとあのひとでは生きてきた人生が〈ちがいすぎて〉、理解し合えない(わかり合えない)――なんていう結論を出したがるひとがおります。そこに共感者が現れて「うんうん、そうだよね、人間ってみんなちがうから理解し合うなんて不可能なんだよ」などとわかったような口を利くわけです。
 
 ある意味では正しいのかもしれませんが、その正しさ以前のこととして〈ちがいすぎる〉というのはいったいなんなのでしょうか。ここをしっかり考えたうえで発言しようとするひとは多くないような印象ですね。
 
 「あのひと」も「じぶん」も、空を見上げれば雲を雲だと理解できるし、値段が書いてある商品を売り物だと理解できる。古典語のほとんどがいま使われていないことを理解できるし、『魔法少女まどか☆マギカ』が名作であることを理解できる。
 
 あるいは「古代ギリシア人」も「わたし」も、雷を見れば雷だと理解できるし、子どもが産まれたら子どもが産まれたと理解できる。木の実を木の実だと理解できるし、海を海だと理解できる。
 
 これほど〈ちがう〉ひとでさえも、私たちは理解し合えるものをたくさんたくさん持っているものです。やなせたかしの『歯科詩集』には、歯でたべて歯で愛するから人間もライオンもおなじだという詩があります。こういう肯定は、時にあたまわるくうつるものですが、正しくもあると言えるでしょう。
 
 「ああ、ライオンにはたてがみがあるのに人間にはないなんて」とか「ああ、チーターはあれほど速く動けるのに人間にはできないなんて」とか、私たちは、そうやって、差異を拡大して嘆きたがっている暇人なのです。〈ちがいすぎるんだわ〉と驚いてみせて、〈個性〉という概念のうえで踊って、相手との〈ちがい〉を最大化して嘆きたがっているだけなんじゃないでしょうか。
 
 この「ちがいをわざわざ拡張して嘆く」という行為さえ、「みんな」がやっていて、すでに「全体性」を帯びていて、だれかの「マンネリズム」でしかないということを理解できないのは、なにがだれと〈ちがいすぎる〉からなのだろうか、と、考える日もあります。
 
 ファッションの趣味が〈ちがいすぎる〉ひとでも、ファッションを趣味的に取り扱うのはおなじなんだろうし、価値観が〈ちがいすぎる〉ひとでも、あるひとつの好みをじぶんのなかで固定して譲らないのはおなじなんだろうし、常識が〈ちがいすぎる〉ひとでも、任意の行動原則を無根拠に正しいと決めつけているのはおなじなんだろうし、結局はおなじ穴の狢なんですよね。
 
 それでもわざわざ顕微鏡を使って〈ちがい〉をあぶりだして、ちがうことを嘆いたり憤ったりするのは、同族嫌悪なのでしょうか。あんなやつとおなじになんてなりたくない、そういう自意識の動きなのでしょうか。
 

 

 私たちは、他人の行動や思想を受けて「ありえない!」と叫ぶことも「人間みなおなじだね」と狢になることもできる。どちらも正しいから、どちらを選ぶのが正しいかなんてわかりません。それでも問うべきなのは、ミクロに見て「ありえない!」「ちがいすぎる!」と感情的になったときに、どうしてマクロに見て「おなじ穴の狢だね」とならなくていいのか、ということです。もちろん逆もしかり、ですが。