解凍されない情熱をもってぼくは書き続けることができるだろうか(カフェで改稿を重ねながら思うぼくの未来)

 新人作家が必ず直面する岐路にいる。思考が沸騰してゆく。情熱を解凍してしまう冷たい問い。小説家を続けるのか、辞めるのか。続けることを選ぶ場合、書き続けなければならない。書かないことを選べるけれど、書くということは決まっている。辞めてしまえば、一瞬の火花のように認められた才能がこころのなかで散るだけ。

 ここ数年デビューした新人作家で、名前が残り続けているひとはひとりもいない。大衆文学にせよ、ライトノベルにせよ、脚本やゲームシナリオにせよ。グランブルーファンタジーやポケモンゴーの作者を、ぼくらは知らずに夢中になれる。そうかと思えば庵野や新海などの古くから活躍してきたひとの名前は、バシッと出てきて覚えてもらえる。

 新人というのは、新しいものを持ち込むひとのことで、それは新しいという以外の価値を基本的に含まない。ぼくら新人作家は新しいだけで、それ以外ではない。新しい物語を書くだけの新米作家が、名前を覚えてもらえる時代ではない。だからここ五年で現れた新人作家の、だれの名前も挙げられない。

 アニメがあって、映画があって、VR元年になって、ひとを喜ばせる、楽しんでもらう手法がいくつも確定されていって、「物語」はいよいよ――ようやくとも言えるかもしれないが――特別ではなくなった。いわゆるセンセーという存在の胡散臭さがバレてしまい、物語を作る存在なんかべつに高位でもなんでもないということが知れ渡った。

 そんな時代に、小説家をやり続けることは、どんな意義を持つのか。小説の意義と運命を共にする小説家という存在に、だれがなにを求め、だれがなにを託すのだろうか。

 晴耕雨読が人間の本来のありかたである、とまでは言わないけれど、小説家はなにをやり出すことができるのだろうか。しかも名前の挙がらない新人として。

 解凍されても消えない情熱をもって、ぼくは書き続けることができるだろうか。