「趣味:天体観測」ではなくなったけど


 職場に天文学科卒の同僚がいて、その子と飲みに行けば、延々そらのことを教えてくれるわけです。赤外線での観測は可視光線より面倒くさいだとか、宇宙にも地震があるだとか、太陽写真像のデジタル化のやりかただとか、ガンマ線バーストの謎だとか。
 どうして研究をやめてうちの会社に入ったのかを面接官よろしく聞いてみれば、銀河団の研究をしているときにちがうなって気づいた、とせつなそうに答えました。銀河団のなかで群れている銀河がどのように成長してゆくのか、そういったことを研究しようと院試の勉強をしているときに、じぶんのやりたかったことはぜんぜんちがうんだと気づいたらしいのです。「そらを見るときに公益性とか考えたくない」ということばが僕の心臓を重くしました。
 僕の幼馴染みは、僕と幼馴染む前から、宇宙飛行士になりたがっていました。小学生のとき、ふたりで星座について知っていることを言い合ったり、うっかりプラネタリウムで恋に落ちそうになったり、というのは冗談ですが、そんな彼女も中学に上がって宇宙飛行士の夢を断念します。背が低かったから。
 それでどうするのかって聞くと、「携わっていたい」と言います。当時、タズサワルがどういう意味なのかわからなかった僕は、その意味を高校生になって理解します。なんせ彼女の成績表はオール5の45、僕は24(体育5、音楽5、他は推して知るべし)だったわけですよ。あれから月日が経って「ひまわり」のプロジェクトに携わっていて、すごいなあとしみじみ思うわけですが、去年あたり、ひとつけじめをつけると言って、別方向に舵を切りはじめました。部屋でデプリかなんかの解析をしながら一緒に酒を飲んで、寝る間際だったかな、「良い男がいなくても、良い宙があれば、私はいいよ」と、印象的でした。
 天文学から隠居し始めた彼女たちのことばを受けて、僕は、それほど「観測」が好きではないことに気づきました。むしろ僕が好きなのは「雨月」なのかもしれないという内省が生じました。
 中秋の名月はなかなか雨で見れません。そんなときお月見の団子を月に見立てて眺める。そこに想いを籠める。僕はそういう遠さや回りくどさが好きで、知識や事実、その謎にロマンを感じているわけではありませんでした。雨月とか無月とか、見えないときの月、観測できない天体、--「風流的」と言えば誠に格好がつくかもしれませんが――そういったものに心をあてがうことに美しさを感じているようです。
 じゃあ「趣味:天体観測」はなんだったのかと言えば、もちろんバンプオブチキンの影響ではなく、だれかと天体観測という口実で星や月を見に行くのが好きなんだと思います。遠い星に願う、月に想う、その馳せた感情も気分もぜんぶ、その空間で交差する。「明かりもない道を/バカみたいにはしゃいで歩いた/抱え込んだ孤独や不安に/押しつぶされないように」。孤独も不安も、希望も感動も、理想も現実も、キミとボクのぜんぶの気持ちがことばを介さず交わって、輝く夜空の天井に散ってゆく。そういう経験のことを「趣味:天体観測」と呼んでいたのだと思います。
 天体観測をして、その圧倒的な星空にことばが出なくて、戦場ヶ原ひたぎに「語彙が足りないわね」(ep.12)と言われても、そこではありえないほどの、つまり「観測できないほどの」気持ちが互いに向けて飛び交っているのです。
 僕は、それがいい。マイナス270度にしないと使えない観測器材ではなくて、ハイパーノバの謎ではなくて、エウロパへの探索ではなくて、来年の中秋の名月は! 恋人と! 「地球の丸く見える丘展望館」で! 天体観測がしたい!!!

おわる。しーゆーれーらー