「私が正しくて、あなたが正しくない話なんですけれど、大事なことなんで聞いてください」――そんな話を誰が聞く? あるいは近視眼的な啓蒙活動と対話の場を劈くこと

 

※本稿は、これの続きのようなものです。 

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 世の中には、「正しい情報・知識」を広めたい、という欲求を持て余しているひとたちがいます。私の興じている哲学も例にもれず、「俺のほうが真理に近づいたぜ~」という感じです。そして真理に近い(と思い込んでいる)ひとたちによって、真理のバザーが行われます。ここではそれを「啓蒙」と呼びましょう。

 啓蒙活動において、「私の啓蒙したい相手は啓蒙されるべきか」という問いを不問に付します。逆に言えば、バカを見つけ次第、正しいことを教えてやるというブルドーザー的な手法で、清掃してゆくのが基本だと言えるでしょう。そのために消費するものは、ありったけの良心です。
 ありったけの良心をベットし、「私が正しくて、あたなが正しくない話なんですけれど、大事なことなんで聞いてください」とコールします。仏陀がやってようやく許される(聞いてもらえる)レベルのひとりよがりを、良心の過剰性に合わせてスタートする無垢な啓蒙家が少なくありません。
 残念ながら、どんなに正しい知識を持っていても、どれほど正しいスタンスで語りかけ始めても、「私が正しくて、あたなが正しくない話をします。感情的にならないでください」という病的な正義に耳を傾けるひとはいないでしょう。あるとすれば、やはり信者と呼ばれる輩です。もちろんここで「いやいやそれは〈理解者〉だ」とか「なにを言う、どう見ても〈信者〉だろう」と、概念の器を奪い合ってもしかたないのですが。
 もし「啓蒙家の責任」なるものを想定してよいのなら、私は、「じぶんが正しいと思い込むのをいつだってやめられるように準備しておくこと」だと存じます。啓蒙活動している以上、思い込むな、というのは無理ですから、思い込むのをいつだって自力でやめられるようにしておくことが大事だと思います。
 これを「変更可能性」と呼びましょう。
 たとえば、生物学や環境倫理学などでアカデミックに正しいとされたことを、私たちは鵜呑みにしてしまうことがあります。「だって有力な学説でこうだから」「だってデータでこうだから」という話しかたをしてしまいます。でもそれは「信じられている学説」であり、「信じられているデータ」でしかなく、乱暴に申せば「流行っているだけ」のものです。
 それらがどんなに絶対正しそうに見えても、絶対に正しいかどうかは決められない。もし絶対に正しいなら、もうその研究は終わってしまいます。その研究がまだ続いているのなら、いつだって変更可能性にさらされているべきでしょう。
 啓蒙をするうえで、じぶんの正しさに自信を持つことも大事ではあると思います。なんでもないひとが覚えたてのセリフを読むように「金儲けの方法はいくらでもあるけれど、お金持ちになってなにがしたいわけ?」と言ってもあまり響かないけれど、金がすべてだというスタンスで生き抜いてきた堀江貴文がそれを言うからこそ、興味をひかれるし、こちらもちょっとは考えざるをえなくなるものです。
 私の敬愛する活動家さかなくんは、(もちろん多忙な彼のスケジュールをすべて追ったわけではないが)私の見る限りでは「啓蒙」を捨てています。かといって「伝える」という目的を忘れて芸能活動に酔いしれているわけでもありません。わかりやすく一般化してみると、

 

ごくふつうの啓蒙家:「私が正しくて、あなたが正しくない話をしますが、あなたにとっても大事なことなので聞いてください。なんで聞いてくれないんですか。こういうデータがあります。こういう事実があります。生態系が…。外来種が…。絶滅危惧種が…。飼い主の責任が…。感情的にならないでください。議論で戦いましょう。」

 

さかなくん:「見て見て!さかな!生きてるさかなだね!見たことあるような気がするけれど、なんていうさかななのかな。ぎょぎょぎょ!すっごく速い!色は地味だけど、泳ぎは速くてかわいいお顔をしているね!尾びれが○本、だいたいこの部分で呼吸しているんだよ。実はこのさかな、日本にしかいないさかなで、貴重なんだって。ぎょぎょー!でもちがうさかなに食べられちゃってこのままだといなくなっちゃうんだって。弱肉強食の世界だけど、いま知ったこのさかながもう見られなくなったら寂しいな。」

 

こんな感じになるでしょうか。もちろん私の贔屓目も含まれているので話半分でよいのですが、さかなくんはできるだけ専門用語を避けたり、あえて専門用語を提供したり、自由自在です。どんなときに使うべきで、どんなときに避けるべきなのか、考えて考えて、配慮して配慮して、慎重にやっているのがわかると思います。
 それ以上に大事なこととして「見る/見せる/見てもらう」ことを大事にしているひとだということです。とにかくさかなを見せて、「こんなさかないるんだ」ぐらいの、ともしび程度の興味でもいいから持ってもらって、「いなくなったら寂しいね」とほんとうにさみしそうにします。
 だれが悪い(たとえば「外来種を放った飼い主が悪い」)とかは言いません。たくさん勉強して、たくさん活動しているからこそ、だれが悪いというのを一様に決めつけることができないとわかっているのです。だからこそ、寂しそうにしているさかなくんを見て、そんな気持ちになるひとがいるんだな、と伝わってきます。
 もっと極端にいえば、さかなくんは存在を賭けて活動しています。その賭けられたものを目の当たりにして、無関心だったひとも、ぐいっとひきつけられてゆく。麻雀ではないけれど、賭けることで場が開かれてゆく。その賭けを賭けに見せないあのキャラクターも、私は好きです。
 「議論を戦わせるだけの」啓蒙を見て、さかなくんはなにを思うのだろうか、と私は自問します。その自問、そのためらい、その保留さえあれば、「私が正しくて、あなたが正しくない話を聞け」なんてこと、要求しなくなると思うんです。だって、絶対にそんな話ききたくない。
 「生態系」って正しい概念なんだろうか。「環境」って正しい概念なんだろうか。「外来種」って正しい概念なんだろうか。タナゴとアリゲーターガーは、どうして異なるんだろう。イルカってなんだっけ。クジラってなんだっけ。それらを決めているのって、どんな主体なんだろう。その主体はなんで決めていいことになっているんだろう。決めたおかげで受けている恩恵、決めたせいで損なわれているもの、それぞれどんなものがあったっけ。飼い主ってだれのことだろう。責任って明確なんだっけ。それを決めているひとって、いつだって正しいんだっけ。
 もちろん、そんな初歩的なことを問い続けていたら、リアルタイムな世界でなにもできなくなってしまいます。だからいつでも私たちは保留的な存在で、宙づりがお似合いなのでしょう。シロクロつけるのも大事なことですし、グレーであるのも大事なことです。
 肝心なことは、グレーな場にこそ、対話があるということ。「べつにそのさかながいなくなってもじぶんは寂しくないんだけれど、そこに存在を賭けているひとがすごく寂しそうにしている」というどっちつかずな灰色の気分が、対話の始まる地点であるということ。
 その「対話の場」を愛せないひとに、啓蒙なんて無理なんじゃないのかなって、どうしても思ってしまいます。
 外来種が悪だと思っているなら、なおさらフレッド=ピアス『外来種は悪か?』を読まなければならないし、そこに書いてあることにいちいち反論して自説を強化するのではなく、もしかしたらそうかもしれないとためらってみたり、あるいはもっと発展させて「そもそも生態系と言っていたけれど、人間がいて、動物がいて、植物がいて、菌類がいて、細菌がいて……その全体はなにひとつわかっていないのに、そのなかのひとつの要素でしかない外来種を抜き出して考えたところでなにもわかっていないのとおなじなんじゃないか」とスマートに後退してみせることも大事です。
 ほかにも「人間が生態系を乱しているのだから自然の状態を保つのが道理だ」という一見正しそうな信条があったとして、そこに出てくる「乱している」とか「保つ」といったことは、どういうことなのか、ほんとうに乱していて、ほんとうに保てているのか、それが善いのはなぜなのか、道理だからなぜやるべきなのか、あらゆる問題は不問にされたまま、放棄されています。
 だれも対話しません。
 自分勝手な信条を振りかざして、どっちのほうが正義だったかミニゲームをしているだけのようにしか見えません。そのミニゲームに勝つために〈理解者=信者〉を増やすのが自己目的化していて、ネット上の啓蒙活動はどこまでいっても不躾なままの印象です。
 対話できない私たち自身の幼稚さを、「ツイッターは議論に向いていないから」などどとツールのせいにして内省できないままでは、なににもならない。「飼い主の責任」を呼びかける前に、近視眼的になりがちな「活動家の責任」を考え直すべきではないか、と、私は思うのです。

 

おわり。しーゆーれーらー