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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

動物愛護活動家がじぶんのエゴに無自覚なことによって、動物愛護活動自体が周りに馬鹿にされるのって、もったいなくないですか

※以下の記事は[20160517]の再掲載です。

 

 飼い主に責任があるように、じつは、動物愛護活動家にも責任があります。それは「動物愛護活動をエゴで汚さないこと」です。動物を捨てるひともいれば、動物を保護(愛護)するひともいます。それはとても当たり前のように思えますが、まずはそれが「当たり前に思える」ことから考えてみましょう。

 なぜ動物を捨てるのが当たり前に思えるのか――私たちは動物をかなりの割合で好きなように扱えると思っているからです。腹減ったら動物を食うし、暇とスペースがあれば飼うし、人間とはちがう生き物として研究したり、剥製にしたり、わざと工夫して繁殖させたり、繁殖を遮ったり、遺伝子を操作したり、新薬をぶちこんでみたり、それはさまざまです。とにかく動物を好きなように扱い、その恩恵を直接・間接を問わず受けてきたわけです。これは動物愛護のひとたちも否定できないところでしょう。

 なぜ動物を拾ったり愛護したりするのが当たり前に思えるのか――これも、実は同じ理由で、動物をかなりの割合で好きなように扱えると思っているからです。特に愛護されやすい動物は、犬、猫、イルカあたりですが、ここには教科書や絵本、児童文学などにおける「ストーリー」があります。犬と猫とイルカが、どうも人間と長い年月、長い歴史をともにしてきたらしい、なんて可愛らしいんだ、という動機があるということです。逆に人間に害をもたらすと言われている動物は、保護されにくいです。

 ここで「保護されやすい/されにくい」という概念が登場しますが、それを区別しているものとはなんでしょうか。人間のさじ加減ですよね。感情であったり、エゴであったり、単純に人間が保護しやすいかどうかという都合も混じっているでしょう。「基本的に食用」という認識があれば、その動物は保護を受けにくいでしょうし、「見た目が気持ち悪い」という認識があれば、同じく保護されにくいと言えます。このあたりも動物愛護のひとたちの理解を得られるところだと感じます。

 人間である以上、「動物を好きにできる」という前提のもと、食うこともあれば、研究することもあり、飼うこともあれば、実験に使うこともあり、捨てることもあれば、愛護することもある――ということがわかると思います。人間のエゴが大前提にあると私は思います。ここは本来、どの言説にも共通していなければならないであろう根幹だと理解しております。

 人間のエゴ、つまり「動物を好きなようにできるし、そうする」という前提があるので、動物愛護というのは極めて困難なことだと思います。動物愛護なんて「できない」と言い切ってもおかしくないほど、人間は動物を好きにするんですね。「長年連れ添ってきた子なの」と愛着を紹介してくれたひとに、「じゃあその犬はあなたに対してどれほどの我慢をしてきたか教えてください」と言っても教えてはくれないでしょう。犬にどんなに愛着があっても、犬がどれほど我慢してきてくれたかなんてわかりっこないわけです。人間は「その隙をついて」、犬を決めつけます。犬の自己表現を、あらゆる都合のいい認識に置き換え、それを真実だと思い込むのが飼い主という存在の暴力性です。

 それは、動物愛護活動家も同じです。「殺処分よりも保護のほうが優しい」というのは、動物側の意見ではなく、あろうことか人間側の価値観です。「ペットを捨てるのは無責任だ」も人間側の価値観で、「無責任な飼い主は減るべきだ」も、「ペットショップからではなく保健所から引き取るひとが理解のある優れたひとだ」も、どれもこれも人間が「動物が自己表現してこない隙をついて」勝手に作り上げたものです。その価値観を共有している人間が多いから、あたかもそれが真実であるかのように思われますが、猫はニャーとしか言わないし、犬はワンとしか言いません。鳥もピーだのポーだの言うだけで、うさぎもうんこするだけです。

 動物愛護活動家の責任というのは、「動物愛護活動をエゴで汚さないこと」と記しましたが、現状ではエゴまみれであるとわかると思います。見渡せば「なんて日本は優しくないんだ! ザンネン!」などと、じぶんは優しい人間であるというアピールをする動物愛護活動家をすぐに見つけることができるでしょう。優しいか優しくないかの基準を作ってるのはじぶんなんですから、じぶんが優しい側になるのは当たり前のことで、関係ない周りからすれば「こいつは馬鹿か? こんなやつが動物愛護とか言ってるの? しょうーもな」となってしまうわけですね。

 そう周りに思われることは、動物愛護活動にとって有利なことですか、それとも不利なことですか。エゴ丸出しなのに、それを自己言及せず、他人のエゴを摘発して、「俺ってなんて優しい人間なんだ」と悦に浸っている動物愛護活動家の存在は、動物愛護活動にとってメリットでしょうか、デメリットでしょうか。

 動物愛護の活動は、ストレスが溜まります。ペットショップで買った飼い主が全員アホに見えて、不信になって、慌てて啓蒙するけど真剣味なんて感じてくれなくて、保健所の現状を知っている日本人なんて7人に1人いればいいほうで、それでも動物ブームだの、愛猫家だの愛犬家だのを自称する馬鹿がいて、そういうのが本当に嫌に見えてくるのが、動物愛護の活動というものです。本当は自分もそのエゴの渦中にいるのに、それを棚にあげて、日本はなんて馬鹿の多い国なんだと思えてきてしまうのが、動物愛護というスローガンの強力さです。これはとてもストレスの溜まるものなんですね。

 ストレスも溜まれば、自己肯定もしたくなる。他人の無責任を摘発したくもなる。それがいまの動物愛護活動家たちの、やってしまっていることであり、無責任なところです。無責任な飼い主を摘発してストレス発散している無責任な動物愛護活動家、ということです。みんな無責任。動物愛護の限界です。

 動物愛護活動家は、自己言及するべきである――というのが、私の見識です。愛護愛護言っておきながら、じぶんも実はエゴでやっている、ということを自己言及するべきです。その上で、目指しているものを誠実に語ればいいし、お互いの越権行為を監視すればいい。動物愛護は偉くて、ペットショップは偉くない、みたいなダサい構図を捨てて、動物に関するあらゆる環境の、あらゆる人間のエゴの、あらゆる問題に、動物愛護のエゴ的な前提をなしにして向き合うべきだと思います。

 動物愛護活動家がじぶんのエゴに無自覚なことによって、動物愛護活動自体が周りに馬鹿にされるのって、もったいなくないですか。