ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

140字小説レビュー:「雨谷ハル」を変奏する――物語に「こくご」を宿す作家

・まえがき――雨谷ハルを変奏する

 

 納期が近づけば、ひとりあたりの負担が増えて、おのずとみんなで残業する羽目になる。ぼくと女の子三人、休憩室の代わりにもならない狭い給湯室でひとりの子が世論を言った。
 はあ、残業ってやだね。よく覚えていないけれど、どうせそんなような内容で、世論は給湯室で呼応して、だよね、とだれかが、みっともない反響音をつくった。
 このまま、管理職の、あの声とプライドの高いひとの陰口になるのかと思えば、世論から余った子が口走る。
 これは延長戦なんだよ。バカなクライアントのために不必要な残業を強いられて、気持ちが滅入って滅入ってほろびてしまいそうだっていうのに、この子は確信めいた口調で言い切った。
 笑われる。あたりまえ。世論からズレたことばは、笑われるしかない。
 むかし、小学生のころに、こくごの授業で、『火』と言えばなんだという話になった。みんなこども新聞でも読んでいるのかと思ってしまうほど、火について詳しかった。
 火はサンソが必要だとか、ニサンカタンソが出るだとか、青色の炎がアンテイテキだとか、ちびっこ博士がカガクテキな知識を競い合い、先生がうんうんと静観していたとき、ひとりの男子が挙手をしてから、みんなとは異なることを言った。
 火は燃えます。クラスの、きっと全員がまとめて笑ったにちがいなくて、先生だけが笑いもせず怒りもせず、いきなり大人びたことを言い出した。
 そういえば、こくごの時間だったわね。こくごの定義なんてわからないし、こくごの先生であっても自己規定できやしないだろう。それでも、あの瞬間だけ、ぼくはこくごというものを知ったような気になれた。
 サンソじゃなくて、ニサンカタンソじゃなくて、アンテイテキな火加減じゃなくて、火は燃える、たったそれだけのことにたどりつくために、そのものを表現しようとするのがこくごであり、ぼくらは、彼なしでは、あの時間をこくごにすることはできなかった。
 ぼくの知っているこくご、ぼくの表現の原体験は、あの授業にあった。あるいは定時を過ぎたあとの給湯室にあった。そして、それをふたたび、えらく純度の高い形で発見できたのが、今日レビューをやらせてもらう「雨谷ハル」(@_amgyhar_)の作品である。前置きが長くなったけれど、雨谷ハルおよび雨谷ハルの140字小説をぼくなりに解釈してゆく。
 多作なのでどれを選ぶか迷ったが、代表作の「君と描く星空」、勝負作の「一週間の恋」、それともうひとつ「暑くて熱いふたり」をやろうと思う。いきなりこんなこと言うとあれかもしれないが、二〇〇近くあるのではないかと思われる雨谷ハルの作品群のなかで、ぼく個人が気に入っているのは七作品――「無限大の紙の上」「それは始まりのブランコだった」「時を廻る僕ら」「2016年の電車」「うたう」 「向日葵の咲く日まで」 「暑くて熱いふたり」――しかない。そうなってくると「作家推し」ではないと思われるのがふつうだが、私はまちがいなく作家推しである。
 雨谷ハルは、物語に「こくご」を宿す。それは、乙に澄ました「国語」なんかではなく、だれもが通ってすぐに忘れた「こくご」だろう。こくごとは、表現における最も基本的な欲求である。こくごのない文章は、――どれだけ正確な言語運用だろうと、どれだけ飾りのついた言い回しだろうと、どれだけ気の利いた語順に並べ替えられていたとしても――味わうに値しない。
 かつてベンヤミンは、「物語」(Eine Erzählung)と「小説」(der Roman)を区別した。物語というのは、農村で教会で列車で、肉声によって「語られる」(erzählt)ストーリーであり、小説というのは寂寥のなかの個人(das Individuum in seiner Einsamkeit)によって生み出され、 人間生活の描写を通じて、通分不可能なものを究極的なものにする(das Inkommensurable auf die Spitze treiben)ものである。つまり、物語というのはひとに話す/ひとから聞くものであり、過去と現在をつなぐおおきなおおきな接線であり、語り部としてのストーリーテラーを必要とする。小説というのは、ひとりで書物で読むもので、「孤独/寂寥」(Einsamkeit)を突き詰めた先にある人間の寄る辺なさを体験するものだと言える。
 雨谷ハルの140字小説のほとんどは――良いとか悪いとかはなしにして――「物語」を目指されて作られている。むしろ作風は「歌詞」に近いとさえ思える。歌うようにして書いている、というのが文体の深浅から窺える。もちろん物語と歌詞と小説の明確な境目などないし、よく読めば〈小説-物語定義論争だけでは済まないもの〉が宿されている。それが「こくご」という欲求である。
 もっとはっきり言えば、雨谷ハルの140字小説は、"物語"に「こくご」を宿し、変調させることによってできた"小説"なのだ。まずは代表作「君と描く星空」を引用する。作家推しと宣言したが、(油断すると褒めちぎって終わってしまうので)できるだけ辛口を意識した感想レビューにしたいと思う。

 

 

・君と描く星空 [2016年1月8日 107いいね 18RT]

僕が教室の隅に飾った花を君が眺めていたり、君が音楽室の机にした落書きを見て僕が笑っていたり、知らないところで僕らはきっと今日までつながっていた。全部の点をつなぎ合わせたら夜空に浮かぶ星座みたいにひとつの大きな絵になって、それが今一緒に下校している僕らの後ろ姿だったりするんだろう。 

 これが代表作――代表格の作品をご本人に確認済み――というのは、すぐにうなずけた。雨谷ハルの作品群のみならず、140字小説を完結の状態にもってゆくのはむずかしいが、この作品は静的に完結している。 「花(君)」「落書き(僕)」「星座(後ろ姿)」「下校(僕ら)」という四枚の写真が、ツイッター的にアップロードされた印象だった。四枚のうち一枚でも気に入ったものがあれば「いいね」をもらえる、そういうまとめ売り的な文体となっているのでファボりやすくなっている(ただ写真とちがって、文章は明確な「継ぎ目」を持つ。その処理が間に合わなかったのか、練ることを諦めたのか、やや粗さも残している)。

 また、雨谷ハルは恋愛をモティーフにした作品をおおく作っているため、それをわかっている読者にとって、この作品は恋愛ものとして読まれやすいだろう。それだけで充分に共感を得やすいのだけれど、多用しがちで抽象度の高い「君/僕」がここではいい方向に働いており、読むひとの気分によっては――というかぼくはこっちで読んだのだが――「友だち(校友)」の話としてもよく読める。この懐の深さが、ほかの作品と異なる。端的に言って、〈僕〉と〈君〉を想像したくなる。
 作品は、「ダイジェスト回想+結論めいた推定」で構成されており、どうも140字小説では流行っている手法のひとつらしい。 「今一緒に下校している僕ら」のつじつまを合わせるための回想(的な妄想)が書かれ、その接線(接点)を星座にリンクさせることで文章を視覚的に変換して、そのまま「後ろ姿」と「下校」をわかりやすく想像させる。
 写真的な文章で共感を得るには、(良くも悪くも)ビジュアルへの訴えかけでどれだけ強力な単語――選べば勝てるチート語彙――を選べるかにかかっている。字数制限のなかでは「星座」を出すしかなかったのかもしれないが、みんなが大好きな「視覚イメージ」を安易に使うのは個人的にあまり好きではない。
 それは小説全般において言えることで、「主人公は孤独だった」という地の文があったら、ぼくは興ざめしてしまう。「孤独だった」を作家のフィルターで再表現するから――あるいはその熱量があるから――「小説」なんじゃないのか、と思ってしまう。「夜空」「星空」関連の視覚イメージは、「死んだ」「孤独だった」という状況イメージとおなじくらい強制的なものなので、瞬間的に聞き心地がいいだけで、実は小説には向いていないのではないかと思う。(言うまでもなく、その強制イメージを活用するテクニックにおいてはこの限りではない)
 おそらく制服姿の学生ふたりが、下校風景に融和してゆき、それを〈僕〉のメタ的な視点が写真する。写真を介在することで風景から光景に変わってゆき、そのひとつひとつのシーンをさかのぼる。星座の「点」(stella)をめぐる旅のように。僕らのつながりはステラである――人類の歴史で最初に星をみあげ、記録したひとたちも考えなかったであろうミクロでマクロな旅。「あの花は、君だったのか」と「あの落書きは、君だったのか」に等しいステラの、ひどくローカルで、えらく愉快な解答用紙をひたすら交換し続ける旅。
 知らないところで僕らは今日までつながっていた。ひとつひとつの過去が、まったく異なる意味を持ち直す――あるいは〈僕ら〉自身が新たに過去を生き直す――瞬間を与え合うふたりは、〈今一緒に下校している〉ことを、このあとの人生に亘って、どのように理解してゆくのだろうか。
 この作品は静的に完結していると述べたが、それは作品内の時間が一秒も動かないからである。回想のような妄想と、後ろ姿のメタ的な解釈で終わっている。そのため140字小説としては完結しているが、読者は小説内の時間を動かしたくなる。「次」の瞬間、どんな〈僕〉はどんな表情をするのか、どんな話をするのか。それに対して〈君〉がどんなことばを返すのか。帰り道が別れる地点までに、どんな星を新たにふたりで描くのか。たった一秒にも満たない物語が、小説へとバーストする。
 表現というのは、こうでなくちゃ、と思わせる。素がべっぴんな文章なので、余計な飾りは必要ない。表現への始原的な欲求だけで書かれており、ぼくらがまだ「国語」を知らず「こくご」だけを頼りにさまざまな表現とぶつかっていたころの香りがする。
 ここからは、文章で気になったところを挙げてゆく。
 まず最初の対句(対比)の乱れが気になった。

僕が教室の隅に飾った花を君が眺めていたり、君が音楽室の机にした落書きを見て僕が笑っていたり(…)。 

 

僕が――君が/教室の隅に――音楽室の机に/飾った――した/花を――落書きを/**――見て/君が――僕が/眺めていたり――笑っていたり 

 

 対句の気分で読んでいると、どうしても「した」と「見て」でつまずく。「飾った」という一般動詞に対して、「した」という補助的な動詞は重みが合わない。なににも対応していない「見て」も読んでいて気持ちのいいところではない。もちろん「対比で書いているわけではない」とか、「変拍子だ」とか言われたら、まあそういう意匠だったのか、ということになるが、ここではどうも効果的ではないように感じる。

 これを整った対比にもってゆくには、どうしても「落書きをする」と「笑っている」がネックになる。「落書きを笑う」にすると嘲笑の感じが漂ってくるし、「落書きで笑う」にすると「花を」との呼応がゆがむ。じゃあ「落書きをする」をパラフレーズすればいいかというと、日本語は面白いもので、そんなパラフレーズ存在しない。机にする落書きというのは、青春時代の短命なアートである。これをほかのことばに取って替えることはできない、と断言できる。「いたずら書き」でもなければ、「グラフィティ」でもないし、「机上のでたらめアート」でもない。電子化でなくなってゆくかもしれないが、机の落書きは、いまのところ机の落書きでしかない。
 そうなると、重複を恐れず「君が机に書いた落書き」とするか、音数を犠牲にして「君が机に施した落書き」とするか、意味の過激さを甘受して「君が机に作った落書き」とするか、印象的に重複させて「君が机に落とした落書き」とするか、ここだけやや詩的に「君が机に敷いた落書き」とするか、対比を利用して「君が机に飾った落書き」とするか、などなかなか妥協が多くなってくる。
 対比の乱れを取り除くには、他に「(落書きを)見る」と「笑う」を同時に表現できる和語を探るか、「眺める」をふたつの一般動詞に分解するかを選択するわけだが、前者は非常にテクニカルなので、後者をやるとする。
 「眺める」の基本は「見る」にあるので、ここでも対比が活きてくる。「花を見て君が」のあとに続く動詞を決めればいい。「花を見て君が偲んだり」とか、「花を見て君が耽ったり」とか、「花を見て君が懐ったり」とか、「花を見て君が慕ったり」とか、『眺める』のぼんやりしたニュアンスをどうにか和語で表すことになる。
 これらのどれかを採用することで、どうにか「つまずき」をなくすことはできるが、その代わり、雨谷の書きたかったものを損なうかもしれない。「つなずき」と「そこない」を同時に防ぐテクニックがあるとすれば、それは〈発明〉と呼べるだろう(ぼくは「アイデア」と呼んでいるが)。
 雨谷ハルが、なぜ、「した」「見て」を選んで、対比を整えなかったのか、その意図はぼくにはわからないが、この違和感も雨谷ハルにとっては創作的ポイントなのかもしれないと思ってしまえるほど、「こくご」的な書き出しであると付け加えておきたい。
 次に気になるのが、時間の幅の表現。

(…)知らないところで僕らはきっと今日までつながっていた。
(…)それが今一緒に下校している僕らの後ろ姿だったりするんだろう。 

 この二文には時間の強調がある。「今日まで(day[s])/つながっていた(完了)」と、「今(moment)/一緒に下校している(進行形)僕ら」というふたつが書かれているが、前述のとおり、この作品は一秒も進んでいないし、〈僕〉の俯瞰から非常に静的に書かれている。それなのに「今日まで+完了形」と「今+進行形」という二軸が混在しているのは、かなり読みにくい。読めても気持ちよくない。せめて「moment→day」の流れなら包含の関係で読みやすかったが、「day→moment」とミクロになってゆくのに、星座とか夜空とか比喩はマクロに展開してゆくのが合っていなかったと感じる。

(…)知らないところで僕らはきっと今日までつながっていた。全部の点をつなぎ合わせたら夜空に浮かぶ星座みたいにひとつの大きな絵になって、(…)。 

 「僕らはつながっていた」と「点をつなぎ合わせる」というふたつの「つながる」が連続で登場するところが読んでいて単純に微妙だった。そもそも「つながる」というのは、認知言語学のなかで「導管のメタファー」と呼ばれるように比喩的な表現である。そこに「点」とか「浮かぶ」とか「星座みたいに」とか、別ベクトルの比喩が畳み掛けられていて、なにを読んでいるのかわからなくなる(ぼくの言語理解力が乏しいのも大いなる原因だが、それはいまのところ棚に上げるものとする)。それに「つながっていた」と完了させたのに、「つなぎ合わせたら」ともしも話が始まって、(語彙がおなじなので)話が転倒してしてしまっている印象も受ける。

全部の点をつなぎ合わせたら夜空に浮かぶ星座みたいにひとつの大きな絵になって、それが今一緒に下校している僕らの後ろ姿だったりするんだろう。

 タイトルは「君と描く星空」で、ここでは「夜空に浮かぶ星座みたいに(…)大きな絵」と記されていて、「後ろ姿」に描かれているのは結局なんなのかよくわからない。つまり、星空が描かれているのか、星座が描かれているのか、星座みたいに大きな絵が描かれているのか、よくわからない。

 「星座みたいに」が修飾迷子になっているため、「星座みたいにつなぎ合わせたら」なのか、「星座みたいに大きな絵」なのか、いまいちピンとこない。字数制限のむずかしさもあるし、「想像の余地を与える」ことと、「曖昧な修飾で書く」ことのあいだはきわめて僅差だが、結果としては雲泥の差になるだろう。これは曖昧な修飾であって、想像の余地ではないと感じる。

 

 

・一週間の恋 [2016年8月5日 26いいね 5RT]

人の行き交う夏祭り。誰かにぶつかって、謝ろうと振り向いた。蝶の柄の浴衣。光が透けたような髪。行く当てが無いという彼女と、打ち上がり始めた花火を眺めた。少し高めの声が、響く音と重なった。あれから一週間が経つ。去っていく君の姿を鮮明に思い出せなくなると共に、蝉の声が少なくなっていた。 

 こちらは「勝負作」と教えてくれた最近の作品。タイトルに「恋」とダイレクトで入っているあたり、「恋」を描いたことへの自信が見られる。

 構成は「回想シーン+近況報告(実況風)+風景描写(時間経過ダイジェスト)」で、メーンは回想シーンとなっている。具体的な動詞をピックアップすると、「ぶつかる」「振り向く」「眺める」「(声が)重なる」「経つ」「去る」「思い出す」「(蝉の声が)少なくなる」と八つあり、多いな、という印象。140字で動詞を八つ入れるのはなかなかむずかしい。そのため体言止め(名詞止め)を前半に三回も盛り込んでおり、これも多いと言える。
 一般に体言止めは「文章を引き締める」とプラスに語られるし、実際に俳句的な拡がり――これを詳述するのは骨が折れるので別の機会に譲るが、たとえばFUJIWARA藤本に「組体操/伸ばす指先/鰯雲」という俳句があり、ひとつひとつの名詞が風景のなかで展開されてのびてゆくのを感じることができる。短い語数を連想の効果で何倍にもするコスパのよいテクニック――がある。
 ここでは、特に拡がりはなく、単に文章を短く切るために使われているように思える。この前半の回想シーンは、(先の作品は写真的だったが)映像的で、特にPVやMVのような映像を彷彿とさせる。悪く言えば「忙しい」し、良く言えば「緊張感がある」。動詞の数はプロットの数であり、プロットを進めることに文章を割いた印象を拭えない。
 回想後の実況も、個人的にはあまり好きではない。「~すると(共に)」などの助詞(あるいは助詞を巻き込んだ副詞)による同時用法は、どうしても他者目線で、一人称に向いていない。極端な例で言えば「俺はご飯を食べようと冷蔵庫を開けた。"すると突然"冷蔵庫が変形し~。」みたいなものが挙げられる。ライトノベル作家に多い。
 「一週間の恋」は、最後にダイジェストで時間が経過する。その時間経過を担っているのが「蝉の声の量的な変化」である。もちろんなんの蝉かを書くのは、140字小説において無粋とされる行為なので、ここでは「蝉」とだけ書かれているが、おそらく鳴いているのは「少なくなっていた」時期を考えて、クマゼミアブラゼミツクツクボウシ、ヒグラシあたりのどれかだろう。クマゼミだったらこうかなとか、アブラゼミだったらこうかな、ヒグラシだったらこういう感じかな、と想像してゆくのは単純に愉しい。
 今回の回想も、つじつま合わせに使われているため、ややもったいない印象。回想は物語を論理的に正しくしてくれる代わりに、きっちりしているだけの印象も与えてしまう。推理小説みたいな特殊なジャンルは、その特性をうまく使っているけれど、一般的な小説では回想の扱いがきわめてむずかしく、プロの作家でも「都合」のために使ってしまって読者を退屈にさせてしまうことがあるほどだ。
 「あれから一週間が経つ」は、急に三人称的(ナレーションライク)で、文章も物語も断線している。こんな突然入れるくらいなら、最後のところで「この一週間で蝉の声も少なくなっていた」と描写のなかに盛り込んだほうが回想と描写の継ぎ目を保存しやすいと思われる。
 ここまで悪口ベースで書いてきたが、ぼくはこの作品をピンポイントで気に入っている。それは、名詞止めでさらりと書かれた「蝶」である。蝶というのは、卵→幼虫→さなぎ→成虫という段階的な死を何度も受け容れて美しく舞う生き物だと考えられていたことから、長寿の祈りを籠められてきた昆虫だった。それをあしらった蝶紋というのは、武士のあいだで「死」を受け容れるための象徴でもあった。つまり、ぼくの解釈では、この浴衣の女はすでに死んでいるか、祭りのあとに死んだ。あるいは祭りの行われている神社――勝手に神社だと想定して、神社――の歴史に生き続けている平安の念。それを示唆するのが「透けた髪」であり、「花火」であり、「蝉」の無常さである。
 蝶と蝉によって見事に書かれた平安時代的な生と死が、「一週間の恋」というポップ体で書かれてそうなタイトルの小説にまとめられている。そのおもしろさに読んでいて笑った。なんでひとりで夏祭りに来てるのとか、なんで不注意だったのとか、なんで仲良くなってるのとか、なんで花火が上がってるのとか、なんでそこまで急接近したくせに連絡先は交換しなかったのとか、なんで帰り道を送らなかったのとか、あまりに全体が都合よく回りすぎているけれど、それでもいいかと思えるものではあった。なるほど勝負作。

 

 

・暑くて熱いふたり [2016年7月15日 17いいね 2RT]

こんなに晴れた日なのに「DVDでも見ようか」って言うあなたに笑っちゃう。人も多いし、暑いし、いいことないもんねってお互い納得するから、もっと笑っちゃう。少しだけ日差しを我慢して、二人で歩いてレンタルショップとコンビニに行く。私の日傘にぎゅうぎゅうになって、涼しいねって馬鹿みたい。

 この作品は、ぼくのいちおし。読んでゲラゲラ。

 「饅頭こわい」みたいな古典落語を思いだす。落語には愛があって、悪いことをしたやつのことも、最後は「いい加減」で許してやる。ちょっと長いが引用する。

落語はね、この逃げちゃった奴らが主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやった方があとで楽だとわかっていても、そうはいかない。月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。 寄席にいる周りの大人をよく見てみろ。昼間からこんなところで油を売ってるなんてロクなもんじゃねェヨ。でもな、努力して皆偉くなるんなら誰も苦労はしない。努力したけど偉くならないから寄席に来てるんだ。 『落語とは人間の業の肯定である』。よく覚えておきな。教師なんてほとんど馬鹿なんだから、こんなことは教えねぇだろう。嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな。(立川談春『赤めだか』、立川談志の言)

 落語は、「ろくなもんじゃない」人間を丸めて肯定することが芸たりえることを証明してみせた。あとはその芸風の質的なちがいがあるだけで、だれにだって落語をすることはできる。
 雨谷ハルの「暑くて熱いふたり」の、最後の「馬鹿みたい」は、非常にふつうな表現で、だれにだって思いつくし、あるいはだれだって言ったことのありそうなことばだが、それをここまで落語的に、あるいは愛をもって表現するのは簡単なことではない。むしろ高度な芸を必要とする、と、ぼくは断言したい。
 「コンビニ」にも寄っちゃうところがすごくいいし、暑いのに「歩いて」行くのもかわいい。それで「涼しいねって」「馬鹿みたい」――雨谷ハルとおなじことしか言えないのが悔しいが、それでもほんとに、涼しいねって馬鹿みたい。この一行のために、この小説を何度も繰り返したくなる。
 よく「面白い短編小説は、短編では終わらない」というジョークがあるけれど、それとおなじで、面白い140字小説は、勝手に280字になるし、気づけば1400字になるし、三十回でも読めば4200字になる(ほんとうに短いので三十回読もうと思える)。原稿用紙に換算して十枚以上の物語になってしまう。
 雨谷ハルは、自身の140字小説の初心者向け講座で、

140字小説の魅力は、なんといってもその手軽さだと思っています。 私が140字小説を書いてみようと思ったきっかけも、身近なツールで手軽に自分を表現できると感じたからです。実際に書き始めてからも、思いついたことをすぐに書きとめ、公開できるところが魅力ですね。 140字小説はTwitterアカウントがあれば、どなたでも書くことができます。 また140字と短いので、早ければ数分で書く事ができます。そのため、普段文章を書かないという方でも、挑戦しやすいと思います。よく小説を書くという方であれば、思い付いたアイディアを手軽にまとめることができるのではないでしょうか。 さらに、他の方の作品を気軽に見ることができるのも魅力の一つです。そしてそれは、自分の文章を見てもらえるきっかけになるということでもあります。#140字小説というタグもありますので、使用してみてはいかがでしょうか。(蓼食う本の虫『初心者のための雨谷流140字小説講座』) 

 と語っている。ぼくは、140字小説が「手軽」だなんて口が裂けても言えないが、雨谷ハルは言い切れる。それは、雨谷ハルの表現を担保している「こくご」能力と、こういった作品によくみてとれる「何度も読ませる」芸にある。君にとって手軽なのは、君がここまで培ってきた〈それら〉があるからだよ! とキレそうになった。

 ふつう、短い作品のほうがむずかしいと作家たちは言う。短い分だけテクニックを要するからである。もちろん、文章はさほどうまくないが、テクニックと見事な発想でSSを売りまくっている田丸雅智なんかもいる。そのあたりはどこで勝負するか、ということでもあるのだろうが、むずかしいものはむずかしい。
 と、まあ、このように「その作家の芸(風)がよくわかる作品」のことを、とりあえず「発芸作」とでも呼ぼうと思う。

 

 

・残りの六作品

 代表作、勝負作、発芸作を見てきたが、きっとここで「問題作」について触れていないことに気づかれたかもしれない。探したところ、なかった。雨谷ハルに聞いてみれば、もしかしたらあるのかもしれないので、それがあったらまたこういうのを書きたいと思う。最後に、「結局、三作だけじゃ『こくご』がわからなかったなあ」というひとが多いと思うので、最初に挙げた 「無限大の紙の上」「それは始まりのブランコだった」「時を廻る僕ら」「2016年の電車」「うたう」 「向日葵の咲く日まで」 (あと「暑くて熱いふたり」)を引用して、ちいさく感想して、筆を置こうと思う。あともうすこし、お付き合い願いたい。

 

 

・無限大の紙の上 [2015年8月13日 4いいね]

ぴらりと1枚の紙。『進路希望調査』と書かれただけでどんな夢の舞台にもなる。あいつは研究者。あいつは先生。僕にはこの真っ白な紙がどこまでも深く見える。なりたいものなんてなくて、掠れた字でサラリーマンと書いた。
「無限大の夢を先生に教えてください」
担任の言った言葉が、頭の中で響く。

 まだ140字小説を名乗っていない時代の雨谷作品(ちなみに140字)。
 ほんとうに個人的な趣味を言えば、「無限大の夢を先生に与えてください」だったら、ぼくは死ぬほどもだえただろうと思う。これが「教えてください」だったから、まあふつうだなと思ってしまった。
 それはいいとして、どこを読んでも、まあふつうな感じの文章なんだけれど、この作品を読んだら「進路」について考えしまう。こんなの「あるある」として消費されて終わりだろ、と思っても、「ぴらりと」とか、「どこまでも深く」とか、「掠れた字」とか、「先生に教えてください」とか、表現への欲求が細部に宿されていて、それを読んでしまったら最後、この作品に捕まって逃げられない。

 

 

・それは始まりのブランコだった(※タイトルが付けられていないので仮) [2015年9月11日 9いいね 1RT]

それは始まりのブランコだった。
だんだんと連絡の回数も減っていたから、ここに来たときからもう終わりだと思っていた。
想像通りの言葉が聞こえる。それぐらいあなたのこと、理解してたんだ。
だけど、
「最後に、名前呼んで?」
それさえ言えない関係になってしまったから、さようならなのね。

 ブランコ感を伝える気のない感じだけど、それでも「始まりのブランコ」という比喩が好き。

 

 

・時を廻る僕ら [2015年11月18日 23いいね 4RT]

すれ違ったとき、思い出したの。あなたの空気が、触れたことあるものだったこと。それは私の遠い記憶を呼び起こした。何時のことだったか、私の名前がなんだったか、思い出せない。でも、もう一度、あなたに会いたいと思ったことだけは、鮮明に甦った。風が吹いて、あなたの髪が揺れた。影が、揺れた。

 「あなたの空気が、触れたことあるものだったこと」――これを読んだときに、ぼくは、ネットのひとでもすぐに会いに行くじぶんを改めて理解した。そのひとの感じている世界を、じぶんもおなじ空間で触れてみたい、という気持ちに駆られて会いに行く。意味はおなじではないだろうが、そんなぼくの「空間」への情動が表現されている気がして一気に好きになった。
 こくごは原初的な表現への欲求と言ったが、この作品も、じぶんの名前さえ思い出せない〈私〉の素朴な記憶への欲求を描いており、雨谷ハルの「こくご」を感じるにはもってこいの作品だと思う。

 

 

・2016年の電車 [2016年1月5日 17いいね 2RT]

会社帰りの電車に乗り込む。中吊り広告を眺めていたら、立っている人と目があった。特に用事はないけれど、スマホに目をやっておくのがいい気がした。ちらりと周りを見てみると、やっぱりみんな下を向いていて、前を向くのも躊躇われるような。隣の人の世界を埋める音楽が、電車の音を掻き消していく。

 冒頭でベンヤミンの「小説-物語」論を援用したが、これは雨谷ハルの作品群のなかで小説に偏重しているレアな作品だろう。特に最後の「隣の人の世界を埋める音楽が、電車の音を掻き消していく」という表現に、痺れずにはいられない。

 

 

・うたう [2016年2月25日 15いいね 4RT]

口から溢れ出た言葉は落ちていく途中で音になって、拍子になって、色が付いて、漂っていった。今まで私の周りに溜まり続けてきた灰色の塊も、軽く浮いて透き通っていく。長い髪で見えないように遮断した外の世界の、すぐそこに立つ男が私の言葉で遊んでいる。顔を上げたら負けだ、そんな気がしていた。

 ここまでくると、ほんとうに言うことはないとさえ思える。
 「すぐそこに立つ男が私の言葉で遊んでいる」。この表現で語れる世界の範囲を、ぼくは有していない。つまり「見せつけられた」ような気がして、とても悔しい。悔しくて気持ちいい。歌詞と小説をシームレスにする見事な表現、見事な「こくご」である。

 

 

・向日葵の咲く日まで [2016年3月3日 25いいね 2RT]

私が息をするように、いや、息をする度に死に近付いていること、あなたはまだ気付いていない。取り込まれた酸素が、体の奥深くに根付いた種を育てて、最後には向日葵が口から突き抜けて咲く。それがいつかは分からないけれど、最後まで見ていてくれる?一瞬の満開を越えて、花弁が落ちるそのときまで。

 「君/僕」の非日常的な関係性をわざわざ持ちださなくとも、雨谷ハルは140字の世界でここまで表現できる。その芸や技量、また表現への素朴な熱意、原初的な欲求を味わってほしくて、この六作品を引用した。この「向日葵の咲く日まで」にも、「向日葵が口から突き抜けて咲く」「一瞬の満開を越えて」など、強度の高い表現が出揃っている。

 

 

・まとめ

 以上の九作品のように、表現が作家の「こくご」によって保証されている場合、140字小説は、小説として読むことができる。雨谷ハルは、それを教えてくれる「こくごの先生」のような作家である。もっと言えば、140字小説を全否定したくなる気持ちを、作品によってストップさせてくれる可能態でもある。

 つまり、ぼくにとって雨谷ハルは、「耐えられる存在」になれる魔法をかけてくれる、いとしいこくごな存在だ、ということである。

  最初は1,000字で終わらせるつもりだったが、引用を含めて13,000字を超えてしまった。こんなに長いラブレターを書いたのは、生まれてはじめてだと思う。

 

おわり。

 

しーゆーれーらー