読んだ本の一覧(2017/01/29~)

 目指すところは恩田陸さんの「年間300冊」です。映画や漫画も含む甘い設定でゆきます。《ルール:ひとりの作家として読むこと》。リンクがないのは、近々読む予定・読み途中・書き途中のいずれかです。そのうちリンクがつきます。落ち着いたころに読書論も書きます。誤字脱字・内容誤りなど発見されましたらご一報くださいませ。ネタバレあり+個人の感想です(言い訳)。


小説

恩田陸夜のピクニック
恒川光太郎『雷の季節の終わりに』
中村航『あのとき始まったことのすべて』
野崎まど野崎まど劇場』
野崎まど野崎まど劇場(笑)』
保坂和志『プレーンソング』
三崎亜記『となり町戦争』
山田詠美
風葬の教室
ピエール・ルメートルその女アレックス
マルキ・ド・サド『美徳の不幸』


ビジネス・実用

田村智子『同時通訳が頭の中で一瞬でやっている英訳術リプロセシング』
読書猿
アイデア大全
二村ヒトシ『恋とセックスで幸せになる秘密』


人文・芸術

岩淵達治『ブレヒト
上田三四二『うつしみ』
宇野邦一「家の復活」
宇野邦一「破局と渦」
沖森卓也『日本の漢字1600年の歴史』
菅原千代志アーミッシュへの旅 私たちのなくした世界
外山滋比古『ことば点描』
西田幾多郎『場所』
保坂幸博『ソクラテスはなぜ裁かれたか』
鷲田清一「遇うということ」
鷲田清一「享けるということ」
エマニュエル・レヴィナス困難な自由
ガストン・バシュラール『空間の詩学


サイエンス

斎藤環人間にとって健康とは何か
佐々木正人『知性はどこに生まれるか』
田中美穂『苔とあるく』
藤本大三郎『タンパク質とは何か』
大谷・小島『炭素 微生物と水環境をめぐって』
アン・ウィルソン・シェフ『嗜癖する社会』
コンラート・ローレンツ『攻撃』


エッセイ

幸田文包む
畠山健二『下町呑んだくれグルメ道』


詩歌

石垣りん石垣りん詩集』
東直子
東直子集


絵本・児童文学

にしのあきひろ『えんとつ町のプペル


映画

片渕須直・こうの史代この世界の片隅に


漫画

あらたまい『巴マミの平凡な日常〈1〉』
おかざき真里『友だち以上』
きづきあきら+サトウナンキ『コバちゃん開発日誌』
キドジロウヒトリアソビ
しろ『ヤマノススメ〈1〉』
阿部共実ちーちゃんはちょっと足りない
岡田あーみんお父さんは心配症〈1〉』
岡田あーみん『こいつら100%伝説〈1〉』
九井諒子
竜の学校は山の上
BoichiHOTEL
TAGRO変ゼミ〈1〉』


同人誌

九大短歌会『九大短歌』


物語論・作家論・創作論

大塚英志『物語の体操』
小川洋子小川洋子対話集』
週刊朝日『私の文章修業』
野家啓一『物語の哲学 柳田国男と歴史の発見』
保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』


ルポ・その他

金水敏『〈役割語〉小辞典』
森達也
いのちの食べかた


【うまく感想が言えなかった作品・参考文献で読んだもの】
野中涼『文学の用語』
宵町めめ『コトコノコトノハ』
ジリボン『不気味な笑い』
フィリップ・アリエス『死と歴史』

フロイト『不気味なもの』
ベルクソン『笑い』
メトカーフ+ハンティントン『死の儀礼
レイブル『人間にとって顔とは何か』

カラオケは作家のストレス発散なりえるか

 ぼくはよく歌う。カラオケではなく、部屋や公園でアコギを、あるいは無伴奏で唐突に。なぜ歌うのかという問いを人類学的に答えようと思えば、エスキモーの例にならって危機回避なのかもしれないが、ぼくの場合はおそらくちがう。
 大事なのは、ことばを何度も吐き出すことである。歌うときというのは、ことばが蓄積しているときであって、陽気なときではない(よく誤解させてしまう――だが陽気かつことばを吐きたいという場合もある)。もちろん具体的な計算をするためにひとりごとをぶつぶつ吐いているときもあるが、そうじゃなくて、もっと抽象化されたイメージが、『テトリス』のように、時間ごとに、積み重なってゆき、ゲームオーバーになるときがある。そうなるまえに、クリップボードをフラットにしないといけない。〈rm-r〉コマンドをぶちこんで、〈ことば〉のディレクトリツリーを削除していかなければ、思考回路がやられてしまう。善き対症法かわからないが、だから、歌うのである。
 だが「よく知っている楽曲」では過剰歌唱となる。あやふやな歌詞でしか歌えないような楽曲を、まるでよく知っている楽曲のように歌うのがちょうどよい。耳馴染みだけがある楽曲というのは、とても貴重である。BUMP OF CHICKENの『車輪の唄』をまるまる歌ってしまうのは最悪で、感情も入ってしまうし、ことばも放流しすぎてしまって、歌い終わってすっからかんになる。
 もちろんストレス発散という観点からすれば、それが最大目的のような気もするが、ぼくがストレスを抱えているときはだいたい「ものを書いているとき」なので、やり過ぎるとまったく書けなくなってしまって余計にストレスになってしまう。
 そんなわけで「カラオケ」というのは非常に苦手なもので、いや、それ自体が苦手というわけではなくタイミングをはかるのが非常にむずかしい。すくなくとも(1)なにかしら歌わなければいけないし、(2)歌える楽曲を選ばねばならないのであって、これはかなり厄介な調節を必要とする。ただカラオケは他者が歌う歌詞が代理的にインプットされるので、それさえうまくいけばすべてがちょうどよくもなる。同席のひとが歌う楽曲は選べないから、そこはギャンブルになるのだけれど、そういう意味合いでカラオケはいつも緊張する(ちゃんと歌える楽曲がないという通常の恥じらいも加算で)
 ぼくはよく歌うし、ぶつぶつ言うし、マシンガントークをする。それはほとんど病的な様相なのだが、いつもみなさん個性として受け容れてくれて、ほんとうに感謝してもしきれない。もっと気軽にカラオケに行くことを選択できれば、ぼくのこの奇癖もなくなるのだろうけれど、カラオケはいつも心境の断崖にある。カラオケはいつもチャレンジングである。それでも楽しいから、誘われれば絶対に行くのだけれど。

 

キドジロウ『ヒトリアソビ』

 ぼくらはだれでも《あの頃》という大小の過去をもっている。それは抽象化されてしまった「家」(Heim)であり、その具体なき家に傷つけられること(weh)でもある。もう〈そこ〉に還ることはできないのに、美化された〈そこ〉は私を傷つけてくる。
 「そんな過去なかったんだ」という取り消したい気持ちを悔恨と呼び、「それは過ぎ去ったことだ」という逆行できない気持ちを哀惜と呼ぶ。この矛盾するふたつの気持ちが「郷愁」を生むのだとジャンケレヴィッチは言った。
 そんな矛盾は日常性に回収されゆくし、「いまの能力のまま中学校に戻りたいなあ」と現実逃避している分には問題ないのだが、べつの、予期せぬことがきっかけで〈あの頃〉に戻ってしまうこともある。
 二十六歳・会社員の「セイジ」は、高校のときに好きだった「さや」を妄想のなかで犯し続けていた。自慰行為をするときはいつも「さや」を妄想の世界に呼び出す――十年間もずっと。だからセイジはアダルトビデオを視聴しないし、きっと女優の顔も名前も知らないのだろう。
 それは《十八禁》(R-18)という通過儀礼をうけるまでの男子の(もしかしたら女子にもあるのかもしれないがぼくは知らないので性差別の意図はなく単に男子の)フツーの原状である。つまり好きな子・気になる子を妄想して自慰行為におよぶのは、「あるある」とも言える。
 『ヒトリアソビ』は、その「あるある」を出発点にする。セイジは《あの頃》のイメージを、現実のなににも「代理させない」ことを選び続ける。そしてある日、問題が起こる――勃起しているときだけ、高校のときの「さや」が目の前に現れる。その日を境に、セイジの自慰行為は意味を変える。「さや」に会うための手段となる。射精するまでのあいだの何度かの会話で、実は両想いだったことが判明し、関係はより濃くなってゆく。いよいよ性行為をしてみようというところまでいき、セイジが中に出した瞬間、やはり「さや」は消えてしまう。勃起が「さや」を存在させ、射精が「さや」を不在にさせる。
 妄想は実現しないほうがいい。実現したら「なにかによって」奪われてしまう。ぼくらはそれに耐えられるほど強い存在ではない。妄想していたことは、私だけの妄想でなければならない。だれによっても、なにによっても奪われてはいけない。伏せ続けるに値するものなのだ。
 だから、わざと、関係のないものに《あの頃》を代理させることを選ぶ。十八禁というのは、妄想を大切に扱うために与えられた防衛の選択肢である。《むかしの恋人》というのも、それが妄想として成熟するから特殊な意味をもつのであって、現実で再演しなくてよい。そのイメージをいちいち「いまの恋人」にあてがわなくてよい。それは「不在」を強調するだけの、ひどくむなしい行為となる。

恋せずにいられないな 似た顔も 虚構にも
――星野源「恋」

 それでもぼくらは《あの頃》と似ているものに対して「恋せずにいられない」。《あの頃》の要素をひっぱりだしてきて、その一点豪華で好きになってしまう。元カレの面影に似ているひと、元カノの動きにそっくりなひと、そうやって勝手に代理してくる現実に対して、ぼくらはどうやって妄想を守ろう。
 セイジは、不在の性行為をした日から自慰行為をやめた。《あの頃》というのは戻れないからこそあり続ける。取り消せない形であるからこそ、固有のものであり続け、常に既に戻りたかった場所だと思わせる。ありかけていて、あり損ねている存在は、生活のなかに没しているぐらいがちょうどよい。
 その後セイジは、本物の「さや」と再会してお酒を飲む。彼女もむかしセイジのことが好きだったという話から、変な夢を見なかったかと問いかける。そのときの反応はなんとも言えないものだったが、旦那が待っているから帰ると言って去ってしまう。セイジはその場で自慰行為をはじめ、むかしの「さや」を久しぶりに呼び出す。最後にキスをする。お別れをする。じぶんのこだわっていた思い出しかたを「卒業」し、アダルトビデオで自慰行為をするようになる。
 全体的になんとも気持ち悪い話だったが、ぼくらが《かつてのなにか》を思い出したり、哀惜したり、悔恨したり、呼び出したり、取り消したり、逆行したり、伏せたり、似た顔や虚構で代理したり、若いときのやりかたでこだわったりする日々をうまく特徴づけてくれた作品だと思う。

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株式会社集英社週刊ヤングジャンプ NO.11 2017年2月23日号 通巻NO.1812』内企画「シンマンGP2017」
レイアウト:末長/岩崎/束野/五十嵐/巻渕/成見/シマダヒデアキ(L.S.D)
プリンティングディレクター:芋田雄一
印刷・製本:共同印刷

森達也『いのちの食べかた』

この法律で「と畜場」とは、食用に供する目的で獣畜をとさつし、又は解体するために設置された施設をいう。
――「と畜場法」第三条2項 

 つい先日、友人ふたりと品川で撮影練習をしていて、南口を歩いているとき「ここ祭りのとき入れるんですよ。それでお肉もらえるんですよ」とか言われて、なにかと思ったら東京都中央卸売市場食肉市場(芝浦屠場)だった。
 かわいい子がさらっとディープな情報を持ち出してくるとギャップ萌えでしんどいわけだが、それでお肉もらえるんですよ、というなんの種類の情報提供なのかわからないまま、ぼくが「解体ほやほや」みたいなろくでもないことを言って、おおきく滑ってトピックエンド。

芝浦と場は東京都の直営だ。東京都の人口は現在一二四五万人。膨大な数だ。その一二〇〇万人が毎日食べるカレーやラーメンやハンバーグやすき焼きやマーボー豆腐や豚カツなどの料理のために必要な肉は、ほとんどこの芝浦と場に運ばれた牛や豚から作られる。ここで牛や豚の解体作業を仕事とする人の数は二三五人。全員が東京都の公務員だ。ただし芝浦と場で働く人は、彼らだけではない。解体された豚や牛の内臓を、僕たちが食べるための下準備として切ったり洗ったりする人や、靴や鞄の材料となる皮をなめすために塩漬けの処理をする人など、ほかにも大勢の人たちが働いている。総勢で二〇〇〇人。早朝から夕方まで、僕らの食卓や生活には欠かせない肉を、彼らが加工してくれるのだ。p.42-43

 頭があがらないとはこのことか、それにしても知るのが遅すぎた。二千人ものひとが働いていたのか…。以前に【"game"=肉(?) 『バイオハザード5』と「いのち」――自然のなかで交換不可能になってゆく自己】という記事で肉について語ったが、まだまだ基本的なことを知らない。

苦痛を与えない。生きたまま血を抜く。この二つの問題を、と場ではどうやって解決しているのだろう?(…)体を洗われた牛は、一頭がやっと通れるだけの幅の通路に追い込まれ、先頭の牛からノッキングを受ける。(…)眉間を撃たれると同時に脳震盪を起こした牛は硬直し、次の瞬間、通路の側面の鉄板が開かれ、段差にすれば1.5メートル下の床にまで、牛は四肢をこわばらせたまま傾斜を滑り落ちる。(…)待ち構えていた数人の男たちが牛を取り囲む。頭に回った一人が、眉間に開けられた穴から金属製のワイヤーを素早く差し込む。1メートルほどの長さのワイヤーが、あっというまに牛の身体に吸い込まれて見えなくなる。差し込まれたワイヤーは脊髄を破壊する。つまり全身が麻痺するわけだ。(…)ほぼ同じタイミングでもう一人が、首の下をナイフでざっくりと切る。切断された頸動脈から大量の血がほとばしる。天井に取り付けられたトロリーコンベアから下がる鎖に片足をひっかけて、牛は逆さまに吊りあげられる。(…)次に頭を落とされ、さらに前脚まえあしを切断され、後脚も落とされる。(…)胴体だけになった牛は、次に皮剥き機で皮を剥がされる。大きなローラーのような機械にナイフで少しだけ切った皮の端をひっかけて、ゆっくりと巻き取られるのだ。皮はきれいに剥がれ、薄い脂肪の膜に包まれた肉塊が静かに揺れている。(…)職人が、腹にナイフを入れる。同時に内臓が、もうもうと白い湯気を立てながら一気にこぼれ落ち、真下のスチール製のシュートにどさりと落ちて、あっというまに下の階へと滑り落ちゆく。(…)次に「背割せわり」といって、背骨に沿って縦に二つに割られる。使う道具は、専用の電動ノコギリだ。p.50-55 *「体」と「身体」の表記ゆれ原文ママ

  森さんは「実際に観に行くこと」をすすめるが、ことばで情報を得ることにも独特の意味がある。ことばは記憶と結ばれているから、こういう記述を読んだほうが長くじわじわ心に残るものだ。
 最後に伊丹万作の『だまされることの責任』が引用される(p.109-111)。あえて孫引きせず、みなさんのためにとっておこう。差別や戦争と「肉を食べること」をつなげ、わかりやすく、大事なことを何度も強調しながら鼻につくようなことをひとつも語らず書き通した森さんも、すごいかただ。

難しいことじゃない。目をそらさなければ、いろんなものが見えてくる。そしていろんなものが見えるから、知ることもできる。そうすればきっと、部落差別はもちろん、世界中から差別なんて、いつかはなくなると僕は信じている。悲惨な戦争だって、いつかはきっとなくなる。そのときに僕たちは、きっと顔を見合わせてつぶやくだろう。不思議だなあ。どうしてあんな、バカバカしい時代があったのだろうって。p.120

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株式会社 理論社「中学生以上すべての人の よりみちパン!セ 03」
装画・挿画:100%ORANGE/及川賢治
ブックデザイン:祖父江慎+cozfish
発行者:下向実
本文組版:デザインハウス・クー
本文印刷:加藤文明社
カバー・表紙印刷:方英社
製本:小泉製本
シリーズ企画・編集:清水檀+坂本裕美

 

 

 

 

 

 

 

「匿名だと本音を言う」という思い込み=期待について

※誰にも邪魔されない理想の本音→〈本音〉、じぶんや他人からの期待が先立っている本音→《本音》

 凶悪で特大な思い込み――「匿名になることで本音を言うようになる」。それはしごく尤もらしく、また受け容れやすい。まるで職場でお菓子を配るように、みんながこの思い込みを配り始める。だが、そんなことはない。もちろん発言権がフラットになっている以上、「ふだん言わないような/言わせてもらえないようなことを言う」ことはあるかもしれないが、それを即座に〈本音〉と同定することは、本人にも観測者にもむずかしい。
 ネットの内外、あるいは名前の実匿を問わず、〈本音〉というのはよくわからない。〈本音〉を言ったのかどうかセルフチェックしても、あやふやで、ぼやけていて、わからないままリセットされる。ネットの内側だろうが外側だろうが、ぼくは、そのときどきに設定してしまった自己値をなかなか変更できずに、これまで一貫してきたわけでもなんでもないふざけた一貫性もどき(即席の一貫性)を発揮してしまう。
 こんなクソみたいな会社辞めたいとツイッターでさえずり、会社ではスキルアップを目指して建設的な提案をする。給湯室では会社の悪口を言い、定時で帰るとホワイト企業でよかったと思う。親族には上場企業で働けて最高というポーズをとり、脳内の恋人には弱音を吐いている。どれが虚構で、どれが本音で――なんて区別は不能になっていて、それはぜんぶが虚構で、ぜんぶが本音で、ということでもある。
 こんな屁理屈(?)がまかり通ったら社会は大混乱するだろう。それでも社会の単位で混乱は起こっていない。「未成年の主張」だの「真剣10代しゃべり場」だの、そこで語られる〈本音〉は、だれかの確かな〈本音〉なんかではなく、コンテクストから決定される《本音》である。
 タクシーに乗るひとは「どこに連れていかれるのかわかったものじゃあない」はずなのだが、タクシー(ドライバー)はぼくたちを目的地に連れていきたいという《本音》を持っている。「タクシードライバー」とか「未成年」とか「10代」とか、そういった社会的な名詞には、社会的な期待がセットでついてきて、ぼくらの《本音》を決めてくれる。仕事中のぼくは「このシステム、こうしたほうがいいんじゃないか」ということを本気で考え、その素晴らしさを理解してもらえるような言語を選び、どこでどのように提案するかの断案をマジで下す。社会で社会人をやっていると、そのときの《本音》は、ちゃんと決めてもらえる――あとはその《本音》通りに自己機能するだけでよい。
 先のタクシーの例は、和辻哲郎なのだが、ルーマンも似たような話をしている。ラカンだって「本音じゃなくてそれはぜんぶ引用だよ」みたいなことを言うだろうし、ヴァンベニストも「言葉・語法・文法・人称から自由な本音なんかない」と言いそうだ。ぼくらが一貫できるような本音というのは、社会的期待とか文法とか文脈といった得体の知れないなにかに導かれた中動形の《本音》であり、ぼくらが自身で「えいや!」と繰り出せるそれではない。
 さて、冒頭に戻ろう。「匿名だと本音が言える」というのは、どういうことなのか。そこにあるのは、残念ながら、「〈本音〉が言えるはずだと期待されたことによって生じた《本音》」である。しかもそこには、タクシードライバーのような"指定の目的地へ指定の道順で連れていってくれる"といった明確な期待はないし、マクドナルドの店員のような"1分以内に注文の商品を提供し、そのあいだ0円で笑顔を提供してくれる"といった輪郭のくっきりした期待はない。ただただ「本音を言うはずだ」というアバウトな、文字化け同然の期待があり、その期待に導かれるようにして、自己分裂した《本音》を表出しようとする。
 しかしそれでは病的に不自由であることがわかってきて、正しい「ネット民しぐさ」を求める。それが人格機能というか、人格を自己指名し、そのしぐさを演じるものである。ツイッターのアカウント(人格)だったら、きっとこういうことを言うんだというしぐさの期待に好意的に乗っ取られる。まあ、ネタツイとか、腹減ったとか、トイレ行くとか、「○○、**なんだが、--だ」という論法だったり、「@各位 にゃーん」とか、まあそういうゆるいレギュレーションのなかで、半開きの仮面をつけて、半透明な《本音》を言う。
 フェイスブックの人格、ピクシブの人格、小説家になろうの人格、読書メーターの人格、任意のクラスタでの人格、別アカウントの人格…いろいろな仮面=機能=人格がある――まるでタクシードライバーのように。
 2ちゃんねるだけは自由に〈本音〉を交わしているかというと、あそこにも「名無し」という人格がある。むしろ「名無し」という容器=仮面こそが、最も「匿名になると本音を言うようになる」という期待に応えることのできるアイテムである。ネットでは、だれかの期待を自ら改新して向上させるダンピングまがいの人格を《職人》と呼ぶ。(ネット外の例で言えば)呼ばなくても来てくれて、言わなくとも目的地まで連れていってくれたら、タクシードライバー職人と呼べるだろう。その職人が、2ちゃんねるに集うものである。
 つまり「匿名ならこういうことを言うはずだ」という期待を、さらに越えるようにして「匿名しぐさ」を拡張する。いまやメディアで見ない日はないほど、一大勢力として広まった「ネット民」だが、そこには大したものなんてない。「ネットで話題」だからといって、それが話題性を持っているかどうかは判断できない。むしろネット民は「なにかを話題にすること」が期待されているのであって、いわば《仕事》をしているだけである。そのなかの限られた職人たちが、話題でもないものを話題にしようと――つまり期待されていること以上に機能しようと――して、なにか素材を見つけてきて炎上させたり、ネガティブにまつりあげたりする。
 それを「サイバーカスケード集団極性化などと称するのだが、きちんと翻訳するなら「ネット民による過労」となる。ネットで話題にしてもらおうと考えるひとたちが増えれば増えるほど、ネット民は過労になる。いまこそ〈画面の向こうにはひとがいる〉という腐った美徳を持ち出してきてもらいたいものだが、期待が過剰になれば、ネット民の《本音》が異状になることもある。

岡田斗司夫:どうしてこういうことになるのか、考えてみたんです。自分がここまで叩かれなかったら、こんなに真剣に考えなかったでしょうね。その意味ではいい機会でした。わかったことはね、彼らは「反証責任は岡田にある」と思っているんですよ。つまり、「疑いがかけられた」とか「今叩かれだした」とすると、「言われた人は反論するはずだ」と。つまり、岡田斗司夫は叩かれた。「それじゃ岡田斗司夫のサイトを見に行こう。もし、やましいことがなかったら反論があるはずだ」「反論がないのはアイツの責任だから、叩かれても仕方がない」となる。これは、おもしろい思考経路だな、と思ったの。おまけに、ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた。ぼくも含めて、「ネットをやっている人間はバカになる」なんですよ。
――『オタク論2!』対談

  別にネットだけが「バカになる」わけではなくて、過剰に期待され、それに《本音》で応えようとオーバーアチーブするうちに「バカになる」のだと思う。
 たとえば「君のことを幸せにするから結婚してくれ」と申請して、それが受理されたとしよう。もちろん《本音》で言ったわけではないのだからタクシードライバーが目的地に連れていってくれるがごとく)期待されても困るのだが、相手が《本音》と勘違いし、どんどん期待してしまい、あなたも"言ってしまったからには"などという奇怪な理屈でそれに応えてしまったとしよう。「幸せにする」から導かれる多種多様なワガママをすべてクリアしてゆくなかで、あなたは岡田的な意味で「バカになる」。相手も「じぶんが幸せじゃないのは、幸せにすると言ったひとのせいである」という思考回路になってゆく。
 ここまで極端な話ではないと思うが、期待を見極めないと本音は病んでゆく。月曜日の新宿御苑に行って、門の前で呆然としている外国人に「毎週月曜日はお休みなんですよ」とわざわざ親切に教えてあげる通りすがりの日本人を演じているときのぼくの本音は、すこし病んでいるかもしれない。笑い事じゃなくて。
 「タクシー」とか、「日本人」とか、「名無し」とか、「鍵垢」とか、「幸せの保証人」とか、ぼくらはなにかの人格容器に入って、その容器の用途に従って《本音》を繰り出す。規定を与えられた容器に入るの、大好き。ここにいて、これをしてさえいればいい、という状況、大好き。郷に入れば郷に従えなんて偉そうに命令されなくとも、こっちは早いところ郷に入りたいし、そのために郷を最短経路で検索するし、必要なら他人から郷を奪うぐらいの覚悟だってあるし、逆に奪われないように守り続けている――「心臓が始まった時 嫌でも人は場所を取る/奪われない様に 守り続けてる」BUMP OF CHICKEN『カルマ』)
 たとえば『機動戦士ガンダム』が、リモコン操作で戦えるロボットだったらどうだろう。あるいはポケモンのように「行け、ガンダム、十万ボルトだ!!」みたいな命令系統で済む話だったらどうだろう。いまいち盛り上がらないし、ジオン軍はさっさと滅びただろう。それでも『機動戦士ガンダム』では、どうしてもひとが中に入り(という言いかたは適切ではないが)、白兵戦を繰り広げる理由がある。宇宙で、ロボットが、接近戦で殴り合っている背景がある。だからこそ、おもしろい。兵器が進化した時代でさえも、兵器を容れ物にして――人格にして――やはりひと同士が戦うことになる。
 人格が大好きという話だった。ネットではたくさんの人格を選べる――ガンダム的に言えばどんなモビルスーツに乗って戦うのかを選べる――愉快さがある。「ツイッターの鍵垢」という窮屈な人格を選んだら、じぶんのあやふやな〈本音〉に自己嫌悪することになるし、「現実と戦うネット民」という人格を選んだら、『反論しないということは、間違いを認めるということですね』という意味不明な論法でもって世界を自浄している気になれる。おまえら人格好きだなあ、なんて風に距離をとって「達観人格」をしているぶんにはよいのだが、どうもニュースは「ネットによれば」とまるでなにひとつ虚構性のないものからの引用のようにしてしまうし、殺人や強姦があれば容疑者は「フェイスブック」や「ツイッタ」などのSNS――新聞では「無料会員制サイト」などと記される――から《人格》を探られて、犯罪心理学者などが偉そうに分析したコメントが載せられる。
 やめてくれ、やめてくれ。ぼくが性犯罪を犯しても、ツイッターで「チャイナドレスで抜いた」とか発言していたことを拾わないでくれ。いや、拾ったとしても人格を決めつけないでくれ。それは〈本音〉なんかじゃあない。なんとなくぼくがツイッターでこういうこと言ったら、なんとなくツイッターっぽさが出るんじゃないかなって思ったんだよ――と法廷で言い訳するかどうか考えると、それは法廷での被告人としての《本音》から外れるから言わないだろう。
 「ネットで話題」とか、「ネットで叩かれる」とか、その主体って誰なんだろう。もちろん見かけは「ネット民」だが、それを期待して、それを《本音》として与えているのは誰だろう。もしネット民がなにも話題にしなくなり、なにも叩かなくなったとして、そのとき「ネット民らしくない」という気持ちが浮かんでこないだろうか。岡田が「ぼくは自分が叩かれて、自分がついこの間まで同じ思考経路をたどっているのに気がついた」と内省したように、ぼくらはいつの間にやらネットしぐさをみにつけていて、人格で思う存分あそんでいて、奇怪な壺にはまりこんでいることにさえ自覚できていないのかもしれない。
 すべての人格は、面白半分なんだ。仕事と趣味が一致している、という言い古された言いかたもできるかもしれない。ネットで自由になることなんてできない。人格を指名してしまうし、命令されなくとも郷には入っておきたい。「今北産業」って言いたいし、それが通じてほしい。「ご飯よそえませんでした」ってなったら、笑ってほしいし、「俺ならよそえる」と言って張り切って失敗してほしい。「にゃーん」って言ったら、ファボしてほしいし、できることなら空リプで「にゃーん」って言ってほしい。iPhoneの猫の絵文字もあったらうれしいな。「w」を何個もつけていたら、馬鹿な設定なんだと気づいてほしい。「やれやれ」と言ったら、あの小説家のやつれた世界の設定をやっていると見切ってほしい。趣味だし、仕事。情報に命令されているじぶんと、面白半分のじぶん。その両方が、両立しているのかさえわからない綱渡りで、まいにちのように活躍している。
 ぼくらはそうやって、《本音》を重ねてたくさんのセーブポイントを作っている。文脈に依存しながら、自由であるふりをしている。遊んでいるふりをしている。そうじゃなくちゃ、秩序は乱れてるだけだから。all for one, one for allの精神で(!)セーブポイントを築いている。
 「演説」をするなら、みんながセーブしてくれたデータを引き継いで、演説らしい《本音》を言うのだろう。「あの、相談事があるんだけど」と言ったら、相談者らしい《本音》を言わねばセーブができない。「今日は無礼講だから」となっても、わかってるよな、無礼が許されるという意味ではなくて、「わざわざ無礼講と宣言しなければならないほどわれわれは非親密な関係だから、それを前提にやり取りしてくれ」という意味であり、いきなりビールを頭からぶっかけていいという許可ではない――そんなセーブポイント誰も作ってないだろ!
 「カップルの喧嘩」なら、ちゃんと「お前のことなんか好きじゃねえんだよ」と言わなければならないし(?)、その二十分後に「さっきの、あれホンネじゃないから…ごめん…感情的になって」と言わなければならない。ハグもしろ、キスもしろ、そのあとどっかでセックスしろ。
 友だちと温泉に行ったら、まずは「(心も)裸になろうぜ」とどちらかが宣言declarationして、「ふだん言わないこと」を、もちろん〈本音〉として、地雷に最大配慮しながら、まるで漏れてきてしまったように言い出さなければならない。
 いや、これらは誇張に誇張を重ねた冗談なのだが、ツイッター自警団とか、クラスタとか、たったひとつの正義のために攻撃と防衛を繰り広げるひとたちとおなじように、ぼくらもなにかの機能とか、役割とか、期待とか、文脈を持っていて、だいたい末路で「バカになる」(©岡田斗司夫
 「で? だから?」と聞かれると、まだなにも考えていないので焦るのだが、期待と《本音》が過剰にならないように、もうすこしセルフコントロールしていきませんか、という話がしたかった。というよりも、こんなに自由になれる空間で、なんでこんなに不自由なんだと思ったんだ。友人が「鍵垢にしたときのほうが窮屈」と言っていて、それがなぜかみんなが考えるべきなんじゃあないかと思ったんだ。
 もちろんその価値観を押し付けるための権利書なんて持っていないので、ここでは語気を強めるだけに留めるしかないのだが、それでも、なぜネットでこれほどまでに不自由なのかという疑問に対して、「本音という思い込み」を提出したい。鍵垢のほうがホンネを言えると思ったら、おおまちがいなんだ。

「ともにある」はそんなに悪い和訳だろうか

記者発表は、日米首脳が滞在する米南部フロリダ州パームビーチの高級リゾートクラブ「マールアラーゴ」で午後10時38分(日本時間12日午後0時38分)に始まった。天井に豪華なシャンデリアが飾られた一室には、急きょ呼ばれた日米の記者約20人が詰め掛けた。 安倍氏から発言を促されると、トランプ氏は「私が皆さんに完全に理解してもらいたいことは、米国が偉大な同盟国の日本を100パーセント支持するということだ」と一息に言い、記者団の質問には答えず、安倍氏の背中に手を置きながら退出した。
――パームビーチ共同「100%日本支持」

両首脳はフロリダ時間の11日午後10時半(日本時間12日午後0時半)すぎから共同で記者発表した。首相は「北朝鮮は(弾道ミサイル技術の利用を禁じた)国連決議を完全に順守すべきだ」と力説。トランプ氏は続いてマイクの前に立ち、手ぶりを交えて「米国は偉大な同盟国、日本と100%ともにある」と語った。
――日経、「北朝鮮、「新型ミサイル成功」 日米会談に合わせ発射 」ソウル=山田健一、パームビーチ(米フロリダ州)=永沢毅

 この「100パーセント支持する――100%ともにある/The U.S. stands behind Japan 100%」という訳が物議をかもしている。まず12日の「支持する」は、そんな積極的な意味合いではないという指摘がある。原文の「behind」が気になるようで、もちろん前置詞は関係語だから政治的発言として考えれば気になるところだろう。

7. If something or someone is behind you, they support you and help you.――Cobuild Online Dictionary "behind"(preposition)

 もちろんそれはことばの見かけのニュアンスの話で、「behind」だろうとなんだろうと「support and help」に変わりはない。『直訳すると後ろ盾ってことだ!』と騒いでいるひともいるが、直訳すれば「(日本のやりたいこと・守りたいものを同盟国として出来る範囲で)支え助ける状態にある」ということになるので、訳語は「後押し」でも「支持」でも「ともにある」でも構わないだろう。
 まあ日米関係に敏感なひとたちは、「stand with」とか「stand for」とか「stand by/stand side-by-side」とか「stand shoulder to shoulder」もあったんじゃあないかと懸念するわけで、それもわからなくもない。米国におむつの世話までしてほしい気持ちもわかる。
 ただ言葉尻だけを追いかけても、翻訳は完成しない。コンテクストだってある。

・そもそも共同声明ではなく、安倍首相の会見
・首相に発言を求められ、17秒、一息で(!)言い切ったことば
・「I just want everybody to understand and fully know that the United States of America stands behind Japan, its great ally, 100 percent.」
・(米国における北朝鮮の「脅威」は軽視されているので、防衛感覚・危機感覚がまったくちがう→日本の報道に気を遣っている?)
・「みなさんに理解してほしいこと、絶対に知っておいてほしいことはですね」なんていう建て前オーラの強い前置きはめったにしない
・「記者団の質問には答えず、安倍氏の背中に手を置きながら退出した」とあるように、保護者感ばりばり(?)

 と、まあ、反論するのに都合のいいコンテクストを並べてみたが、的外れではないだろう。トランプ大統領の会見だったら、例のゴーストライターと相談して、もうすこし洗練されたことを簡潔に述べると予想できる。せっかくの週末デートに対して北朝鮮が放った「祝砲」に関してしごく面倒くさかったのだろうし、米国メディアも「no thread / show of force」(ロイター)とあきれ気味で、いまに戦争が始まるというテンションで騒いでいるのは日本のメディアだけである(まあ緊迫せざるをえないだろうが、深刻であることと、深刻がることと、深刻ぶることはそれぞれ大きく異なる)
 細かいコンテクストを見てから訳すと、「ともにある」でも悪くない印象がある。もちろんひとによっては「ともにいる」ということばのほうが消極的だったり、「庇護する」だったら胡散臭かったり、「後ろで保証する」だったら他人事だったりと、言い出したらきりがない。この発言は「米国が日本と北朝鮮に対して具体的になにをどうする」というものではない。「後ろにいるからな」と言っていたひとが(庇護欲を抑えきれず)たまらず前に出てくることだってありうる。ほんとうに後ろにいたいだけなら、そういう取り決めをちゃんとするだけの知性はある。
 むしろ首脳会談では、沖縄・尖閣日米安保条約5条が適用されると正式に確認し、文書に明記した(written in document)。大事なことは文書にしているし、それでいいと思う。ちょっとした公式と非公式のあわいにある発言のお尻だけ取り出してセクハラするようなニュースの見かた、あるいは訳語の決めかたにはリスキーなところがある。トランプ大統領は、前大統領のことを「アジアでほとんどなにも仕事できなかった(poor job)」と攻撃していたぐらいだし、「日米がアジアをリードする」という首相の価値観とおおむね一致している。
 もちろんぼくの考えも楽観的なので批判もあろうが、言うほど悪くない訳だとぼくは思う。

エマニュエル・レヴィナス『困難な自由』三浦直希・訳/合田正人・監修

おお! 忘れられた小瓶の窮屈な境界のなかで、自己に沈潜する夜間的実存。おお! 外部との疑わしい接触すべてを免れた実存、持続を横切る昏睡的実存、人里離れたイェシヴァに保存された教義のように、生の余白でまどろむ液体、地下の隠れ場で時間と出来事から孤立した地下的実存、永遠の実存、聖職者から聖職者へと伝えられる暗号化されたメッセージ、混合物に委ねられた世界における取るに足らない純粋さ。おお! 伝統の驚異。時代の反撃や乱流にとどまることを欲しない、束縛なき思考の条件と約束。おお! 世界にあふれる惜しみない灯火よ、われわれの永遠の生、そしてそれ自体に等しい生をおまえは飲み込む。おまえはこれらの感嘆すべき、暗い秘密の時間を祝うのだ。p.307

 "マイム・マイム・マイム・マイム、マイム、ベッサソン"――ヘブライ語で「水」と「よろこびのうちに」…なんでユダヤイスラエルフォークソングを教わっていたのだろうかと改めて疑問に思った。
 ユダヤと言えばなんだろうか。ぼくはユダヤについてなにを知っているだろうか。ユダヤということばの背後にある膨大な選択肢の、ぼくは、教科書的な意味と、『アンネの日記』的な意味と…それぐらいしか知らないかもしれない。
 レヴィナス(彼もユダヤ人)の著作は、合田正人さんと内田樹さんのおかげでほとんどすべて日本語で読むことができる。そのうち半分は思想的な著作、もう半分が宗教ユダヤ教ユダヤ人)の著作で、今回はユダヤ教について語った代表作『困難な自由』の合田訳を読む――先に出た内田訳は「抄訳」なので"私家版"と呼ばれることもある。
 とにかくなんにもわからなかったから、わからなかったことを引用とともに残しておく。

こうした伝統の否定者、無神論者、反徒たちは皆、自分でも気づかぬうちに、あらかじめ涜神を赦免する妥協なき正義という崇高な伝統と結びついていた。これらの反乱によって、ユダヤ教は、周囲の世界に包含されるや否や、すでにある面ではこの世界と対立していたのである。しかしそのような意思表示において、ユダヤ教は自己自身の言語を失っていることに気がついた。必死になって、ユダヤ教は自己を理解するために借り物の思想に助けを求めた。実際、本能的にユダヤ人であることは不可能である。それと知ることなくユダヤ人であることはできない。心から善を熱望しなければならず、と同時に、善を単に心情の素朴な躍動において欲望してはならない。躍動(Élan)を維持すると同時に打ち砕くこと――ユダヤ典礼とは、これなのかもしれない! 自己のパトスを警戒する情念、繰り返し意識となる情念! ユダヤ教への帰属には、典礼と科学が前提となるのだ。正義は無知な者には不可能であるユダヤ教とは、極度の意識である。p.7 *太字は引用者による、今後も同様

 ここを読んだだけで、ユダヤ教ってなんなんだ、という「わからなさ」にあふれてくる。切羽詰まった「わからなさ」がぼくの胸を走る。そういうタイプの読書は、いつも苦しい。わかる本だけをスラスラ速読するのが気持ちいいのだが、そうではない本もたくさんある。困難な読書によって輪郭のはっきりしたなにかを得るわけではないが、それでも身体が〈それ〉を熱望するときがある。

ユダヤ人の自己同一性について自問することは、すでにそれを失っているということです。しかしそれは、依然としてこの自己同一性に執着しているということです。さもなければ、このような尋問は避けられるでしょう。この〈すでに〉と〈依然として〉のあいだに、硬い網のように張られた境界線が浮かび上がります。西欧ユダヤ人たちのユダヤ教は、その線上で冒険し、身を危険にさらしているのです。(…)これやあれであるからユダヤ人なのではない、ということです。観念、特性、物は、それらが他の観念、他の特性、他の物から区別される際に同定されます。人格は、自己の指標を生み出すことなく自己同一化します。ある人格は、あそこではなくここで、翌日ではなくその日に生まれたからという理由で、ブロンドの髪だから、辛辣だから、あるいは涙もろいからという理由で同一なのではありません。人格は、あらゆる比較以前に自己自身だから同一なのです。ところで、ひとは自己自身に収まるようにユダヤ教に収まります。ユダヤ教に加入することすらありません。加入には、あらかじめ隔たりすぎていたことが前提となるからです。ひとは、ユダヤ教に取り憑かれることはありません。なぜなら、帰属は運命のなかに折り込まれているからです。ユダヤ人がユダヤ教に結びつける根本的な親密さは、それが自らにもたらす痛みを通じて、日常的に告白される幸福として、あるいはお望みならば、選びとして生きられます。p.66-67

 さっきよりはわかるようになったが、さっきよりもわからないことが増えた。「わからなさ」を解消するごとにわからなくなる。

 ユダヤ教がこの世に愛着を抱くのは、ユダヤ教には超自然的秩序を理解する想像力が欠けているからではないし、物質がユダヤ教にとって絶対的なものとして何らかの威光を持っているからでもない。そうではなく、ユダヤ教にとっては、人間をその隣人へと導く道の上に意識の最初の微光が点るからである。(…)意識の到来とは――精神の最初のきらめきでさえ――、自分のそばに横たわる死体の発見、そして殺害しながら生きることへの激しい恐怖以外の何であろうか。他者への注意、自己を彼らの一員として数え、自己を裁く可能性――意識とは、正義である。p.136-137

 レヴィナスは、「意識」をたびたび正義として強調する。熱狂的な信仰ではなく、意識や知性こそが倫理となり、それが地上における地上に限った人間関係を正しく保つのである。

歴史意識と呼ばれるこの死すべき定めに対する満足のうちで重要なのは、誰もが、たしかに滅びゆくものではあるが唯一無二の時間を待つことである。偶然に到来する時間の高みに立ち、それが自分に向けて発する呼び声を聞き分けることである。滅びゆく瞬間の呼び声に応答すること! 遅刻してはならない。ミスドラッシュの語る、永遠なる主の王座の前で、神の永遠におけるただひとつの瞬間、すなわち自己の瞬間に歌うべきたったひとつの歌を持っていたあの〈天使〉のように。イスラエル(ヤコブ)と格闘した天使は、その運命の唯一的瞬間のちょうど前夜に危険な人物と出会い、もめごとに巻き込まれたのである(『創世記』三二章)。p.279

 このあたりは引用も多いが、元ネタがわからない。

神は人間を自己性として愛します。神と人間との関係のうちにあるものはすべて、この愛です。そして神は、人間を特異性としてしか愛することができません。〈神〉から特異な〈人間〉へと向かうこの関係を、ローゼンツヴァイクは啓示と呼んでいます。まず愛があり、次いで啓示があるわけでも、まず啓示があり、次いで愛があるわけでもありません。啓示とはこの愛のことなのです。(…)さて、この神の愛への応答として生じるもの、そして啓示がいかにして延長されるかに注目するのは興味深いことです。自己性に対する神の愛は、それ自体として、愛せよという命令なのです。(…)愛を命じることはできますが、ただし愛を命じるのは愛であり、愛は自己の愛の現在においてそれを命令します。ですから愛せよという命令は、愛を命じる愛そのものの反復と更新のうちで際限なく反復され更新されるわけです。よってユダヤ教は――ご存知の通り、ユダヤ教では啓示は戒律から切り離すことができません――律法の軛を表すものではまったくなく、まさに愛を表します。ユダヤ教が戒律からなるという事実は、全瞬間における〈神〉の〈人間〉に対する愛の更新を証明するのです。さもなければ、戒律において命じられる愛を命じるのは不可能だったでしょう。このようなわけで、ユダヤ教におけるミツヴァ(戒律)の卓越した役割は道徳的形式主義を意味するものではなく、永遠に更新される神の愛の生きた現前を意味することがわかります。よってそれは、戒律を通じた永遠の現在の経験を意味するのです。p.251-252

 なるほど、わからない。

 『全体性と無限』の後、この〈無限〉との関係を「主題化」には還元しえないものとして提示することが可能となっている。〈無限〉は、その顔がわたしと関係する〈君〉であるにもかかわらず、常に「第三人称」、〈彼〉にとどまる。〈無限〉は〈自我〉を触発するが、〈自我〉は〈無限〉を支配することができず、〈ロゴス〉の起源によって〈無限〉の法外さを「引き受ける」こともできない。かくして〈無限〉は〈自我〉を無起源的に触発し、この触発が引き起こす「〈他者〉のための〈責任〉」として示される絶対的受動性――これはあらゆる自由の手前にある――のうちに痕跡として刻まれる。このような責任の究極的意味は、〈自我〉を〈自己〉という絶対的受動性において――〈他者〉の身代わりになること、その人質となることそのものとして――思考することにある。そして、単に別の仕方で存在するのではなく、存在への固執から解放された存在するとは別の仕方でとしての身代わりにおいて思考することにある。提示された分析が単に心理学的な意味とならないよう『全体性と無限』が依然として用いていた存在論的言語は――もはや回避されている。そしてこれらの分析そのものが、つねにある主体が同等のものを主題化する経験へではなく、主体には計り知れないものに責任を持つ超越へと差し向けるのである。p.393

 この他、パリサイ人の不在(p.37)、西洋的であること(p.61)、ある犬の名前(p.201)、二つの世界の間で(p.238)などが気になったが、引用せずにメモしておく。もうすこし老いたら=置いたら、また読み直そう――このわからない大切な本を。 

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叢書・ウニベルシタス(法政大学出版局
カバー:Jean Atlan, La Kahena, 1958(©Josseline, ©ADAGP, Paris&SPDA, Tokyo, 2008)
原題:Difficile liberté(©Edition Albin Aichel, SA-Paris 1963 et 1976)
監修:合田正人
印刷:平文社
製本:鈴木製本
※増補版・定本全訳。内田樹訳の事情などは、本書「訳者あとがき」に詳しい。