ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

病気を他の病気に置き換えるやつはもう終ろう――穂刈けあきさんの「癌=メンヘラ」アナロジーについて

『メンヘラは癌』作・穂刈けあき
https://note.mu/hokarikeaki/n/nc47a0d9c0ddb

※上記の作品を踏まえております。
※ぼくの記事のスタンスは「そういう表現をするのは自由だし、じぶんのことよく理解しながら描いていて素晴らしいなって思うし、メンヘラのワンタイプを漫画形式でわかりやすく表現できていると思うけれど、もし『メンヘラのためをおもって』やっているならその表現はよしてくれ。その表現はじぶんを突き刺す自傷のカッターだ」という言葉狩りです。
※偉そうに書いていきますが、ぼくが絶対に正しいなんてことは思っていません。それはいつだって大前提なのですが、たまにわからないかたがいるため明記しておきます。


 メンヘラを(うつ病に関連させて)心の風邪ということもできるし、癌ということもできる。メンヘラをどうでもいいと思っているひとは風邪のほうにひとまず賛成し、メンヘラを一大事だと思っているひとは癌のほうに賛同する。だが、そのアナロジーはきわめてナンセンスだと言いたい。つまり、メンヘラはメンヘラだ。風邪が癌ではないように、あるいは結核月経前症候群ではないように。ハマチがウニではないように、パフェがシュークリームではないように。アコギがサックスではないように、インコがワシではないように。

 たとえば、よほど訓練しないかぎり、男にとって月経前症候群は風邪「以下」である。そもそも婦人病全般、なんなら男だってなるかもしれない乳がんでさえ、男にとっては風邪ほど大事ではない。保険教育で習ったか、たまたまテレビやツイッターでみかけたか、カラダについて語りたがる女性誌を読んだか、世話好きな女子から教わったか、ときどき感情的になる彼女のことを知恵袋で相談したか、症状をピンポイントで検索してみたか、彼女が自己申告してくれたか、そういうことでもないかぎり、まずもって月経前症候群の価値は風邪にも擦り傷にも満たない。(後述するが、教わったところで基本は変わらない。希望的に言えば擦り傷「以上」にはなるかもしれない)

 ここで「風邪>月経前症候群の男は正しくないか」という問いをたててもしかたあるまい。価値というのはいつもそういうものだ。ぼくが腐葉土の大事さを熱心に語ったところで、あなたの「米1kg VS 落ち葉1kg」は、米のほうに軍配があがることだろう。それは悪いことじゃあない、そういうものなんだ。落ち葉が「人間と同じ重さの生命を持っているはずの甲殻類」の住処や脱皮場所になっていることを説いたとしても、米が勝るにちがいない。「甲殻類だって人間とおなじ生き物で!おなじ重さで!それって重大なんですよ!」と熱心に訴えかけても、それがおなじであることが運よく理解されたあと、そのひとの価値判断によって優劣がつけられてしまう。何度も繰り返すが、そういうものなんだ。

 病気を知ったところで、そこに価値を見出さなければ「月経なんちゃら病なんだろ?つまり病気ってことなんだからクスリかなんかで治せよ」という話になる。アバウトな軽視が具体的になるだけでなにも変わらない。「甲殻類は脱皮したいだけでしょ、俺は米を食わないと生きていけないから」というふうに米が選ばれる理由が強化されるだけである。

 穂刈けあきさんが指摘するように、たいていのひとは、癌の重大性なら気づける。「風邪>癌」という式をたてることはむずかしい。大事なのは、それがなぜか、である。癌がコツコツじぶんの価値を高めてきたから(主に西洋で)、癌はトップレベルの位置にいる。ここを見落としてはいけない。そこに努力もせずタダ乗りで割り込んできて「癌=メンヘラ!>>>>風邪」を押しつけるのはナンセンスだと思う。いちいち差別をするから、差別し返される。メンヘラが癌だと言いたいひとは、どこかでメンヘラは「風邪以上」だと思っている。メンヘラは「酒癖以上」だと思っている。メンヘラは「夜尿症以上」だと思っている。

 そんなことはない。癌が癌でしかないのとおなじように(というか癌にもいろいろあるがそれはおいといて)、内部障害内部障害でしかないのとおなじように、風邪が風邪でしかないのとおなじように、メンヘラはメンヘラでしかない。もちろんそのすべてに「というかそれ自体にもいろいろあるがそれはおいといて」という注釈つきで。

 いちいちメンヘラをほかの病気でアナロジーしようとするのは、せっかくメンヘラという病気の価値をあげようと努力してきたひとたちに水を差す行為である。いや、それ以上に、「あ、癌ってメンヘラみたいなもんだったの?」という認識(もちろん誤認識)さえ与えてしまいかねない。癌のほうにも変な認識を与えかねない。アナロジーはいつも誤解と誤認識の危険を伴っている(というかむしろ、誤解と誤認識を利用するワザだ)。

 余談だが、もちろんアナロジーをつかってきたやつを論破するのにも用いることができる。たとえば「メンヘラなんて風邪と一緒だろ、おまえが怠慢なだけなんだから休まず出社しろ」とか言ってきた上司がいたら、「メンヘラは風邪、ならば風邪はメンヘラですよね。あなたのお子さんが風邪を引かれてもそれはメンヘラとおなじ怠惰や怠慢のたぐいですから学校に行かせるってことですよね。お子さんが学校で、風邪なのに怠慢とか言われて登校させられた、と友人や先生に報告しましょう。あなたはその友人や先生方に、どのような説明をなさるつもりでしょうか」と殴り返すこともできる。アナロジーは、これぐらい危なっかしいのである。

 癌(の功績)にタダ乗りすれば、話をたくさんたくさんたくさんたくさん(西洋医学の歴史で言って実に300年分ほど?)ショートカットできる。しかし、それが善いことかどうかの話をすっ飛ばすのはあまりにも危ない。何度も繰り返すが、メンヘラはメンヘラだ。それ以外ではない。そこから話を始めなくてどうするのか。面倒くさいかもしれないが、作中でメンヘラと同列に並べられた「癌」だって面倒くさいことをたくさんやってきたのだ。

 T-Pablowさんの「けど本当に大事なのは広めることよりも広めかた、金稼ぐことよりも金の稼ぎかた」というリリックは、ひとつの美学的な価値観でしかないかもしれないが、基本に立ち戻るための合言葉にもなる。すでにめちゃくちゃな広まりかたをしてしまった「メンヘラ」というものを、再度つかみなおすチャンスを、ぼくらがメイキングしていかなければならないのではないかと思う。

ゆとり世代のラグーンから飛びだす

 ゆとり世代はひとのせいにする――そう見えてもしかたないと思うところが(多々)ある。だからといって、それがすべてゆとり世代のせいなのかと問いたい気持ちもある。不毛な世代論を抜きにしても、いまの時代、あるいはここ十数年、「生涯をすごす」とか「キャリアを積む」といった概念に、とびっきりの魅力があったかどうか、とても怪しい。

 人間は「どの選択をしても悪影響がある」場合、意思決定の権限をだれかにゆだねる。ゆとり世代にとって、生涯だのキャリアだのの先にあるものは、どれも評価の低い旅館みたいなもので、このなかから選ばなきゃいけないのか……といったメランコリーが平等に配られている。

 ゆとりは怠惰にみられがちだし、実際、そのように認識されていると言える。だが、もしゆとりの目の前に「星五つ」の旅館ばかりが並んでいたら、元気よく、ワクワクしながら、主体的に選び始めただろうと思う。バブルへの当てつけで言っているわけではないが、選びたくないものしか並んでいないとき、ひとは怠惰になると相場で決まっている("Passing the Buck: Delegating Choices to Others to Avoid Responsibility and Blame," by Steffel, Williams, and Graham)

 ここから、悪循環にするかどうか、ゆとり世代が決めることになるだろう。レビューの低い「生涯」をまえに、それでも魅力的に選びとり、次の世代のためのレビューを築くか、やはりひとのせいにして、文句を言いながら低いレビューをひたすらつける旅に出るか。

 ぼくらは、どちらも選べる。どちらかになることを選択できる。A案「割を食って露骨に責任転嫁する」のか、B案「不平不満の壁で隔離されたラグーンからあがって自由な大海の魅力を探検する」のか。

 もしB案を選ぶなら、じぶんのラグーンがどこまで広がっているのか、知るところから始めなければならないだろう。

啓蒙活動中毒者――「自分の不安が先、周知が後」を無視する平成教育のイデオロギー

なぜ障害者差別がなくならないのか
「私が正しくて、あなたが正しくない話なんですけれど、大事なことなんで聞いてください」――そんな話を誰が聞く? あるいは近視眼的な啓蒙活動と対話の場を劈くこと
※このふたつを踏まえたり踏まえなかったりしています
※以下は思いつきです



 ひとはじぶんのちょうどよさを生きている。

 ゴルフでストレス発散しているお父さんに、「ゴルフは金がかかるからカラオケにして」と言ったところで、それはちょうどよくないからムリな相談である。それに根拠の部分だが、ゴルフ趣味で月に一回、ホールをラウンドするだけなら二万程になる(用品の初期費用は別)。それを高いとするのは早計だろう。ラウンドのワクワク感とか、風や芝や地形と向き合う広大感、ラウンド後の幸福な疲労感、それらがカラオケの週末昼のフリータイム+フリードリンク(1,500円)で補えるかと言えば否定せざるを得ない。なんとかしてジムに通い(月に二回で3.000円)、二~三本くらいアクション映画でもみるとしようか(数百円)。確かに費用は安上がりだが、無駄に時間がかかっている。そして〈こんなに時間をかけたのに〉ゴルフほどの刺激や発散はなく、余計にむなしくなる。

 もちろんゴルフびいきで話したが、逆に、ゴルフなんて一万も二万もかけて手にまめができて、週末の一日がつぶれて、雨に降られて、いちいち演技的に褒め合いながら、おなじようなコースをとっかえひっかえ回ってるだけで飽きるし疲れるだけなのに比べて、カラオケは近所の室内で好きなドリンクがっばがば飲みながら好きなだけ熱唱できて、上達しようと思えばいい練習になって、披露することもできるしシェアすることもできる、最高、という考えかたもある。ちなみにぼくはゴルフもカラオケも、どっちも好き。

 さて、問題は、これらの「よさ」をおたがいが理解したところで、「やめろ」と言わなくなるかどうかである。ここがむずかしい。いわゆる合理的判断ができさえすれば、他人の趣味をやめさせることは、じぶんの趣味をやめさせられることを許すことになる。だから他人の趣味をおおざっぱなりとも認めざるを得ない、合理的判断をすれば、という留保付きで。

 行動経済学が指摘するように、人間は合理的に判断したり、じぶんの行動を管理することはできない。つまり〈わかってたってやる〉ものである。喫煙したって健康によくないとか、たばこ代でベンツが買えたとか、そういうことは「わかっている」のであって、だけど不安だから吸ってしまう。あらゆる合理性を織り込んでいるにもかかわらず、それでもタバコはやめられない。それを医学は中毒などと呼ぶが、べつにそんなもんじゃあない、割とふつうのことだ。

 正しいことを織り込みまくっても、なんなら織り込めば織り込むほど、リフォームするのがむずかしくなる。タバコというものが、個人の不安のあらゆる言い訳を担っているからこそ、喫煙者にとってタバコがちょうどいい。それを「高いから」とか「害悪だから」とかいってやめさせようとする人間は、はっきり言ってあたまが悪い。「ダメだからダメ」ぐらいよくない。「カラオケにしろ」「ガムに替えろ」「受動喫煙しね」-―ぜんぶ意味ない。もしそれでやめたひとがいたとしても、そのひとは一週間後くらいにまたなにか理由をみつけてまちがいなく吸っている。

 タバコは不安の言い訳にちょうどいいのだから、もしやめさせたいのなら、そのちょうどよさを木っ端みじんにする必要がある。だから「節煙」だの「減煙」だのは、医療的な言い訳にすぎない。つまり「俺は節煙しているから吸っていい」という新たな言い訳を与えているにすぎない。ほんとうにやめさせる気があるなら、医者が全責任を負ってでも、その喫煙者の不安の言い訳をぶち壊さねばならない。中途半端な通院は「通院しているから吸っていい」という言い訳か、「通院しているのにやめられない俺」という新たな自己嫌悪と不安を生み出す。つまり不安が増大して、吸う本数が増える。

 でも人間ってそういうもので、啓蒙活動家だって、それぐらいほんとうは知っている。知っているけど合理をおしつけてしまう。合理合理でゴリゴリやってしまう。こういうのなんていうんだっけ、そうだそうだ、中毒、らしい。さっきは否定したが、あえて相手のことばを借りるとすれば「啓蒙活動中毒者」である。ニコチン中毒とおなじ。

 啓蒙活動中毒になるのは、もちろんそれがストレス発散・不安の言い訳にちょうどいいからである。完璧主義とか潔癖症あたりのストレスと不安。そんなもんじぶんでどうにかしろよ、というのが正論だけど、やはりみんな人間で、そんなことわかっているんだけど、という話になる。

 完璧主義や潔癖症の不安というのは、だいたい「汚点」への不安だと思う。汚いこと。汚れること。つまりキレイなままでいたい、という凝った願望。正しいことだけを言いたい。道徳とか正義みたいなキレイなものの背後にまわって、汚いものをぶん殴りたい。正しい知識、正しいふるまい、正しい考え、正しい私、誤答のない私。

 汚いものを否定したからといって、じぶんがキレイになるわけではない――もちろんそんなことだってわかっている。でも叩いてしまう。啓蒙中毒。

 「この状態が介護レベル4です、これこれこういうことをしてしまいます、ご理解ください」と周知したからといって、じぶんの存在価値に不安をいだいているひとは、健常者・障害者・要介護者の区別を問わず、その不安から差別する。わかっていても差別する。不安だから。余裕がないから。要介護者がどのようなふるまいをしてしまうのかとか、それがどれだけ恵まれない状態だとか、本人の意志じゃないとか、そういう「正しい知識」とか関係なく、差別する。

 肝心なことに、むしろ知識があったほうが差別しやすい。「だったら介護レベル5になって寝とけ」と言えてしまう。「介護レベル4でも社会でがんばってるひといるよ?」とか、「お前に使われてる税金の額、わかる?」とか、ただただ「しね」だのなんだの低俗なことばを吐いていたころにまして、具体的に差別できるようになる。差別の解像度をあげ、より不快な心境にできることばを選択する。それが「周知」のデメリットである。

 それでも周知するひとは、周知のデメリットについて議論できない。中毒だから、それどころではない。「正しい知識がないから差別するんだ」というふんわりした前提を神聖化して、ひたすら正しい知識を広めようとする。それがタバコの煙なら「受動喫煙」だと殴り返せるが、どうも「正しい知識の周知」を殴り返すことばや概念がまだない。喫煙者の肩身はせまくなったが、周知者・啓蒙活動家の肩身はずいぶんとひろい。かつての喫煙者のように、どこでもかしこでものさばっている。

 みんな不安とたたかっている。ちょうどよさを探している。この文章が長文なのも、ぼくの不安による。ちょっと喧嘩ごしなのも、ぼくの不安による。殴り書きのままアップするのも、見直すのが不安だから。もちろん時間がないとかいろいろ言い訳できるが、べつに見直しなんてすぐに終わるわけで、自己欺瞞にすぎない。そこまでわかってても、ぼくはこの文章を見直さない。どうにかしなきゃね。

 「ダメだからダメ」中毒者が日本中に増えており、それは平成の教育が目指したものだった。ブラック企業の新人研修を受託している人材育成会社アイウィルが、「合理的に考えればおかしい」ことを平気でして、それが通用するのも、平成教育のたまものでもあり弊害でもある。新卒全員とはいわないが、ダメなものはダメを何度も刷り込んできた大卒を洗脳するのはむずかしいことじゃあない。

 ひとを殴ったら逮捕されるが、「ゴルフやめろ」といって趣味を取り上げてそのひとが自殺をしてしまっても、逮捕されない。「ダメ」というコンセンサスがないものは、とことん無視される。殴るのは「ダメ」、だから体罰も「ダメ」というコンセンサスの接続に議論はない。議論ははさまれない。体罰もダメ。ダメだからダメ。どうしても理由を説明しなきゃいけないときは、教育効果がない、人格がゆがむなどのその場しのぎ。体罰をうけて育ってきたひとたちが口をはさんできたら面倒だから、時代錯誤とかなんとか言っておけば、「はい、論破」。

 平成は議論の土台をつくりにくい。教育は洗脳だとだれが最初に言ったかしらないが、ダメだからダメ、という教育を受けてきたせいで、「どこから考え始めようか」というコンセンサスをつくりにくい。議論ができるひとだと思っていたひとでも、急に「それはダメだからダメだよ」なんて言ったりする。「ダメ」を合言葉にショートカットすることでいいこともあるが、もちろん悪いこともある。そのツケを無視したら、次の世代に迷惑をかけることになる。いまの世代は、統計学もやる、ディベートもやる、会話もやる、この世代が育ったとき、きっとぼくら平成はめちゃくちゃバカにされる。いや、バカにはされなくとも、仕事とかいろいろなものを奪われる。AIの心配をするくらいなら、後生おそるべしと知るべきではないか。

 と、まあ、思いつきをぺらぺらしゃべってきたが、言いたいことは「じぶんの不安を知るのが先、周知が後」ということ。

友だちの作りかた――状況と役割と序列

 友だちがほしい、あるいは(友だちという関係を土台にした)恋人がほしいと心から思っているひとがいるだろう。しかし、その欲望(Desire)を純粋な意味で満たすことはできない。求めれば求めるほど遠ざかり、遠ざかれば遠ざかるほど欲望は増していく。「友だちがほしい」とか「恋人がほしい」は、じぶんのなかに回収されることがなく、ひたすら届かないところに手をのばしつづける行為を産むといえる。

 大事なのは「友だちがほしいなんて思わなくなるところまで行ってから、はじめて(あらためて)友だちを作ること」である。そのためには、パラドキシカルなことになるが、まず友だちを作る必要がある。その目的は「友だち」という欲望を捨て去ること。求めれば求めるほど遠くなってゆく「友だち」という得体のしれないなにかにサヨナラを告げること。

 ここからは、求めれば求めるほど遠くなってゆくほうを「概念的な友だち/形而上学的な友だち」と位置づけ、〈友だち〉と表記する。一方で、一般にひろく自由に使える「友だち百人できるかな」的な意味での友だちを、そのままなにもつけずに 友だち と表記し、強調するときは「友だち」とする。

 まず、友だちや恋人にはいろいろな種類がある。あまりに自由なので、みんなが好き勝手に形作る。はやりの「多様化/ダイバーシティ」と言ってもいいけれど、とにかく種類が多い。そしてそれは悪いことではない。幼いころに親や先生や文学に植え付けられた〈友だち〉に縛られているよりよっぽどマシだとぼくは思っている。そして多様な友だちと付き合うなかで、〈友だち〉の呪縛から外れてゆけば、もしかしたら〈友だち〉に近い存在ができるかもしれない

 友だちをおおざっぱに分類すると、


(1)学校やサークルでほとんど勝手にできる「状況的な(自動的な)友だち」
(2)状況を条件的に妥協しあう「契約的な(条件的な)友だち」
(3)可処分でほぼ一方的に飼える「後輩的な(愛玩動物的な)友だち」
(4)都合のいいところだけを食い合う「交換的な(役割的な)友だち」
(5)相手の一方的な和解を逆利用して序列を奪うことに成功した「支配的な(奴隷的な)友だち」
(6)利害関係から外れ純粋な友情によって関係しているように思える〈友だち〉っぽい「理想的な(究極的な)友だち」


こんな感じになるだろうか。だれかと友だち(や恋人)になるためには、これらのどれかに当てはまらなければならない。

 たとえば、おなじ学校に通うことができれば、学校にはあらゆるくくりがあるからそれを利用して状況的な友だちになればいい。成績が悪いという共通点だけで「補習組」というくくりを与えてもらえるし、委員会がおなじとか、なんならべつの委員会に属していても役職がおなじというだけでくくったりもできる。学校の到着時間が近いとか、通学方向がおなじとか、スクバのボロボロ具合が一緒とか、もうなんでもいい、そういうあらゆる意味不明なくくりで自動的に「友だち」になれる。その代わり、卒業などで学校という土台をなくした途端に(一度)終了してしまう。

 学校でちょうどよく友だちが作れたひとは、〈友だち〉を保留できる。しかし、過不足、つまり多すぎたり少なすぎたひとは、〈友だち〉のイメージに襲われる。周りにひとがいすぎるとついつい〈友だち〉を求めてしまうし、いなさすぎても同様になる。そのあたりがとてもむずかしい。

 次。なにかにくくられなくても、媚びれば「ペット」ぐらいにはしてもらえる。だれだって心に隙間はあるから、そこをぺろぺろ舐めていれば「後輩ポジション」というのを得られる。それも立派な友だちだろう。男がよく使う「お前は妹にしか思えねえ」は、相手を後輩ポジションにはめ込もうとしている意思表示であり、それを言えちゃうような相手は往々にして懸命に媚びるタイプの人間だったりする。つまり、媚態のかぎりを尽くせば、まあだいたいまちがいなく後輩的な友だちにはなれる。

 たがいの性器に触れることを許し合えば、セフレというものにもなれる。これも友だちだと言えるし、状況的な友だちよりおたがいのすべきことがはっきりしているのでわかりやすいから保持しやすい。たがいにステータスがほしいだけでも成り立つし、「高収入な男」と「家庭的な女」を交換する夫婦もある。戦略的な交換でいい。学生のころなんかはもうすこし青春的だから、「ルックスのいい男」と「完全服従な女」が交換できたりする。逆もありえるし、大人になってもやってるかもだけど。意識高い同士で「高い意識と高いモチベーション」を交換しあえば勉強友だちみたいな感じになるし、それはセフレとなにも変わらない。

 序列を奪った友だちというのは、わかりにくいかもしれないが、いわゆる「格付け」である。「社会経験が多い」とか、「経験人数が多い」とか、「収入が高い」とか、「流行やファッションに詳しい」とか、「読書量が多い」とか、「家族や恋人により愛されている」とか、「学歴が高い」とか、「ファンの数が多い」とか、「受賞歴が多い」とか、「よりコスパがいい」とか、「ライフハックをより知っている」とか、「意識が高い」とか、「あつかえる言語数が多い」とか、「留学期間が長い」とか、とにかく相手が持っていないものをじぶんは持っているというやりかたでどっちが上かを理解させること。そして、そんな高みにいる存在を無視すべきではない、という理屈をうまく押し付けて友だちになるパターン。

 これはだいたい無自覚でやってることが多いと思う。だいたいが「自慢」と「自虐」に回収されているのかなと想像するが、会話の端々、自己紹介の隅々に、こういった序列ポイントが散りばめられている。たとえば、ぼくの場合、自己紹介で「小説家です」と言う場合と言わない場合があって、これは序列をみてほぼ無意識にやっている。(1)相手が採用・参加している序列や格付け、(2)その序列や格付けにおいてじぶんのほうが上にいること、このふたつを無自覚に推理してから出す情報や見栄を決定する。

 奪い合いというのがイメージできないひとのために、すこし長めの引用をする。わかるひとは飛ばしてほしい。

 まず前提情報として、ブルームバーグの記事の冒頭を読む。「英スコットランド出身の女優で今年6月に同長官と結婚したリントンさんは、政府専用機を降りる自らの写真をインスタグラムに投稿。写真には販売価格が1万ドル(約109万円)を超えるエルメスバーキンと見られるハンドバッグが写っていたほか、リントンさんは身に着けていたデザイナーズブランドの衣服、靴、サングラスのそれぞれにブランド名が分かるようにハッシュタグを付けていた。ムニューシン長官の公務は全米で最も貧しい州に数えられるケンタッキー州で、中間層向けの減税などトランプ政権の税改革アジェンダをアピールするものだった。」(『ムニューシン財務長官の妻、インスタ投稿巡り謝罪-旅費支払いへ』)。

 そこへ、市民がこんな煽りコメントをいれる。

jennimiller29: Glad we could pay for your little getaway. #deplorable
(ジェニーミラー29: あなたの小旅行にお金を払えたなんて嬉しい【悲報】) 

 アメリカでは、すべての文に小さな皮肉(or ユーモア)をいれるのがちょっとした文化なので、こういうのはよくある。

louiselinton: @Jennimiller29 cute!....Aw!! Did you think this was a personal trip?! Adorable! Do you think the US govt paid for our honeymoon or personal travel?! Lololol. Have you given more to the economy than me and my husband? Either as an individual earner in taxes OR in self sacrifice to your country? I’m pretty sure we paid more taxes toward our day “trip” than you did. Pretty sure the amount we sacrifice per year is a lot more than you’d be willing to sacrifice if the choice was yours. You’re adorably out of touch. Thanks for the passive aggressive nasty comment. Your kids look very cute. Your life looks cute. I know you’re mad but deep down you’re really nice and so am I. Sending me passive aggressive Instagram comments isn’t going to make life feel better. Maybe a nice message, one filled with wisdom and hunanity would get more traction. Have a pleasant evening. Go chill out and watch the new game of thrones. It’s fab!
(ルイスリントン: @ジェニーミラー29 なんと!…ええ!これが個人旅行だと思ったの!?すごい!合衆国政府がハネムーンとか個人旅行に予算をつけてくれると思ってるの!?笑笑笑 あなたは私や夫よりも経済を回したことある?個人としての税金も国への献身も多くやった?私はあなたよりも多くの税金をこの『日帰り旅行』のために払ったとしか思えないけど。もしあなたが同じ立場になったとしても、この1年間で私たちが犠牲を払った量は、あなたが喜んで払う量よりも多いと思うけど。比べるまでもなくね。受動攻撃性のあるいちゃもんをつけてくれてありがとう。あなたのお子さん、とてもかわいらしい。あなたの人生もかわいらしいんでしょうね。怒ってると思うけど落ち着いて、あなたは本当に素敵、私も落ち着くから。受動攻撃性のあるコメントをしても人生よくならないよ。たぶん素敵なメッセージができれば、知恵と人間性であふれて、引き寄せの力が生まれるはず。落ち着いてゲームオブスローンズでも観ましょう。最高でしょ!)

 リントンさんの例は「奪い合い」であって、どちらかが序列を奪えたわけではない。そもそもインターネットでは奪い合いまでしかできない、というところがネックかもしれない。

 アメリカでは「パッシブアグレッシブ」と言って、口にしない権力争いのために受動的な攻撃性を見せることがよくあるらしい(受動的な攻撃性というのは、皮肉 ・無視・親密になることをしない ・賞賛をしない ・批判的 ・妨害行為 ・遅延・頼んだことをなにもしない、など)。若い日本人がやっているのは、どちらかというと「アグレッシブパッシブ」(攻撃的な受動性)といった感じがする。とにかく衝突を避けることがイデオロギーになっており、そのために和解前提でコミュニケーションをはじめようとする。

 つまり、まだなにも起こっていないのに和解をしようとする。衝突を避けるために和解の過剰供給をする。攻撃的な消極性である。

 序列を奪うやつというのは、この暴力的な和解を逆に利用する。勝手に和解からはじめてそんなに衝突しないことを目指したいなら権力(序列)をよこせ、ということ。冷静に読んでいると「そんなうざいやつ友だちにならなきゃよくないか…?」というもっともな疑問が生じるのだけれど、ここがコミュニケーションのおもしろいところで、そこに相手がいて、ことばをフローで交換しているときは、こういったことに気づきにくい。なんならじぶんが消極的な和解を攻撃的に繰り出していることさえ無自覚だし、相手もそれを利用して序列を奪っていることに無自覚だったりする。

 といった感じで、友だちというのは、そこまで幻想的なものでもなければ、理想的なものでもない。状況とか、条件とか、イデオロギーとか、奪い合いによって成り立っている。ただそれが悪いということを言いたいのではなく、まずは求めれば求めるほど遠くなっていって、勝手に苦しくなってしまうような〈友だち〉の呪いから離れるべきだということが言いたい。園児や小学生のときに植え付けられた呪いから自由になったとき、はじめて、もしかしたら、たくさんいる仲間のなかから、ふつうの友だちのなかから、〈友だち〉と思えるようなひとが見つかるかもね、という話だった。

 今日はこのあたりで、あとはあみめでぃあで続きを考える。

企業が落語をやるとキレるひとたち――牛乳石鹸のウェブコマーシャルについて

 ろくでもないやつを「いい加減で」許してやる、それが落語の結論である。ひとは落語をみてきいて、おれはそうはならないぞとか、わたしみたいなろくでもないやつがいるんだなあとか、じぶんにもそんなときがあったとか、そういう「もうひとりのフィクショナルなじぶん」をしずかに持ち帰る。

 他人というのは、そのまた他人からしたら「しごくどうでもいいような悩み」を抱えながら生きている。ツイッター辞めようかなとか、ラインをアンインストールしようかなとか、たとえばぼくならそういうことをもう四年ほど悩んでいる…(笑)

 しごくどうでもいいような悩みというのは、どういうわけだか、そのひとの実存と直結して(しまって)いる。その悩みを乗り越えなければ、じぶんの存在そのものが危ぶまれる気がしてくる。乗り越える必要も、解決する必要も、答えを出す必要も、いっさいないというのに、その問題を無視した瞬間、じぶんのなかのなにか大切なものが終わってしまうような気さえしてくる。それは過剰な自意識のトラブルなのだろうけれど、心理学的に分析したところでなにかが変わるわけではない。

 ビデオの「父親」だろうと、ほとんど描かれなかった「母親」だろうと、誕生日を心待ちにしていた(かもしれない)「子ども」だろうと、みんな、そういった特殊な問題を抱えている。平等や公平という原理を守るなら、家族全員の「しごくどうでもいいような悩み」を群像劇よろしく描くべきだったかもしれないが、牛乳石鹸が選んだのは「父親」のろくでもなさだった。

 「そんなんで洗い流せるかーい!」という批判的な方向性はまちがっていないが、そこでけらけら笑って「いい加減」なところで許して終わることができないひとたちのキマジメさが惜しい気がした。理想像以外は許せない完璧主義者、父親像を固定化した原理主義者、とにかくヒステリックになる男女同権主義者、落語がわからなくて「は?」とか「で?」になってる自称分析屋のブロガー、あとから出てきて偉そうにしているわたくし――そういう馬鹿どものことさえも、やはりいい加減で許してやるぐらいのいい加減さがあっていい。さ、洗い流そうってボケて、やはり「そんなんで洗い流せるかーい」とツッコんで、笑って、許して、また明日を生きる。

 企業のエゴ、消費者のエゴ、父親のエゴ、母親のエゴ、ツイッタラーのエゴ、ブロガーのエゴ、ぶつかることもあるかもしれないが、もうひとりのフィクショナルなじぶんをしずかに持ち帰るということもしていただけたら、と願う。いや、ぼくが制作したわけじゃあないので、これは擁護者のエゴなのだが。洗い流してくだせえ。

なぜ障害者差別がなくならないのか

 百人いたら、九十四人が健常者で、六人が障害者ということになる。その六人のうち重度の障害を得ているひとは、施設などに閉じこめられたりしながら、できるだけ人々の暮らしに姿を見せないよう強いられている。それを「差別」というキーワードで非難するひともいれば、やむをえないのだ勝手に納得して沈黙に徹しているひともいる。
    たとえば六人がすべて健常者になれば、年間の2兆円に近い障害福祉予算が健常者のほうに回ってくる。逆に九十四人が障害者になったら、この国は成り立たなくなるかもしれない。九十四人が健常者であることは、あまり語られないが、日本の社会にとって非常に大事な前提となっていると言える。
 身体障害、知的障害、精神障害内部障害、いろいろな障害がある。見えるものから見えないものまで様々なのだが、どうしてそれ以外は障害ではないのだろうか。いや、あてはめようと思えば、拡張しようと思えば、九十四人のうちの半分は、障害と健常のグラデーションによって、なにかしらの障害を得ていることになるだろう。それなのになぜ、ぼくらは健常者として生きているのだろうか。
 障害者差別がなぜなくならないのか、という問いにひとつの暫定的な回答を与えるとすれば、それは、健常者にとって「なってはいけない存在」だからである。
 もちろん障害者をいっしょくたにして語ることはできない。施設というところで社会から排除されている重度のひともいれば、二種までもらったのに一円としてもらえず健常者のように働いているひともいる。あるいは重度障害者のなかにも自立支援や生活支援を受けて地域に参加しているひともいる。寝たきりになって数百万円の障害年金を溜め込んでしまっているひともいる。障害年金生活保護をパチンコに費やすひといるし、親が金持ちでベンツに乗っている障害者だっている。もちろん不正受給するひとだっている。いろいろだ。
 ただ共通して言えることは、すくなくとも健常者との「ちがい」を強調していかないと、優遇する根拠を失ってしまうことである。健常者のようには働けない理由が必要で、そこを強調することで差別が生じてしまうのだと思う。
 たとえば手が一本ないということをどう解釈するかという問題がある。「手が一本ないだけ」と思うことも可能だし、「手が二本なくては生きていけない」と思うこともできる。本人の解釈もあるし、まわりの解釈もある。あたりまえだが、正解なんてものはなくて、「手が一本ないだけだろ、ガタガタ言うな」と切り捨てることも(賛成はできないが)まちがっているわけではない。
 それに対する「あなたが手を一本うしなったときに同じことが言えますか?」という応答が、倫理めいたことを勉強しているひとたちのキーフレーズとなっているが、もちろん即答でイエスのひとだっているだろう。同じ状況を想定させることが正解というわけではない。イエスと答えるひとたちにとって、身体障害者とか四肢不自由のひとが優遇されるのは納得のいかないことであり、圧倒的に説明不十分のことである。じぶんは〈こんなに〉苦しい暮らしをしているのに、なぜ手が一本〈ないだけで〉月に何万円も税金が使われて、障害者枠で就職することができて、優遇されるのかという疑念に、正しい回答を与えることはむずかしい。
 ちがいを強調すればするほど、差別は助長される。推奨されるといってもいい。〈俺の生活だって手が一本ないのとおなじだけ苦しいんだ〉と主張するひとに対して、ぼくらはなにができるのだろうか。我慢してくださいと言うべきか、じぶんの苦しさを過大に見積もってますと追い返すべきか、まず就職活動してくださいとさとすべきか。九十四人の健常者の生活を覗いてみたら、何人ぐらいが我慢を強いられていて、何人ぐらいが追い返されていて、何人ぐらいがさとされているのだろうか。
 「差別はしてはいけません」とか、「障害は個性です」とか、「尊厳は大切です」とか、そういう大事な原理があったとしても、その原理を採用することによって排除されてしまうひとたちもいる。九十四人の健常者が、六人の障害者よりも生きやすいかどうかは、だれにもわからない。生活保護を拒否され餓死したあのひとはどっちだったのか、あるいは話を聞かずに追い返した市役所の職員はどっちだったのか。あなたの嫌いな無能な上司はどっちなのか。毎朝のように駅員に文句を言っているあのサラリーマンはどっちなのか。飲み会あとの駅前で信じられないほどの大声で笑いあっているあのひとたちはどっちなのか。
 無能なアイツを「無能だな」と見下すことは簡単だが、もしかしたら軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのに、支援を受けることができていないひとなのかもしれない。あるいはいちいち他人がじぶんよりも無能かどうかを気にしなければ生きていけないひとも、軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのかもしれない。
 それでも支援はありえない。「もっと支援すべきひとたち」が存在することによって、そしてその根拠として差を強調することによって、支援されたほうがいいひとたちは地力で生きてゆくことになる。「大して変わらない」という思いを抱きながら、障害者とじぶんはちがうんだということを学習する。
 だれが割を食っているのか。福祉の根拠とはなにか。差別を「挟む」ことでしか成り立たないぐらい、みんなが困窮していて、みんなが割を食っていて、みんなが支援を求めている。障害を得たひとを優遇しようね、というなんてことのない話が、もう無理になっている。
 逆にいえば、割を食っていると思わなくなれば、ことさら障害者優遇の根拠として「ちがい」を強調しなくてよくなるし、差別もなくなっていくのだと思う。「優遇」からじぶんの存在が取り消されても、それでもじゅうぶんにやっていけるだけのお金やリソースがあれば、疎外感をいだくこともない。「なんであいつだけ」という感覚に陥らずに済む。
 いまは差別が前提となっているため、差別をなくすことはできない。「ちがう」ということを強調することで我慢してもらっているため、どうしても分断しなければならないところにいる。「差別はいけません」と言い続けることがなんになるのか。差別者を断罪することがなんになるのか。人権を振りかざしてなんになるのか。尊厳が大事だというひとは、昼過ぎから次の日の昼前まで拘束されて日給9,000円しかもらえない障害者施設の労働者の尊厳をどう考えるのか。ご飯を顔面に吐き出されて罵倒を浴びせられたあとの、粗大ゴミのような気持ち、それでも障害者だからしかたないしそれが私の労働なんだと気を取り直して、もういちど食べてくれるようコミュニケーションし直すときの、あのときの労働者の日給9,000円の尊厳というのは、見逃されがちだろう。
 「尊厳が大事だ」「障害者を差別するな」「人権を守れ」というのはどれも大切なことなのだが、朝昼晩で拘束されながらゴミのように扱われながら9,000円しかもらえないのに、それをだれかがやらねばならなくて、それをあなたがやってくれるのかという話だって大切だろう。
 さて、ぼくらはどこを出発点にすべきなのだろうか。差別が前提になっている社会のありかたか、それとも人権という原理か、施設労働者の尊厳か。障害者としては認められていないけれど、割を食っているひとはたくさんいる。そういうひとたちは、これまで通り健常者でいいのか。自己責任論で一掃するか。何度でも最初から考え直したいことだと思う。

無銭飲食という文化

La acción estuvo perfectamente coordinada: cuando el servicio del Hotel Carmen de Bembibre, León, sacó la tarta, se encontraron el salón vacío. Los 120 invitados al convite del bautizo se habían levantado y dejando tras de sí una deuda de más de 2.000 euros. "Fue cosa de un minuto y no se pudo hacer nada por detenerlos, porque era algo que ya habían previsto y salieron en estampida" - lamentaba el hostelero Antonio Rodríguez al relatar a la prensa el que ya se considera "el mayor sinpa de la historia". Explicó a la radio SER que los comensales "estaban bailando y desaparecieron; en un minuto marcharon las cien personas". "No fueron saliendo cuatro a cuatro, no, no, todos de golpe", detalló. Los empleados del local no pudieron pararlos, añadió: "No te puedes enfrentar a esta gente así, porque son muchos".
――「Unas cien personas salen corriendo de restaurante sin cancelar la cuenta


 どえらいニュースが入ってきたというか、被害にあった店には申し訳ないが、腹を抱えずにはいられなかった。日本でも既に話題になっているようだが、まるでフラッシュモブのようなノリで食い逃げをするスペイン人。120人で2000ユーロの宴会型無銭飲食、しかもみんなでダンスをしながらすばやく逃げるという絵面の珍奇さ。「estaban bailando y desaparecieron; en un minuto marcharon las cien personas/ダンスをしながら消えていったんだ、ほんの一分のあいだに百人ものひとが」。食い逃げに一分もかけるという発想がぼくにはわからないが、落語の「時そば」も似たようなものなのかもしれない。
 「el mayor sinpa de la historia/史上最悪の食い逃げだ」というオーナーのコメントに出てきた「sinpa」(シンパ)という単語が気になった。調べてみるとどうも食い逃げという俗語らしい。否定を意味する「sin」(シン)と支払いを意味する「pagar」(パガール)を複合して短縮した俗語のようで、むりやり日本語でもおなじことをするならば「ムセン」と言ったら無銭飲食のこと、というイメージだろうか。
 食い逃げを含む「支払い」行為は、その国柄のようなものが出ている気がする。フランスのカフェを見れば、机にお金を放る感じがお洒落だし、それで通用する。かと思えば煙草を吸いに出るには身分証明書を預ける必要がある。
 ドイツでは個人主義が徹底されているので、かならず数パーセントの単位で割り勘になる。恋人同士でも交互におごり合って完全に割り勘になるようにするのが基本。「Geizig macht glücklich/ケチがあなたを幸せにする」とか、「Geiz ist geil/ケチはよい」とか、そういうキャッチコピーが受けるぐらいケチ根性のようなものが土壌になっている。チップもすくなめ。
 アメリカだったらチェック(小切手)とか、最近ではチェックカードとか、やはりかっこいいなと思ってしまう。小切手やカードがあるから、紙幣をそこまで持ち歩かないのも文化的かもしれない。その代わりコインが面倒くさい。チップは細かいところまで計算して10%になるようにして支払うひとが多い印象。
 日本人のぼくらの支払いはどうだろうか。どうやって支払うのがたのしいだろうか、あるいはうれしいだろうか、おもしろいだろうか、ストレスフリーだろうか、スムーズだろうか、印象的だろうか、芸術的だろうか、文化的だろうか。レシートはもらわない主義とか、お釣りの枚数と種類の最適化する小銭の出しかたとか、それをしようとして混乱する客と、おなじく混乱する店員、結局10円おおくて変な空気で精算することになったり。ぼくのことですけど。
 そういう支払いにも名前がつくようになれば、文化的になってゆくのかもしれない。シンパとか、ムセンみたいな感じで。