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ケルクショーズ・イリヤ(Quelques Choses - il y a)

らららぎの思想の河床。記事まとめ▶ http://chatte.hatenablog.jp/entry/2017/03/05/011325

なぜ障害者差別がなくならないのか

 百人いたら、九十四人が健常者で、六人が障害者ということになる。その六人のうち重度の障害を得ているひとは、施設などに閉じこめられたりしながら、できるだけ人々の暮らしに姿を見せないよう強いられている。それを「差別」というキーワードで非難するひともいれば、やむをえないのだ勝手に納得して沈黙に徹しているひともいる。
    たとえば六人がすべて健常者になれば、年間の2兆円に近い障害福祉予算が健常者のほうに回ってくる。逆に九十四人が障害者になったら、この国は成り立たなくなるかもしれない。九十四人が健常者であることは、あまり語られないが、日本の社会にとって非常に大事な前提となっていると言える。
 身体障害、知的障害、精神障害内部障害、いろいろな障害がある。見えるものから見えないものまで様々なのだが、どうしてそれ以外は障害ではないのだろうか。いや、あてはめようと思えば、拡張しようと思えば、九十四人のうちの半分は、障害と健常のグラデーションによって、なにかしらの障害を得ていることになるだろう。それなのになぜ、ぼくらは健常者として生きているのだろうか。
 障害者差別がなぜなくならないのか、という問いにひとつの暫定的な回答を与えるとすれば、それは、健常者にとって「なってはいけない存在」だからである。
 もちろん障害者をいっしょくたにして語ることはできない。施設というところで社会から排除されている重度のひともいれば、二種までもらったのに一円としてもらえず健常者のように働いているひともいる。あるいは重度障害者のなかにも自立支援や生活支援を受けて地域に参加しているひともいる。寝たきりになって数百万円の障害年金を溜め込んでしまっているひともいる。障害年金生活保護をパチンコに費やすひといるし、親が金持ちでベンツに乗っている障害者だっている。もちろん不正受給するひとだっている。いろいろだ。
 ただ共通して言えることは、すくなくとも健常者との「ちがい」を強調していかないと、優遇する根拠を失ってしまうことである。健常者のようには働けない理由が必要で、そこを強調することで差別が生じてしまうのだと思う。
 たとえば手が一本ないということをどう解釈するかという問題がある。「手が一本ないだけ」と思うことも可能だし、「手が二本なくては生きていけない」と思うこともできる。本人の解釈もあるし、まわりの解釈もある。あたりまえだが、正解なんてものはなくて、「手が一本ないだけだろ、ガタガタ言うな」と切り捨てることも(賛成はできないが)まちがっているわけではない。
 それに対する「あなたが手を一本うしなったときに同じことが言えますか?」という応答が、倫理めいたことを勉強しているひとたちのキーフレーズとなっているが、もちろん即答でイエスのひとだっているだろう。同じ状況を想定させることが正解というわけではない。イエスと答えるひとたちにとって、身体障害者とか四肢不自由のひとが優遇されるのは納得のいかないことであり、圧倒的に説明不十分のことである。じぶんは〈こんなに〉苦しい暮らしをしているのに、なぜ手が一本〈ないだけで〉月に何万円も税金が使われて、障害者枠で就職することができて、優遇されるのかという疑念に、正しい回答を与えることはむずかしい。
 ちがいを強調すればするほど、差別は助長される。推奨されるといってもいい。〈俺の生活だって手が一本ないのとおなじだけ苦しいんだ〉と主張するひとに対して、ぼくらはなにができるのだろうか。我慢してくださいと言うべきか、じぶんの苦しさを過大に見積もってますと追い返すべきか、まず就職活動してくださいとさとすべきか。九十四人の健常者の生活を覗いてみたら、何人ぐらいが我慢を強いられていて、何人ぐらいが追い返されていて、何人ぐらいがさとされているのだろうか。
 「差別はしてはいけません」とか、「障害は個性です」とか、「尊厳は大切です」とか、そういう大事な原理があったとしても、その原理を採用することによって排除されてしまうひとたちもいる。九十四人の健常者が、六人の障害者よりも生きやすいかどうかは、だれにもわからない。生活保護を拒否され餓死したあのひとはどっちだったのか、あるいは話を聞かずに追い返した市役所の職員はどっちだったのか。あなたの嫌いな無能な上司はどっちなのか。毎朝のように駅員に文句を言っているあのサラリーマンはどっちなのか。飲み会あとの駅前で信じられないほどの大声で笑いあっているあのひとたちはどっちなのか。
 無能なアイツを「無能だな」と見下すことは簡単だが、もしかしたら軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのに、支援を受けることができていないひとなのかもしれない。あるいはいちいち他人がじぶんよりも無能かどうかを気にしなければ生きていけないひとも、軽度の障害かもしれない。支援されるべきなのかもしれない。
 それでも支援はありえない。「もっと支援すべきひとたち」が存在することによって、そしてその根拠として差を強調することによって、支援されたほうがいいひとたちは地力で生きてゆくことになる。「大して変わらない」という思いを抱きながら、障害者とじぶんはちがうんだということを学習する。
 だれが割を食っているのか。福祉の根拠とはなにか。差別を「挟む」ことでしか成り立たないぐらい、みんなが困窮していて、みんなが割を食っていて、みんなが支援を求めている。障害を得たひとを優遇しようね、というなんてことのない話が、もう無理になっている。
 逆にいえば、割を食っていると思わなくなれば、ことさら障害者優遇の根拠として「ちがい」を強調しなくてよくなるし、差別もなくなっていくのだと思う。「優遇」からじぶんの存在が取り消されても、それでもじゅうぶんにやっていけるだけのお金やリソースがあれば、疎外感をいだくこともない。「なんであいつだけ」という感覚に陥らずに済む。
 いまは差別が前提となっているため、差別をなくすことはできない。「ちがう」ということを強調することで我慢してもらっているため、どうしても分断しなければならないところにいる。「差別はいけません」と言い続けることがなんになるのか。差別者を断罪することがなんになるのか。人権を振りかざしてなんになるのか。尊厳が大事だというひとは、昼過ぎから次の日の昼前まで拘束されて日給9,000円しかもらえない障害者施設の労働者の尊厳をどう考えるのか。ご飯を顔面に吐き出されて罵倒を浴びせられたあとの、粗大ゴミのような気持ち、それでも障害者だからしかたないしそれが私の労働なんだと気を取り直して、もういちど食べてくれるようコミュニケーションし直すときの、あのときの労働者の日給9,000円の尊厳というのは、見逃されがちだろう。
 「尊厳が大事だ」「障害者を差別するな」「人権を守れ」というのはどれも大切なことなのだが、朝昼晩で拘束されながらゴミのように扱われながら9,000円しかもらえないのに、それをだれかがやらねばならなくて、それをあなたがやってくれるのかという話だって大切だろう。
 さて、ぼくらはどこを出発点にすべきなのだろうか。差別が前提になっている社会のありかたか、それとも人権という原理か、施設労働者の尊厳か。障害者としては認められていないけれど、割を食っているひとはたくさんいる。そういうひとたちは、これまで通り健常者でいいのか。自己責任論で一掃するか。何度でも最初から考え直したいことだと思う。

無銭飲食という文化

La acción estuvo perfectamente coordinada: cuando el servicio del Hotel Carmen de Bembibre, León, sacó la tarta, se encontraron el salón vacío. Los 120 invitados al convite del bautizo se habían levantado y dejando tras de sí una deuda de más de 2.000 euros. "Fue cosa de un minuto y no se pudo hacer nada por detenerlos, porque era algo que ya habían previsto y salieron en estampida" - lamentaba el hostelero Antonio Rodríguez al relatar a la prensa el que ya se considera "el mayor sinpa de la historia". Explicó a la radio SER que los comensales "estaban bailando y desaparecieron; en un minuto marcharon las cien personas". "No fueron saliendo cuatro a cuatro, no, no, todos de golpe", detalló. Los empleados del local no pudieron pararlos, añadió: "No te puedes enfrentar a esta gente así, porque son muchos".
――「Unas cien personas salen corriendo de restaurante sin cancelar la cuenta


 どえらいニュースが入ってきたというか、被害にあった店には申し訳ないが、腹を抱えずにはいられなかった。日本でも既に話題になっているようだが、まるでフラッシュモブのようなノリで食い逃げをするスペイン人。120人で2000ユーロの宴会型無銭飲食、しかもみんなでダンスをしながらすばやく逃げるという絵面の珍奇さ。「estaban bailando y desaparecieron; en un minuto marcharon las cien personas/ダンスをしながら消えていったんだ、ほんの一分のあいだに百人ものひとが」。食い逃げに一分もかけるという発想がぼくにはわからないが、落語の「時そば」も似たようなものなのかもしれない。
 「el mayor sinpa de la historia/史上最悪の食い逃げだ」というオーナーのコメントに出てきた「sinpa」(シンパ)という単語が気になった。調べてみるとどうも食い逃げという俗語らしい。否定を意味する「sin」(シン)と支払いを意味する「pagar」(パガール)を複合して短縮した俗語のようで、むりやり日本語でもおなじことをするならば「ムセン」と言ったら無銭飲食のこと、というイメージだろうか。
 食い逃げを含む「支払い」行為は、その国柄のようなものが出ている気がする。フランスのカフェを見れば、机にお金を放る感じがお洒落だし、それで通用する。かと思えば煙草を吸いに出るには身分証明書を預ける必要がある。
 ドイツでは個人主義が徹底されているので、かならず数パーセントの単位で割り勘になる。恋人同士でも交互におごり合って完全に割り勘になるようにするのが基本。「Geizig macht glücklich/ケチがあなたを幸せにする」とか、「Geiz ist geil/ケチはよい」とか、そういうキャッチコピーが受けるぐらいケチ根性のようなものが土壌になっている。チップもすくなめ。
 アメリカだったらチェック(小切手)とか、最近ではチェックカードとか、やはりかっこいいなと思ってしまう。小切手やカードがあるから、紙幣をそこまで持ち歩かないのも文化的かもしれない。その代わりコインが面倒くさい。チップは細かいところまで計算して10%になるようにして支払うひとが多い印象。
 日本人のぼくらの支払いはどうだろうか。どうやって支払うのがたのしいだろうか、あるいはうれしいだろうか、おもしろいだろうか、ストレスフリーだろうか、スムーズだろうか、印象的だろうか、芸術的だろうか、文化的だろうか。レシートはもらわない主義とか、お釣りの枚数と種類の最適化する小銭の出しかたとか、それをしようとして混乱する客と、おなじく混乱する店員、結局10円おおくて変な空気で精算することになったり。ぼくのことですけど。
 そういう支払いにも名前がつくようになれば、文化的になってゆくのかもしれない。シンパとか、ムセンみたいな感じで。

アシモト、車輪ということばの選択肢のひとつ

 今月売りの『Let's Go 4WD』(2017年4月号)に「THE BOTTOMS 4WD・SUVホイール最前線 お洒落も性能も車輪アシモト)から」という特集が組まれていて、その添え字に感動した。
 車輪=アシモトということばの選択肢が、そもそも4WDの界隈ではふつうなのかもわからないが、じぶんは絶対におもいつかないワードセンスを感じる。

敬遠申告制について考える

 日本の野球のルールがバカスカ変わっている。
 そのたび賛意両論あるわけだけれど、今回の「敬遠申告制」の問題ではバッシングに近い勢いで反対派のひとたちが憤っている。気持ちはわかるし、声を荒げることで野球ファンなじぶんを主張したいのもわかる。だけど、どんな変更にも功罪がある(はず)。もうすこし冷静になってかんがえてもよいのではないかと思う。いま一度、野球観戦の前提から出発してかんがえだしてゆければさいわいである。
 スポーツ観戦がおもしろいのは、「意図した通りではないけれど予想の範囲内」というちょっとしたズレの部分でしっかりドラマが展開されるところだろう。もちろんスポーツによっては、ド派手なチアダンスがあったり、おもしろい広告が巨大なスクリーンに流れたり、選手がイケメンぞろいだったり、まあいろいろあるだろうけれど、代替できない部分としての醍醐味は、ほどよく――あるいは予想通り――裏切られることである。
 予想通り裏切られるというのはパラドキシカルに響くが、要するにベタということでもある。感動系の恋愛小説を読むと、ふたりのあいだに「出会い」があり、「希望」があり、「試練」があって、最後に、その恋の結論が出される。「信じられない不幸がふたりを襲い、ふたりのほんとうの愛が試される」と煽ったとしても、そこで書かれることは予想を上回らない。彼氏が急にUFOに連れていかれるような展開では、興覚めはなはだしい(もちろんそういう文学があってはいけないという意味ではない。ガルシアマルケス森見登美彦などがよく使う「魔術的リアリズム」という手法なんか、まさにベタと興ざめの紙一重をコントロールする高等テクニックである)
 ぼくらはいつでも安心して「ふたりにこんな運命が待っていたなんて」と裏切られる。それでいい。そしてその〈裏切られ〉の充足感を基礎づけているのが「すべての過程をお見せする」ということである。過程を省略された途端に、充足感は薄れてしまう。たとえば、運命的な出会いをしたふたりが、たった二ページ後に、神のいたずらとしか思えないような不運によって離れ離れになっても、「え、あ、ああ」という感じになってしまうと思う。身分のちがうふたりがいろいろあって出会い、紆余曲折あって結婚しましたという一行では物足りない。そのあいだになにがあったのかをお見せしてもらわねば困るのだ。
 その意味で、野球において、投手が投げなくていい球など一球もない。お見せしなくていい投球などありえない。敬遠を申告制にするということは、その部分を「番組的にカットすること」と等しい。もちろんバラエティ番組だったら「いろいろお見せする」のが醍醐味だから、そのためにカットされた過程がいくつも「お蔵」に伏在している。ロケ映像で移動を倍速にする工夫もある。それは「いろいろお見せする」という”Variety”の基礎づけがあるからこそ成り立つのであって、エンターテイメントによる基礎づけではない。
 しかしながら、そうは言っても、時間短縮の流れは現状の要請でもある。野球観戦は、野球観戦以外の魅力に欠けている。ファンからすればノープロブレムだろうけれど、ファンではないひとにチケットを買わせる根拠を考えたときに、野球観戦は絶望的だと言える。
 チアダンスは遠い。マスコットは身内ネタに走りがち。花火はありがたみがない。ルールがまったくわからない。動かない時間が長い。ブラスバンドは掠れてる。応援歌は聞き取れない。飲食が高い。そもそも飲食しにくい。ボールが飛んでくるの怖い。打ったあとの打球が小さくて見えない。周りの野次がひどい。リーグ戦の文脈とかどうでもいい。駆け引きはいいけど遠くて顔が見えない。イケメンはいいけど遠くて顔が見えない。試合時間長いのに椅子が優しくない。トイレまで行くと余裕で帰ってこられない。いいから早く被打してほしい。途中からしか来られないひともいるからドラマを共有しにくい。ワンサイドゲームで帰るひと多いから罪悪感さえ生じる。だいたい酒飲んでて見逃しやすいのにリプレイがほとんどない。清潔感がない。帰りの電車が混む。本気で喧嘩してるひとたちがいる。中立的な席が少ないか高い。
 これだけ並べても野球観戦がしたいというファンはたくさんいる。その事実がすでに野球観戦の魅力を端的に示しているのだが、それは説得力として機能しない。選手に払う年棒は、もうファンの落とすお金やスポンサーだけでは足りなくなってきているのだ。もっと気軽にひとを呼べる興行となる必要が生じている。
 敬遠を申告制にする。それはとんでもない決定なのだが、この事実が示唆している運営的な事情についても、ファン一人ひとり選手一人ひとりが意識できたらよいのではないかと思う。

「付き合う」とは、恋人同士がたがいにありもしない他者を想定することである

 ぼくと付き合ってください――なんて言った経験が、多少なりともぼくにだってある。いま思うといったいぜんたいハテナなことばだが、当時は、そこに信じられないほどのリアリティとアクチュアリティがあったと思う。その「愛の告白」の高校生バージョンは、個別的かつ普遍的なできごとのように思え、そのことばを吐き出す勇気を醸造するのに高校時代の貴重な数か月を要した。
 最初のころは、「なぜ付き合うのかと言えば、おたがいが好きなんだから付き合うのだ」ぐらいのなんの説明にもなっていないものだったが、そのうち思考もませてきて、「特定の異性とたがいに首尾よくやるための関係(の名辞)」ぐらいに思うようになった。そこから数年間、この結論で満足していたのだが、ようやく「じゃあそれはなんでなんだ、どうやっているんだ」という思考が追加された。
 それに対するひとつの回答として、相手の信じているであろう虚構を採用することで首尾よくいく、と断言したい。恋人だからセックスをする、恋人じゃないからセックスしない、といった一夫一婦的な虚構を《きっと(どうせ)相手は信じているんだろう》という想像のもと、一夫一婦的な関係が成り立っている。
 セックスをしたいとか、それの緩やかなバージョンとして触れ合いたいとか、まさぐり合いたいとか、身体的に肉体的につながりたいとか、抽象化して寂しさを埋めたいとか、まあなんでもいいけれど、そういうのはたぶんありがちな欲望で、だからそういう欲望はありがちに解消されればいいのだけれど、どうしても「一夫一婦的な貞操観念をきっと相手は信じている」という思い込み合いがあるので、恋人関係にあるひととしかセックスしてはいけないという掟が生じる。ありがちな欲望のありがちな解消機能を請け負い合い、恋人がセフレ化する。
 浮気もすぐにする。巷間で言われている「浮気するならバレないようにやってほしい」という謎の注意事項だって、《一夫一婦的なセフレ》という微妙な位置づけを受け容れているからこそ生じるものだと思う。あるいは浮気の責任を(ふたりの共通問題・共通責任にせず)一〇〇%浮気したひとに帰属させる過剰で独裁的な断罪思想が「ふつう」になっているのも、浮気という掟破りな行為への神経症的な不安からくるのではないかと思う。
 もちろん全カップルにおける全男女がそうだと言いたいわけではないが、たくさんのひととセックスしたり、そのゆるやかなバージョンをやりたい願望を持っているのに、一夫一婦的な虚構を《きっと(どうせ)相手は信じているんだろう》という騙され合いによって、せまい価値観のなかでおたがいを使い捨て合うことになっている。
 ぼくらがいわゆる「ビッチ」をなんの理由なしに叩こうとしたり、「ビッチ」の存在にいびつな嫌悪感をいだいたりするときは、決まってそれはダサい自己嫌悪に由来している。ぼくらは「たくさんいるであろう好きなひと」と触れ合いたいのに、それをみずから抑圧して、恋人をセフレにして、たまにバレないように浮気して、後ろめたい気持ちのまま距離ができて、別れて傷ついて、そういう実りのない自己束縛の不毛さが行き場をなくし、ビッチ叩きに流れ込んでゆく。
 逆に、いわゆる「女好きイタリア人男性」のようなアイコンに憧れるのも同根である。括弧付きの「イタリア人男性」は、しっかりと口説くことから始める。ガールフレンドひとりだけじゃなくてより多くのひととセックスだったり、まさぐり合いだったり、撫で合いだったり、添い寝だったり、キスだったりをしたいという願望と、生きるべき世界の事情をすり合わせてゆく。ビスポークで仕立てられたセクシーなスーツを着て、身だしなみを整えて、ウィットの利いた甘いことばと、そこはかとなく漂うワンナイトラブ慣れしてそうな期待感、そういったもの全体で「口説く」という倫理を持ち出す。
 その徹底的な手口への情熱に、ぼくらは憧れ、コムプレックスをいだく。相手が一夫一婦的な虚構を持ち合わせているかなんかどうだってよくて、彼らは「俺は君とヤリたいが、君は俺とヤリたいか」というアクチュアルな願望の達成――ふたりでたどり着くべき円錐の頂点――について全身で問いただしている。(もちろん断っておくが、奥手なイタリア人もいる。当然のこととして、声の小さい中国人もいるし、ノリの悪いスペイン人もいるし、味音痴なフランス人も、陰気なアメリカ人も、不真面目な日本人もいる)
 ラカン的に言えば「騙されないひとは彷徨っているんだよ」ということだろう。「イタリア人男性」は彷徨っているから、変な思い込みに騙されない。俺が今夜ヤリたい君と君が今夜ヤリたい俺の二重一致を探し彷徨っている。
 このダラダラしたトークでなにが言いたかったか――「付き合い」というのは相手の想定を想定することでなにも確かめずに話だけを進めるということである。話さえ進んでゆけば、ぼくらは「うまくいっている」気がする。話が滞ると「うまくいっていない」気がしてしまう。なにごともないことは善いことであるという短絡的な推論で平和を決定する。〈相手のことが好きだから〉相手のことはお見通しで、ぼくらはそうやって首尾よく事を進める。手をつないで、下の名前で呼んだ、部屋に遊びに行った、キスをした、エッチをした。そうやって具体的な行動が「進んでゆく」ことで、うまくいっていると評量できると思っている。
 恋愛は盲目の病ではなくむしろ〈透視の病〉だと指摘したのは、ロラン・バルトだった(『恋愛のディスクール』)。恋人のことならお見通しだという全能感は、そもそも付き合うことが、相手が信じているだろう虚構をあえて採用しながら首尾よくやることであるところから生じていると思う。
 それが悪いことだとは言わないし、否定するつもりもない。だけど、その〈思い込みの回り込み〉は、行くところまで行ったときに必ず撃沈する。こういうことを信じているだろうと信じることは、欲望の加速の燃料となってくれるが、ブレーキになってくれることはない。ときには関係や世界を相手どって「口説き明かす」ことも必要なのかもしれない。

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ラカンからの着想でしたが、当然、ジジェクにご執心のぼくは、ジジェクからに拠っています。

そこでは、よく知られているように、どこの店にもつねに何かが欠けている。トイレットペーパーが市場に豊富にあるという仮説から出発するとしよう。突然、出し抜けに、トイレットペーパーが不足しているという噂が流れ出す。この噂のせいで、人々は争ってトイレットペーパーを買い漁る。そしてもちろんその結果、トイレットペーパーが実際に市場から姿を消す。一見すると、これは予言の自己成就という単純なメカニズムみたいに見えるが、実際にはもうちょっと複雑なメカニズムが働いている。各個人はこう推論する。「私は素朴でも馬鹿でもない。店にはトイレットペーパーが腐るほどあることを知っている。しかし多分、噂を信じる素朴で馬鹿な連中がいるだろう。連中は噂を真に受け、それにしたがって行動するだろう。つまり必死になってトイレットペーパーを買い漁るだろう。そうしたら実際にトイレットペーパーがなくなるだろう。私はトイレットペーパーがじゅうぶんあることを知っているが、それでもたくさん買い込んだほうが得策だろう」。重要な点は、この「信じているはずの他人」がかならずしも実在しているとはかぎらないのである。「実在するはずだ」と他の人々が考えさえすれば、その効果は実際にあらわれるのである。明確に閉じられた集団においては、どの個人もこの「信じているはずの他人」の役割を演じることができる。誰が演じても結果はまったく同じである。トイレットペーパーが実際になくなるのである。最終的にトイレットペーパーがなくなって困る人は真理に固執する人である。彼は「これは噂にすぎない。トイレットペーパーはじゅうぶんある」と自分に言い聞かせ、それにしたがって行動するのである。

――S・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』

 

 

 

 

こんな風に音楽に噛んだ罪――街中の音楽を愛せるとき

 「にらめっこしましょ、笑うと負けよ、あっぷっぷ」と書けば、自然とあのメロディが思い浮かぶ。「あーそーぼー」と書いても、きっとなんとなくのメロディが揃ってくる。ぼくらは歌っている。たったひとつの情報を伝えるために、いちいちメロディをつけて、めんどうくさそうなやりかたを採用する。
 音楽というのは、思ったよりも溢れている。逆に「これも音楽なんだ」と気づいたときに、まるで正解発表のように、そうです実はこれも音楽でした~、と正体をあらわにしてくれる。
 アニソンクラブに行くと、アニソンが流れている。ディスクジョッキーが流していると言うほうがいいのかもしれないが、とにかく流れている。生き残りたい、生き残りたい、い、い、い、いいいいいいい、流星にまたがって……そうか、クラブでかかっている音楽が無断使用なのは見て見ぬふりするとして、こうやってアニソンを聴くのは初めてだ。濃紺の星空に急上昇してしまいそうな、そんな新鮮で、ドキドキな感覚を知る。
 帰りの電車でiPhoneの通知がぴょこん。もしかしてこれも音楽か、なんて行き過ぎたことを思いながら見てみると、フォロワーさんがツイキャスを始めたとのこと。世界の音を遮断するためにイヤフォンで視聴する。バッハの旋律を夜に聴いたせいです、だってさ。もうちょっと居続けると、ラフメイカー冗談じゃない、なんて言う。いや、言っているわけではなく、流れている。これも無断使用だろうけれど、そういうことじゃあない、こんな風に音楽を聴くことなんて、これまでなかったなあ、と濃紺の星空に急上昇する。キラッ☆
 渋谷から新宿まで乗って、うーん、なんとなく家に帰りたくない。わらわは帰りとおない、なんてワガママな気持ちが、バッハの旋律を聴いたわけでもないのに現れて、仕様もない、映画館のレイトショウを観る。やすいし、ひとも少ない。I like to be in America. Okay by me in America. Everything free in America……観る映画まちがえたかな。でもこういう風にミュージカルを聴くっていいね、これまでなかった。映画はいつも音楽を新しく聞かせてくれる。濃紺の星空は、もういいか。
 深夜、金曜日と土曜日が相互侵食して、いつになく微妙になっている新宿南口。ドゥン、タ、ドゥドゥンドゥン、タ。パーリ、パ、パ、パーリ。アカペラかな。君と出会ってからいくつもの夜を語り明かした、選曲がしぶいなあ。でもこういう夜に、こういうアカペラは滲みちゃうかもね。肉声のあたたかさと目覚ましさ、そういうのもあっていい。
 音楽を思い巡らす。ライブもいいし、合唱もいいね。クラシックやオペラもよかったし、中学の木工授業でオルゴールを作ったなあ。あれから僕たちはなにかを信じてこれたかなって、解散しちゃったけどね。ギターもやるピアノもやる、ウクレレになると一気に調音がゆるくなって、むしろ音程のズレが味になる。西武新宿のユニカビジョンではライブのDVD映像が流れ、そういえば初音ミクとBUMPがコラボした映像も視聴した。あれって、すごいよなあ。初音ミクをあんな風に聴くことはなかったし、BUMPをあんな風に聴くこともなかった。俳句とか短歌だと二物衝突っていうけど、まあそれってことで。
 ラジオは、リバイバルブームだってさ。iPhoneFMトランスミッターつけて古いラジオに音楽を飛ばすと最高にレトロな感じなんだけれど、わかってくれるひとは少ないかもしれない。実はレコードには溝が一本しかないことも若いひとは知らないかもしれない。マスタリングは職人にしかできなくて、あれだけ豊富な音色を一本の複雑な溝と一本の尖った針だけで出していたというのはすごいとしか言えない。
 ローリング・ストーンズは還暦を過ぎてもヘタクソで、だからこそいいのだとみなが口をそろえて言う。日本の音楽シーンが着うた音質と揶揄されるようになってから時代はいくぶん進んだけれど、波形をみると昆布になっていたり、ハイレゾと言いながらやっぱり昆布だったり、ピッチは上手に調整されていて、ヘタな音楽を聞けるのはネットとカラオケと軽音ぐらいになったのだろうか。
 それで、結婚式でも音楽を聴かされる。似たような選曲が目立つけれども、キャンユーセレブレー、いいね、こういう式で聴かされるというのは。なんかミサを思い出すなあ。ミサもだいたい音楽だった。朗読も新しい音楽で、伝言ゲームも音楽と言えるかな。野球観戦に行けば、応援団が吹奏楽をやっている。ついつい乗っちゃうけど、試合の後半はペットがカスカスになっていて、うーん、でもそれが良かったりする。ロボットには代わらないで。
 プロレスを観ても音楽が鳴る。アニメにもドラマにも劇中歌や主題歌がある。いつも1人で歩いてた……そんなの泣いちゃうに決まってんじゃん、というタイミングで主題歌を流す演出に、ああ、泣いたりしたもんだね。いまもだけど。
 youtubeで楽曲を探しているときに、なんとか規約をすり抜けようと、原曲を1.5倍ほど速めたものがあって、試しに聴いてみると男声が女声になっていたりして、パラレルワールドみたいで面白い。drum n bass、ドラムンベースって読むんだけど、ドラえもんドラムンベースというのがネットにあがっていて、のっののののっびたくんくんくんくくくん、みたいな感じで声が行ったり来たりして、台詞が間延びして、前後左右にたゆたうことになる。これも音楽なのか。
 ラッパーが集まると、韻タイムというのがあって、特に決まっているわけじゃあないんだけれど、だれかが「机、椅子」みたいなことをつぶやくと、いままでおしゃべりに盛り上がっていたのが急にしじまの夜のように無音になって、母音の「uue,iu」にあわせて「震え聴く」とか「救え犬」とか「踏むで汁」とかライム合戦が始まる。
 韻を踏むとなんでこんなに気持ちいいんだろう。バースを蹴るだの、バイブスを感じるだの、フローに乗るだの、いいよね。俺がレペゼン、みたいな感じ。ワックなMCでも、ソウルとテクニックで音楽を響かせようとする兄弟の感情にエモいなにかを見つけるよ。今回のタイトルも、こっそり韻を踏みましたとさ。
 そうなってくると、mp3の音楽は退屈で、デジタルのモノクロ写真みたいで、でもそれが逆に、安定したい気持ちのときにすごくちょうどよかったりして、シャッフルみたいな機能があって、題名が言われないことの安心感というか、コンサートとか、ライブとかは、どうしても題名が言われるから緊張する。クラブで連続的・連結的に流されるアニソンなんか、もうどこが始まりでどこが終わりかわからなくて、曖昧で、あやふやで、著作権もあやふやで、それはゲフンって感じだけれど、そういう夜が欲しいときって、やっぱりクラブだったり、シャッフルだったり、mp3なのかなあ。レコードもいいかもね。
 mp3のマンネリズムの響きに身を委ねながら、異化された音楽に思いを馳せる。すべての環境がディスクジョッキーなのかもしれない。いまここで叩いているキーボードも、打楽器みたいなもので、唯一無二の音楽を流してくれている。脳内のことばがキーボードのビートに誘われてここに押し込まれる。打ち込まれる。レム、睡眠は明け方やむ。Come, 寒いから終わる。

記事のまとめ(随時更新)

ブログ

2017年の目標:奇跡(cud)を信じること、冒険のなかで肯定すること、夫婦を越えてゆくことポーランド語の"cud"が持つニュアンスを2017年の生きかたに籠めてゆきたいという話)
『私、白いものに目がないので』――乃木坂46・堀未央奈のコメント(堀ちゃんのコメントが異常という話)
『真贋を見極めることってそんなに大事なことなんですか』という問いで殴られた話(古美術のひとの講演会に行った話)
140字小説レビュー:『雨谷ハル』を変奏する――物語に『こくご』を宿す作家(ぼくの大好きな雨谷ハルを「こくご」という懐かしの概念で分析してみました)
こんな風に音楽に噛んだ罪――街中の音楽を愛せるとき
【身内ネタ】アドベントカレンダーの説明を始めます
ユニクロに向けられた文春砲の、たったひとつの卑怯な点
あんなにCMやってるのに、重要なことは教えてくれない(だがこれが消費者契約か)
プレゼントとか、おめでとうとか、そういうののむずかしさ

ことば

アシモト、車輪ということばの選択肢のひとつ
1ビットで使えることば
過去に貢ぐ
『ともにある』はそんなに悪い和訳だろうか
カラオケは作家のストレス発散になりえるか
『万障お繰り合わせの上』を気づく――推定した気になっていた相手のストレス(不要だと思っていた言葉の効用に気づく)

思索・考察

『付き合う』とは、恋人同士がたがいにありもしない他者を想定することである
デートを考える――再納得・傾向性・身柄(デートという言葉について考える)
『同じ愛し方』に悩むひとたち――恋人を格付けすると『添えなさ』に気づけなくなる(同じように恋して、同じような恋愛ばかりすることの問題)
もっとローコンテクストで愛してもいいんじゃあないか(広義の恋人というのがあるのではないか、愛はもっと即席でもいい)
ぼくは女性を『顔』で選ぶよ、という価値観=好み=趣味の言い訳を始めます(改めて顔とはなにか)
いま現在の、ぼくなりの、恋バナ――『好きなんだから仕様がない?』(好きという言葉の選択肢を考えてゆく)
『匿名だと本音を言う』という思い込み=期待について(インターネットで本音を言ったことなんてあるだろうか。鍵アカウントのほうが不自由ではないか)
大切なひとの前に出てゆき、なにかを本音として語るということ(本音なんてないけれど、本音として言わなければならないことはある)
せめて友だちのことぐらいは翻訳できるようになりませんか(言葉じりを捉えるだけでは不十分だ、きっともっと丁寧にできる)
強引な言葉遣いに私の想いが沈むとき――決めつけることについて(それって結局「好きな人」のことだよね、みたいな決めつけに抗う。「保護者」ではなく「後見人」でありたいという気持ち)
実現不可能な感嘆と付き合う(言葉は単なる無内容の感嘆である場合もすくなくない、感嘆として出てきた言葉を真に受けないこと)
相談に乗ることの困難さ――『わかる』ことの支配性を自覚できない未熟さを出発点に(「わかる」という言葉はあいての言葉を黙らせる)
幻想だからなんなのか、形骸化だからなんなのか――相手のことばにひたりつくこと(排除したいものの前でふんばってひたりついてみること)
ちがいすぎることなんてあるだろうか(ちがうことを強調したくなるときはどんな気分のときだろうか、ちがうと言えるときはおなじとも言えるはず)
ぼくたち、わたしたち、いまが、旬です!――リスクヘッジがリスクになることもある(リスクを避けることのリスクを思い出す)
じぶんにとって都合のよい黒白思考は悪だろうか――『わがまま』を考え直す(わがままであることでお互いが楽になることもある)
『興味ない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?』――正論風感情論に共感したがる女、刺さりたがる男(感情論を感情論としてしっかり認識すること、ディスコミュニケーションへの共感をためらうこと)
『私が正しくて、あなたが正しくない話なんですけれど、大事なことなんで聞いてください』――そんな話を誰が聞く? あるいは近視眼的な啓蒙活動と対話の場を劈くこと(啓蒙的な活動をしているひとたちの哲学の無さについて)
ありのままとは、原状なき回復のことである(ありのままという言葉について考える。急いだので雑になったが要するに「ありのまま」というのは元々の自分というイメージにこだわることではなくて、オリジナルにこだわることなくて、どんなときでも心が折れないよう回復できることである、という論旨)
はっきりしないではっきりすることで生じる詩的な態度(どっち付かずでいるということについて、ボブ・ディランのスピーチ)
『専念してください』と言い続けること(だれかになにかをやらせるということに責任はあるか)
誰かに何かを伝えたい気持ちは、全くなんでもない気持ちである("nothing at all"な概念を自問する)
"game"=肉(?) 『バイオハザード5』と『いのち』――自然のなかで交換不可能になってゆく自己(「いのちは大切である」という精神的な話をどうやって現実と突き合わせるか)
星座は星より善いものか(星座を認識することと星を認識することのちがい)
だれの目を通して世界を見るか(気づけば気づくほど、親の価値観で考えてしまっていることばかり)
あまりになにをどうすればこそ、なにをどうできるようになるのだろうか(異化について)ブレヒトの異化という発想を作り出すための抽象的な合図)
敬遠申告制について考える

連載

まいにち漢語で気取ってる〈1〉はじめに、唐揚げの入っていないことが"遺憾千万"たりえるか("中国語"なんてない、漢文の素養)
お引っ越し日記:〈1〉引っ越しの条件を枚挙しながら《ちょうどよさ》を探求する(引っ越すということをできるだけ細かくスケッチしてゆく)

【まとめ】

読んだ本の一覧(2017/01/29~)
これまでに寄稿した作品(あみめでぃあ、みんなでしんがり思索隊、AMUNIS、かこけん、PASHADELIC)