近況報告

 正直、いま抱えている仕事が多すぎて、こんなの書いている暇さえないのだけれど、書いておかないと後悔するので書いておく――みたいなだれへの弁解なのかさえわからない弁解を置いて話し始めよう。

 雑誌『OWN 2017 AUTUMN & WINTER号』に、作家の阿川佐和子さんのインタビューが載っていて、そこに「結婚? この人といると悩みが半減する、そういう存在がいることはいいこと。楽しいことはもちろん、辛いことも分けあえる。夫はお皿も洗ってくれます(笑)/……イライラしやすい性格が、横から冷静に見られている感覚がある。キーッとなっている時にふと、"私だけ道化みたいだな"と思わせる存在でいてくれるのでありがたいです」と書いてあった。ぼくにとって、語義の広狭を問わず好きなひとというのも、まさにそんな存在だなと思う。

 スーパーで買った安い肉塊をステーキにし、オニオンソースをかけて食べるだけのワイルドな食事を済ませ、雨のなか遠くのコンビニ(お散歩ファミマ)まで出かける。よほど来たかったのか、うきうきする彼女とメッシの目の焦点が合っていないことをディスカッションし、あたたかい飲みものが並ぶエイチエーピーピーワイなコーナーで息止めて見詰めていたら(©泉まくら)、紅茶花伝が好きだという話になって、最初に会ったときにその話を聞いたなあと思って、覚えていることを告げると泣きそうな顔をしていた。おのおののおたたかいものを買って用事を済ませ、ふだんの道ではなく、さらに奥まで歩いてみる。データベース型の人間だ、ということをあらためて認識しながら、家族の話をする。家族の話はどれも大きな悩みだが、それが半減する存在、という阿川佐和子さんの言う通り、半減し切っていた。知らない道を案内してもらうのはひさしぶりで、そういえばここはじぶんの知らない土地だったと教えられた気がした。

 起きてから寝るまで、なんなら食べているあいだでさえ、ずっとしゃべっている。飽きないかと聞かれれば、もしかしたら飽きているかもしれないが、飽きてからがおもしろいと思えるのは彼女の魅力でもある。ふかいところから出てくることば、進歩のめまぐるしい思考ギアチェンジ、もくもくと綺麗好きなところとか、だらだらすることへの適応力とか、まあそのたエクストラいろいろ。

 依然解決策不明の問題は山ほどある。さいわい、ツケはまとまってきた。コントローラブルな流束になってきた。たとえていうなら、「リードがリードとしての機能をほとんど保てていない犬の散歩」のようなところ。つないではいるし、いざとなればこちらのものだが、いまはリードする側が引っ張られている、という状況。よのなか白か黒かではない。リードなのにリードされたりする。犬のリードというのは、あくまで最終的な結果論でしかない。あるいは使用者の理想論。だから名詞だけで思考すると、その中身がわからなくなって極論かメンヘラか自己嫌悪になる。

 大問題は部分的に解消できない、と、前回の近況報告で言った。だけど部分的に停止スペースはつくれた。いま言えるのはそれくらいだろう。引越しの準備は遅れている。金の問題もあるが、片付けに時間を割けるとき必ず雨が降っていて、ちょっと都合が悪い。晴れていないとできない作業が、意地悪な七並べのように底止していてやるせない。

 20人ほどのプロの写真家の「ことば」を代理する仕事が来た。あまりに責任が重い。ひとりの人間が引き受ける重さではないかもしれないが、じぶんに合っているとも思ったので引き受けた。訳文に惹かれたひとが美術翻訳の依頼もしてくれた。うれしいことだ。ネイティブに英語ライティングをべた褒めしてもらえたし、チェックもどんどんしてくれると言ってくれた。ひとに助けられているし、ここで見止められはじめている。

 悩みが半分になったおかげでツケにまで手がのびたのだろうし、いい仕事もできるようになってきた。そのツケがこんどはなかなかしんどくてオセオセムードにはならないけれど、目の前のものに実直に向かっていこうと思う。

 姉の離婚の話から完全に無視していたが、なんとか親にも連絡した。引っ越したらしい。

カメラマンの「下心」という概念を使って被写体を支配したい偽善カメラマン

 本人が既に消したツイートを掘り起こしてわざわざ物申すのはフェアじゃない気もするが、先日、「【被写体・モデルさんへ】カメラ持って若い女の子撮ってる男性カメラマンはたいがい下心あります。自分でセーブできるか、できないかの違いだけで間違いなくある。フォロワー減ってもいいし、伝えたい男性カメラマンの本音。」というツイートがあった。

 ここには、大きな問題がひとつ潜んでいる――それは偽善カメラマンの独占欲である。前提からいろいろ話さないとならないので、どうか粘り強く読んでもらいたい。

 まず、「下心」というのは「ある」とか「ない」とかで区別されるものではない。「こころ」がだれにだってあるのとおなじで、「下心」だって、「浮気心」だって、なんだって「ある」と言える。この時点で「あるかないか」という議論はくだらない。哲学的には「カテゴリーミステイク」という。

 既に気づいたひとがいるかもしれないが、「○○○には下心があるので△△△である」という形で論じれば、なんでも正しいことになってしまう。この構文をつかうとなんでも正しいので気持ちよくなる。じぶんが真理を告げている気分になれる。

 次に、このような絶対正義の構文をわざわざだれかに向けて使うとき、そのひとはなにがしたいのだろうか。きっと下心が〈ある〉にちがいない、なんていう冗談はさておき、じぶんが信じ込ませたいものを滑り込ませるときに使うわけである。

 冒頭のツイートにかえろう。「【被写体・モデルさんへ】カメラ持って若い女の子撮ってる男性カメラマンはたいがい下心あります。自分でセーブできるか、できないかの違いだけで間違いなくある。フォロワー減ってもいいし、伝えたい男性カメラマンの本音。」という内容だったが、じぶんの言うことを聞かせる相手を「被写体・モデル」に絞り込んでいるのがわかる。

 モデルと被写体は、この人物の「絶対に正しい俺の意見」を押し付けられる。それがもし否定できる形ならまだよかったが、彼は「否定できない形」で押し付ける。男だろうと女だろうといつだってどこにだって「ある」はずの下心を根拠につかわれているのだから、だれも否定できない。

 それを使っていちいち警告するひとは、善人願望をこじらせている。正しいことを言いたいとか、正しい俺を認めさせたいとか、正しい俺の言うことを聞かせたいとか、べつにこのカメラマンだけではなく、そんなのはありふれているが。

 めちゃくちゃな理屈で「男には気を付けてね」と警告して、自己犠牲してますアピール(「フォロワー減ってもいいし」)まで押し付けてくる偽善カメラマンは要注意だが、それ以上に気を付けたいのは、まるで「下心」とかいうものが、もっとも危険なものであるかのように思い込むことである。この印象操作によって、大事なものが晦まされる。

 ためしに「○○があるから危険だ」という構文を作ってほしい。

下心があるから危険だ。
性欲があるから危険だ。
性器があるから危険だ。
事情があるから危険だ。
思惑があるから危険だ。
手足があるから危険だ。
意志があるから危険だ。
知識があるから危険だ。
度胸があるから危険だ。
私怨があるから危険だ。
ノリがあるから危険だ。
カネがあるから危険だ。
腕力があるから危険だ。
善人願望があるから危険だ。
警告欲求があるから危険だ。
独占欲があるから危険だ。
カメラがあるから危険だ。

 これらをどう評価するか――ここに「絶対に正しいこと」なんてない。「男には間違いなく下心がある」は否定できない形になっているけれど、「○○があるから危険だ」の正しさはそれぞれの評価になる。彼がほかのツイートで弁解していた「被害」というのも、まことに曖昧で、ひとつの価値観を押し付けてどうこうなるものではない。だから本来は「被写体・モデル全体に向けて」発信するようなことではないし、それをみんなわかっているから押し黙っている。というか、じぶんで管理している。そこに向けて「じぶんの支配したい形」で訴えかけても、支配できる子が増えるだけであって(ここが重要なのかもしれないが)、警告にはならない。

 リプライ欄を見ればわかるように、「私の彼氏は撮影趣味があってやめられないって言ってました。下心があるんですね、最悪です、わたし傷ついちゃいました」みたいなことを言っている女の子がいる。これが「支配済みの子」である。彼が、この支配された子を今後どのように扱ってゆくかどうだっていいが、じぶんが気に入るなら撮影して、ブスなら相槌で終わるかもしれない。もっとべつの下心や思惑や事情があるかもしれない。そんなのはどうだっていい。

 人間というのは醜い。それはある意味で平等な醜さで、露骨に性の対象としてモデルを扱う醜さとか、承認欲求におぼれる醜さとか、善人のふりして支配構造をつくる醜さとか、それをこうやっていちいち分析する醜さとか、ぜんぶ醜い。最後に考えてみよう、「人間は醜いから危険」だろうか。

 笑っちゃうぐらいどうでもいい。大事なのは、①下心が「ある」としてなにかを主張したり警告するひとは他人を支配したい、②下心が危険度「一位」なわけではない(じぶんの醜さを隠すために「下心」のインパクトを利用するな)、③危険かどうかはいつだっていろいろな要素を考えるしかない(ひとつだけ危険であるという価値観はむしろ危険)、この三つだろう。

 みんなが楽しく写真とれたらいいね。

報告力の低い近況報告

 『Get Navi 2017年11月号』に「あの懐かしスイーツ いま味わうならコレ!」という特集が組まれていて(構成:保谷恵那、文:中山秀明)、そこに「いまでも全然"フル"くない ベルギーワッフル」という小見出しがあり、ギャグを理解して、深めに笑ってしまった。

 そのとき、ふと、(あ、俺……疲れてるな……)、と感じた。そうだ、疲れている。あんまり好きなことばではないが、変に懲罰的になっても仕様がない。たしかレヴィナスは、疲労のことを「私が存在から遅れること」だとした。このブログのタイトルでもある「イリヤ(il y a)」というのは、「それがただある」という意味である。ぼくらは「ある」を余儀なくされている。世界は「ある」で埋め尽くされている。だけど、ぼくの「ある」は交換できない。引き受けるしかできない。でも重くて、引き受けたくなくて、そうやっているうちに、〈私〉は遅れてゆく。「ある」ということから遅れてゆく。それが疲労とか倦怠感だとレヴィナスは説いた。

 わかるというか、そのとおりだなあと感じる、ここ最近。ほとんどだれにも話してないが、船の舵を切った。「らぎさんはいつも切っているのでは」とツッコまれそうだが、ぼくをよく見てくれているひとでも「それは主舵いっぱいだね」と言ってしまうレベルで改革した。そして当然のごとく、向き合いたくないものがたくさん出てきたので、存在に遅れたのではないかと感じる。

 たっちゃんと大阪に行った帰りの、京都駅から高速道路にむかっているあいだ、「おめえもじぶんのこと大切にしろよ。考えてないように見えんだよ。いや考えてんだろうけどよ、そうじゃなくて、なんつうかな」ということを言ってもらった。じぶんに言うべきことばというのは他人からしか言ってもらえない、というラカンの教訓どおり、ぼくはじぶんを大切にしていなかった。問題は「大切にするとはどういうことか」になるが、彼のことばのテロスtelosは、世間的なものじゃないと思っている。つまり、帰ってこれる程度の不幸でやめておけよ、というニュアンスを補完して完成する。

 不幸を引き受けた人間が苦手とするのは、ほどほどの不幸で見切ることである。損切りと言えば近いが、とにかく下り途中で下るのをやめるのがむずかしい。当時のぼくはそれができていなかったし、そもそもする気もなかった。徹底していたし、大切にしていなかった。そういう生きかたをあとからどう評価するかむずかしいが、徹底していたからこそ言ってもらえたことばがあるとすれば、それはそれでよかったのだろうと思う。

 「だれでもわかること」だろうと、それはだれかに言ってもらわねばならない。そこが人間の面倒くさいところでもあり、おもしろいところでもあるのだが、とにかく言ってもらえるところまでやらねばらないとは思う。そういうふうに考えれば、ぼくがやっているのは「言ってもらうための旅」でもある。陰口で言ってもらえることがおおいので、まあ、いろんなかたからいただく「だれだれがらぎさんのことをこう(悪く)言っていた」みたいな告げ口で知ることがおおいのだけれど……苦笑

 数年にあるひとに言われたのが「らららぎコンプレックスのひとらが直接言えずにいるだけ」という分析で、つい最近またべつのひとに言われたのが「周りのひとが畏怖している、恐れっていうより畏れ」という分析で、なるほどと思ったが、畏れながらも(?)ぼくになにかを言ってあげようと陰で(ちゃんとぼくのところまで伝わるように)言ってくれているのはとてもありがたいと思った。いいひとが周りにたくさんいて、みずきちゃんがつぶやいていた「周りに広義の(かつ)総合的なイケメンしかいない」みたいなやつを、ぼくもよくよく感じている。

 おおきく脱線したが、物書きとしてのキャリアと、住まい(=家賃と場所)と、職(=収入+労働時間)と、家族と、恋愛の大問題が同時に来ている。唯一わかることは、どれかを部分的に解消することができないということである。だから自己変容を余儀なくされている。そこには、過去の引き受けた不幸の「後始末」も残っていて、それがぼくを遅らせる。チアーズでアイドルにハートを送っても癒されえない「神なき救済」を要請されている、ぼくが、ぼく自身に。

 いい疲れであるが、わるい疲れでもある。ひどく人生的な疲れで、ひどく〈あの日に言われた通り〉の疲れである。わかってたんだけど、なんていう自己侮蔑をこっそり含んだ反省的な言い訳はしないつもりでゆきたい。自己嫌悪というパンを細かくちぎって食べるような趣味はない。なにをすべきだろうか、なにを考えるべきだろうか。いまはぼくのなかにあるきれいごとを、伏せながら大切にしてゆきたい。何か月後、あるいは何年後になるかわからないけれど、家康みたいに「ざっと、済みたり」なんて言えたらかっこいいなって思うんだよ。

 ひとまずは、蔵書で焚き火でもしながら、トルストイが寓話した、あの「人間に必要な土地」に関する問いでも考えようかなと思う。

姉の離婚

 めんどうくさいことに、なんて言えば他人事になってありがたいが、こりゃまあめんどうなことに、姉夫婦が離婚したらしい。「らしい」というのは、一切の連絡もシカトしているので裏が取れていないという意味でしかない。ぼくはすこし古い考えだから「子どもが三人もいるのに」という反応をしてしまいがちだが、いまどき「面前DV」なる概念があって、子どもの前で喧嘩するぐらいだったらすっぱり離婚したほうがマシなのかもしれないとも思う。

 姉が結婚したときも、ぼくはシカトしていた。離婚するだろうと思っていたので、無責任に「おめでとう」なんて言ったら、その世辞にぼく自身が参ってしまうから言わなかった。案の定、離婚する展開となり、さすがに「ほらね」なんて言えないし、子どもが三人もいるのに離婚の方向に進むとは想定していなかったし、なにを言えばいいんだろう、と悩んでいる。

 ロゴセラピーよろしくことばで癒しを与えることができればよいのだが、いまのぼくの状況では、物申すためのことばしか出てこない。なにがいけなかったか指摘するぐらいしかできない。最初から冷めていたぼくには、姉の離婚が、まるで異国の悲劇にしかみえない。セリフもわからなければ、登場人物のテンションにも同調できない。こういうとき一緒にうぇんうぇん泣けたらどんなに楽なんだろうと思うけれど、子どもたちの置かれた境遇と、じぶんの過去を重ね合わせて自慰行為のように泣くぐらいしかぼくにはできない。情けない。

 うちは親が離婚して、姉夫婦も離婚していて、ため息しかでない。好きじゃなくなっても、そのひとと一緒にいたいって強く思えるなにかがなければ、勘定の残高も燃料も底を尽きる。年収で選んでもいいし、ルックスで選んでもいいし、居てほしいときにそこにいてくれたみたいな理由でもいいけれど、見抜かなければならないのは、相手の条件とか今日明日の承認欲求ではなく、じぶんの長い長い承認欲求と許容欲求だろう。技術が進歩して、これからどんどん時間と距離の関係が変わってゆく。時間は相対的に長くなってゆく。そのなかでどう相手をリスペクトする。同じ相手とどう承認しあってゆく。考えなくともできるひとは素晴らしいが、考えないとできないなら考えるしかない。理想論を懲罰されてもなおやまない理想を心にはぐくめ。

 というわけで、なにがつらいのかダラダラ書いているうちにわかってきた。子どもの境遇が1/3、悲劇に同調できないのが1/3、どの家族も離婚するんじゃないかというオーバージェネライズの拒絶が1/3。わかればなんてことないが、わかったところで結構つらい。

「御守り」と「迂闊」について

 御守りは、売るのではなくお分けするのだ、という話がある。御守りがモバイル神社だから、というのが理由らしい。神社をいつでも意識するための道具で、いわば「グッズ化された信仰(的な精神)」なのだが、比喩だとここが強調される。たとえば「御守りとして幼少期のハンカチを持っている」というのは、モバイル神社や神道の意味が捨象され、信ずる気持ちがグッズ化されたものを言う。信じた気持ちを物体にする。宿す。託す。それってどういうことなんだろう、と考えていたら、なんとなくようやくわかってきた。あみめでぃあ用のメモランダムとして残しておく。

 気持ちを、物にする。気持ちよりも物のほうが意識しやすいからだろう。「あなた」を愛するよりも、「あなたの身体」を愛するほうが簡単だ。もちろん「あなたの身体」は死んだり変形したら失われるので脆いが、それでも「あなた」よりもずっと〈あなた〉を意識しやすい。

 最近、タウリン3000mg的な栄養ドリンクを鞄に忍ばせている。もちろん実際に飲む日もあるのだけれど、飲まずに終わる日のほうが多い。それでも必ずといっていいほど、栄養ドリンクを持ち歩いている。これがなにかよくわからなかったが、なるほど、御守りということだろう。「わたしの健康」を意識するよりも、「わたしの健康を支えている物」を意識するほうが容易い。そのちょうどいいものとして、栄養ドリンクが選ばれている。鞄のなかの栄養ドリンクを感じることで、わたしは健康になる。

 その本質は「マインドセット」だろう。そんなビジネス心理学用語みたいなもので表現した気になるな、というのであれば、「周到」あるいは「非-迂闊性」「手落ちのなさ」である。迂闊というのは、とおくをまわること(広くよこしまであること)という意味で、行き届いていないことを示す。比喩としての御守りは、行き届かせるものである。栄養ドリンクをもつことで、健康に対して迂闊でなくすることができる。疲れるものへ否を唱えることができる。あるいは疲れることに対して(心の=非邪な)用意ができる。

 迂闊というのは、どこにでも転がっている。細かく自己点検すれば「迂闊だった」ことなんていくらでもある。そのなかでも大事なことには、御守りをつくるのがよいだろう。スマートフォンもだれかにとっては御守りだろうし、書籍だってそうだし、ヘッドフォンだってそうだ。ラッパーにとってはMICだろう。給料明細書が御守りになることもあれば、ちょっとしたレシート、写真、工具、テレフォンカード、恩師からもらったプリント、むかしの生徒手帳なんてものも、なにかのマインドセットとしてあるかもしれない。

 うかつに健康を始めない。うかつに安全を始めない。うかつに出産を始めない。大事なものは、かならずなにかを通して、介して、心を行き届けてから意識しはじめるのがよいのだろう。その焦りは大敵なんだ。うかつな効率化も危険だ。いそいそとうかつに家事をはじめるまえに、「家事の御守り」を介してから家事をし始めるのがよい。勉強も、研究も、そうだと思う。

病気を他の病気に置き換えるやつはもう終ろう――穂刈けあきさんの「癌=メンヘラ」アナロジーについて

『メンヘラは癌』作・穂刈けあき
https://note.mu/hokarikeaki/n/nc47a0d9c0ddb

※上記の作品を踏まえております。
※ぼくの記事のスタンスは「そういう表現をするのは自由だし、じぶんのことよく理解しながら描いていて素晴らしいなって思うし、メンヘラのワンタイプを漫画形式でわかりやすく表現できていると思うけれど、もし『メンヘラのためをおもって』やっているならその表現はよしてくれ。その表現はじぶんを突き刺す自傷のカッターだ」という言葉狩りです。
※偉そうに書いていきますが、ぼくが絶対に正しいなんてことは思っていません。それはいつだって大前提なのですが、たまにわからないかたがいるため明記しておきます。


 メンヘラを(うつ病に関連させて)心の風邪ということもできるし、癌ということもできる。メンヘラをどうでもいいと思っているひとは風邪のほうにひとまず賛成し、メンヘラを一大事だと思っているひとは癌のほうに賛同する。だが、そのアナロジーはきわめてナンセンスだと言いたい。つまり、メンヘラはメンヘラだ。風邪が癌ではないように、あるいは結核月経前症候群ではないように。ハマチがウニではないように、パフェがシュークリームではないように。アコギがサックスではないように、インコがワシではないように。

 たとえば、よほど訓練しないかぎり、男にとって月経前症候群は風邪「以下」である。そもそも婦人病全般、なんなら男だってなるかもしれない乳がんでさえ、男にとっては風邪ほど大事ではない。保険教育で習ったか、たまたまテレビやツイッターでみかけたか、カラダについて語りたがる女性誌を読んだか、世話好きな女子から教わったか、ときどき感情的になる彼女のことを知恵袋で相談したか、症状をピンポイントで検索してみたか、彼女が自己申告してくれたか、そういうことでもないかぎり、まずもって月経前症候群の価値は風邪にも擦り傷にも満たない。(後述するが、教わったところで基本は変わらない。希望的に言えば擦り傷「以上」にはなるかもしれない)

 ここで「風邪>月経前症候群の男は正しくないか」という問いをたててもしかたあるまい。価値というのはいつもそういうものだ。ぼくが腐葉土の大事さを熱心に語ったところで、あなたの「米1kg VS 落ち葉1kg」は、米のほうに軍配があがることだろう。それは悪いことじゃあない、そういうものなんだ。落ち葉が「人間と同じ重さの生命を持っているはずの甲殻類」の住処や脱皮場所になっていることを説いたとしても、米が勝るにちがいない。「甲殻類だって人間とおなじ生き物で!おなじ重さで!それって重大なんですよ!」と熱心に訴えかけても、それがおなじであることが運よく理解されたあと、そのひとの価値判断によって優劣がつけられてしまう。何度も繰り返すが、そういうものなんだ。

 病気を知ったところで、そこに価値を見出さなければ「月経なんちゃら病なんだろ?つまり病気ってことなんだからクスリかなんかで治せよ」という話になる。アバウトな軽視が具体的になるだけでなにも変わらない。「甲殻類は脱皮したいだけでしょ、俺は米を食わないと生きていけないから」というふうに米が選ばれる理由が強化されるだけである。

 穂刈けあきさんが指摘するように、たいていのひとは、癌の重大性なら気づける。「風邪>癌」という式をたてることはむずかしい。大事なのは、それがなぜか、である。癌がコツコツじぶんの価値を高めてきたから(主に西洋で)、癌はトップレベルの位置にいる。ここを見落としてはいけない。そこに努力もせずタダ乗りで割り込んできて「癌=メンヘラ!>>>>風邪」を押しつけるのはナンセンスだと思う。いちいち差別をするから、差別し返される。メンヘラが癌だと言いたいひとは、どこかでメンヘラは「風邪以上」だと思っている。メンヘラは「酒癖以上」だと思っている。メンヘラは「夜尿症以上」だと思っている。

 そんなことはない。癌が癌でしかないのとおなじように(というか癌にもいろいろあるがそれはおいといて)、内部障害内部障害でしかないのとおなじように、風邪が風邪でしかないのとおなじように、メンヘラはメンヘラでしかない。もちろんそのすべてに「というかそれ自体にもいろいろあるがそれはおいといて」という注釈つきで。

 いちいちメンヘラをほかの病気でアナロジーしようとするのは、せっかくメンヘラという病気の価値をあげようと努力してきたひとたちに水を差す行為である。いや、それ以上に、「あ、癌ってメンヘラみたいなもんだったの?」という認識(もちろん誤認識)さえ与えてしまいかねない。癌のほうにも変な認識を与えかねない。アナロジーはいつも誤解と誤認識の危険を伴っている(というかむしろ、誤解と誤認識を利用するワザだ)。

 余談だが、もちろんアナロジーをつかってきたやつを論破するのにも用いることができる。たとえば「メンヘラなんて風邪と一緒だろ、おまえが怠慢なだけなんだから休まず出社しろ」とか言ってきた上司がいたら、「メンヘラは風邪、ならば風邪はメンヘラですよね。あなたのお子さんが風邪を引かれてもそれはメンヘラとおなじ怠惰や怠慢のたぐいですから学校に行かせるってことですよね。お子さんが学校で、風邪なのに怠慢とか言われて登校させられた、と友人や先生に報告しましょう。あなたはその友人や先生方に、どのような説明をなさるつもりでしょうか」と殴り返すこともできる。アナロジーは、これぐらい危なっかしいのである。

 癌(の功績)にタダ乗りすれば、話をたくさんたくさんたくさんたくさん(西洋医学の歴史で言って実に300年分ほど?)ショートカットできる。しかし、それが善いことかどうかの話をすっ飛ばすのはあまりにも危ない。何度も繰り返すが、メンヘラはメンヘラだ。それ以外ではない。そこから話を始めなくてどうするのか。面倒くさいかもしれないが、作中でメンヘラと同列に並べられた「癌」だって面倒くさいことをたくさんやってきたのだ。

 T-Pablowさんの「けど本当に大事なのは広めることよりも広めかた、金稼ぐことよりも金の稼ぎかた」というリリックは、ひとつの美学的な価値観でしかないかもしれないが、基本に立ち戻るための合言葉にもなる。すでにめちゃくちゃな広まりかたをしてしまった「メンヘラ」というものを、再度つかみなおすチャンスを、ぼくらがメイキングしていかなければならないのではないかと思う。

ゆとり世代のラグーンから飛びだす

 ゆとり世代はひとのせいにする――そう見えてもしかたないと思うところが(多々)ある。だからといって、それがすべてゆとり世代のせいなのかと問いたい気持ちもある。不毛な世代論を抜きにしても、いまの時代、あるいはここ十数年、「生涯をすごす」とか「キャリアを積む」といった概念に、とびっきりの魅力があったかどうか、とても怪しい。

 人間は「どの選択をしても悪影響がある」場合、意思決定の権限をだれかにゆだねる。ゆとり世代にとって、生涯だのキャリアだのの先にあるものは、どれも評価の低い旅館みたいなもので、このなかから選ばなきゃいけないのか……といったメランコリーが平等に配られている。

 ゆとりは怠惰にみられがちだし、実際、そのように認識されていると言える。だが、もしゆとりの目の前に「星五つ」の旅館ばかりが並んでいたら、元気よく、ワクワクしながら、主体的に選び始めただろうと思う。バブルへの当てつけで言っているわけではないが、選びたくないものしか並んでいないとき、ひとは怠惰になると相場で決まっている("Passing the Buck: Delegating Choices to Others to Avoid Responsibility and Blame," by Steffel, Williams, and Graham)

 ここから、悪循環にするかどうか、ゆとり世代が決めることになるだろう。レビューの低い「生涯」をまえに、それでも魅力的に選びとり、次の世代のためのレビューを築くか、やはりひとのせいにして、文句を言いながら低いレビューをひたすらつける旅に出るか。

 ぼくらは、どちらも選べる。どちらかになることを選択できる。A案「割を食って露骨に責任転嫁する」のか、B案「不平不満の壁で隔離されたラグーンからあがって自由な大海の魅力を探検する」のか。

 もしB案を選ぶなら、じぶんのラグーンがどこまで広がっているのか、知るところから始めなければならないだろう。